コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
石川県警捜査一課、井浦《いうら》警部補は回転椅子の背もたれに寄り掛かり一回転した。
「どうだ、お嬢ちゃんのモンだったか」
「指紋一致しました」
「やっぱりか」
「井浦さんの野生の勘ですね」
「人をワンコ《警察犬》みたいに言うんじゃねぇ」
指紋スキャナーの前に座っていた警察官は首を縦に振った。<鳥越コテージ殺人事件>の関係者とみなされた 青 は警察の任意同行を求められていた。ところが再三の呼び出しにも応じなかった為、不審に思った井浦の独断と偏見によりその行動は常に見張られていた。
「誰だ、あの女」
「初めて見る顔ですね」
突然マンションに現れた女性は玄関先で 青 と遣り取りをした後、隣の珈琲店に入店した。
「女が珈琲店に入りました」
「店ん中で待て、お嬢ちゃん が出て来るかもしんねぇ」
「了解しました」
井浦の予想は的中した。 青 はその女性と珈琲店に1時間程滞在、サラリーマンを装った2人の警察官は 青 が利用したマグカップを回収、それは科捜研に持ち込まれた。そして今回、コテージの暖炉で発見された凶器と思われる火かき棒に付着した《《住人ではない》》指紋とマグカップから採取された指紋が一致した事により 青 は重要参考人に指定された。
「仲良し2人組の兄ちゃんの居所は」
「掴んでます」
「裁判所に蒼井 青 の逮捕状を請求しますか」
「そうだな取り敢えずマンションの内覧会でもすっか」
その頃 青 は週間ヴィヴィに指定されたフォトスタジオでカメラバッグのファスナーを開いていた。
濃紺のバックスクリーンに286cm×382cm程の透明な浅い水槽が中央に配置され、その中には微温湯が張られた。プールの周囲には、菫《すみれ》、芥子《けし》、ひな菊、パンジー、薔薇、金鳳花《きんぽうげ》、柳、野薔薇、ナツキソウ、蕁麻《いらくさ》、溝萩《みそはぎ》、勿忘草《わすれなぐさ》などの生花が配置された。
「ミレーのオフィーリアですか」
カメラを構える 青 の背後に初老の男性が声を掛けた。
「ーーーどちら様でしょうか」
「オフィーリア、エロティックでもあり殉教者。蒼井拓真を信仰し、ご自身を捧げたあなたによく似合いますね」
「ーーーどういう意味でしょうか」
青 が眉間に皺を寄せると九重百合香がその間に割って入った。
「佐原さん、こちらスポンサーの紺谷信二郎さんです」
「紺谷、信二郎」
すると一枚の名刺が差し出された。
「 object《オブジェクト》 紺谷組の紺谷信二郎と申します、佐原 青 さんのお噂は|予々《かねがね》」
「予々、蒼井からなにか」
「あぁ、そうでした。蒼井さんと《《同居》》されていらっしゃるんでしたかな」
青 の形相が険しいものになった。
「まぁ、口が軽い職員もいますから」
「ーーー色々とご存じのようですね」
「私共、以前から佐原 青 さんの写真には興味がありましてね。ただ、なかなか表舞台に出ていらっしゃらない」
「もう撮っていませんから」
「写真界の重鎮や四方八方に手を尽くしましたが《《素人に毛が生えたような》》カメラマンの代作者に甘んじて居られる。これは由々しき問題です」
「フォトグラファーAOは蒼井拓真です」
「いやいやいやご冗談を。蒼井さんが撮られた写真と佐原 青さんが撮った写真を比較すればフォトグラファーAOの作品が誰のものか、歴然です」
紺谷信二郎は一枚のクリアファイルを 青 に手渡した。
「ーーーこれ、は」
「object《オブジェクト》 紺谷組で売り出し中のモデルで結城 紅《ゆうきべに》です」
「存じ上げております」
「オフィーリア、是非ともこの紅で撮って頂きたい」
「どういう意味でしょう。この方は蒼井の《《専属モデル》》では?」
紺谷は失笑しマネージャー日村を呼び寄せた。
「蒼井さんと紅の関係はあなたを呼び出す為の撒き餌ですよ」
「撒き餌」
日村が名刺を手渡そうとすると 青 は「拝見した事がありますから結構です」とそれを退けた。
「佐原 青 さん、この10年をやり直してみませんか」
「やり直す」
「そうです」
「ーーーやり直せるかしら」
「出来ますとも!簡単な事です!」
「ーーーやり直せるかしら」
九重百合香がスケジュール表を手に横に立った。
「今週の金曜日、正午までに撮り終えて下さい」
「ーーーわかりました」
「来週金曜発売の週間ヴィヴィ、Web版ヴィヴィに蒼井拓真の柘榴と佐原さんのオフィーリア、そして佐原さんがフォトグラファーAOであり、蒼井拓真の代作者であったという記事が掲載されます」
「ーーーはい」
「このスクープ記事で蒼井拓真はお終いです」
「お終い、ですか」
「はい」
「九重さん」
「なんでしょうか」
「拓真の撮ったblos-somの商用写真はどうなるの」
「来週金曜日以降に撤去される予定だそうです」
(ーーーあんなに真剣に撮っていたのに)
青 はYouTubeでblos-somのコンテンツを繰り返し再生した。拓真の横顔は少しやつれて見えるがその眼差しは力強く夢中でカメラのシャッターを切っていた。それは10年前に恋焦がれた《《蒼井先輩》》を連想させ胸が痛んだ。
(ーーー何処で間違えたのかな)
それはあの土砂降りの夜、忍び込んだコテージの庭、寝室の窓、そこで繰り広げられていた悍ましい光景。
(ーーーあの女が悪いのよ)
閉ざされた扉、木の椅子に置かれた花瓶、スノードロップの花。
(ーーー誰にも、拓真は誰にも渡さない)
青 はハムレットのオフィーリアのように現実と狂気の狭間を往来していた。
(あれはなに?)
その時だ。タクシーがマンションに近付くにつれ、車窓から複数人のスーツ姿の男性が出入りしているのが見えた。見上げると自宅の部屋の明かりが点いている。
(まさか警察)
「すみません!」
「はい」
「この先を右折して下さい」
「マンションはこちらですが」
「行き先を、行き先を変更して下さい」
青 を乗せたタクシーはウィンカーを右に下ろして暗闇に消えた。
高架橋を潜ったタクシーの後部座席に寄り掛かる 青 の胸中は複雑だった。蒼井拓真の《《目を奪った》》のは自分自身、蒼井拓真の《《目となった》》のも自らすすんで選んだ道だった。
(今更、佐原 青 になってどうするの)
確かに拓真は 青 を見捨て赤い女を選んだ。然し乍ら拓真と 青 はあの夜を共にした運命共同体だ。
(拓真、私たちは離れられないのよ)
「お客さん、どこまで行かれますか」
「ああ、ごめんなさい」
タクシーは繁華街を中心に円を描くように走り続けていた。自宅に警察官が出入りしていたとなればホテルや旅館は既に押さえられているだろう。
「御経塚《おきょうづか》の24時間営業のカラオケルームまでお願い」
「でかいとこですかね」
「小さいお店が良いわ」
「分かりました」
青 が選んだカラオケルームは金沢駅からタクシーで20分ほどの郊外で、週間ヴィヴィが指定したフォトスタジオからは程近い。
(もう時間がないわ)
あと1日、せめてあと1日。 青 はフォトグラファーAOとして最後の作品を撮る事を決意した。
階段を上って来る足音、扉がノックされた。ルームランプが一つ点いただけの仄暗い部屋、ベッドの上で膝を抱え顔を挙げた拓真の眼は酷く落ち窪んでいた。
「拓真」
廊下に結城紅の息遣いを感じた。拓真が力無く返事をするとドアノブが下がりその気配が近付いて来た。
「拓真」
青いフットネイル、青いカラーコンタクトの瞳が覗き込んだ。
「拓真、警察の人が来ているわ」
「あぁ」
「来て下さいって」
「分かった、すぐ降りる」
軽い音で扉が閉じた。とうとうこの日が来た、ようやくあの10年前の夜を口にする事が出来ると思うと安堵のため息が漏れた。
(ーーー長かった)
ようやく《《佐原 青》》から解放される。階段を降りると厳つい面持ちの二人の警察官が拓真を待っていた。
「えーーー、蒼井拓真さんですね」
「はい」
「夜分恐れ入りますが任意同行をお願い出来ますでしょうか」
「はい」
革靴を履く拓真のジャケットの襟が反り返っていた。結城紅の青いネイルがそれを整えると名残惜しそうにその袖口を引っ張った。
「拓真」
「行って来る」
「拓真、帰って来るよね」
不安気な視線に気付いた警察官が軽く首を傾げ、薄ら笑いで拓真の背中を捜査車両へと促した。
「あくまで《《今夜は》》任意同行ですから」
「そうですか」
「はい」
拓真と警察官が捜査車両の後部座席に乗り込むとハザードランプが右ウィンカーへと変わった。
「ーーー拓真」
エンジン音と共に走り去るテールランプ。玄関ポーチから履き物も履かずに飛び出した結城紅はその後ろ姿が視界から消えるまでその場に立ち尽くした。
金沢中警察署 捜査一課
無造作に積み上げられた書類とファイル、乱雑な机の上の書籍、カップラーメンの空き容器、机と机の間には今は使われていない扇風機が首を垂れていた。部屋の隅には何台もの無線機が充電コードに繋がれていた。
(ーーー刑事ドラマとは違うんだな)
大部屋の一角にやや狭苦しい部屋、いや、狭苦しい訳ではなく目の前で脚を組む井浦警部補と呼ばれた警察官がやや難ありだった。スチールデスクに片肘を突き眉間に皺を寄せて天井を睨みつけ、指先でクルクルと眼鏡を回している。
「あ、この人、いつもこんな感じですから」
「この人タァなんだ」
「すみません」
左後ろでパソコンのキーボードを叩いていた警察官に対しても高圧的でその遣り取りを見ているだけで息が詰まった。
「ほれ、ここに名前と住所、連絡のつく電話番号」
「はい」
ボールペンを握った拓真の指先は震えていた。
「なんだ、寒いのか」
「い、いえ」
「ミミズみたいな字だな、そりゃ8か、3か分かんねえぞ」
「す、すみません」
書類を書き終えると井浦は拓真に向き直った。
「ーーーで、どっちが殺《や》ったんだ」
「い、井浦さん!ド直球すぎます!」
「ちんたら話してる暇はねぇんだ」
「あの」
「ーーーで、なにがあった」
「それは」
「あーーー、悪いが《《あの》》S Dカードの中身は確認済みだ。とんでもねぇな」
「あのS Dカード」
「雑木林の穴ん中にあったカメラの中身だ」
「ーーーー」
「とんでもねぇな」
真っ青な顔、スチールデスクの下で握った拳がガクガクと震えた。
「あ、任意だから無理だったら言わなくても良いんだよ」
「ーーーな訳ねぇだろ!」
「すみません」
拓真は鼻から大きく息を吸い、深く口から吐き出した。
「いえ、話したいです」
「素直だな」
「もう耐えられません」
「そりゃ大変だったな」
そしてゆっくりと目を瞑った。
拓真の耳に届く母親の喘ぎ声、熱をもった下半身、前後する腰、きつく目を閉じても瞼の裏で上下に揺れる垂れた乳房。
「あぁ、たく・・・ま」
鼓膜を揺らす自分の名前「拓真、拓真」それは快感というよりも怖気が背筋を伝い這い上がった。
カシャ カシャ カシャ
《《いつも》》母親は絶頂を迎える間際になると一眼レフカメラのボタンを録画撮影から画像撮影様式へと切り替えた。
「拓真、拓真」
カシャ カシャ
母親は拓真の苦悶の表情を撮る事で自身を昂らせた。
カシャ カシャ カシャ
「あっ、あっ」
赤いネイルが拓真の臀部を引き寄せて爪を立てた。
「・・・んぅ!」
皮膚の痛みに否が応なしに反応する部位、拓真は堪えきれず喘ぎ声をあげて母親の中へと体液を放った。
「ふふふ」
首筋にゆっくりと腕を回す母親。
「ねぇ、拓ま、ぐぅっ!」
目の前に振り下ろされた細長い棒が母親の額に減り込み、母親の形相が変わった。次の瞬間、映写機のフィルムが絡まるようにドス黒い《《何か》》がゆっくりと四方八方に飛び散った。
カシャ
最後のシャッターが押された。その瞬間、拓真の顔面、上半身、壁に勢いよく血液が飛び散りベッドシーツに真っ赤な滲みが広がった。その時初めて母親の額に減り込んだ細長い棒がリビングの暖炉にあった火かき棒である事に気が付いた。
「ーーーーあ、あ、母さん」
飛び出した眼球、母親は微動だにしなかった。目を横に遣るとそこには拓真のストーカーが微笑んで立っていた。
「蒼井先輩」
「ーーー佐原」
スチールデスクに脚を投げ出していた井浦は指先でテーブルをタンタンと突いた。拓真はそれを凝視し肩で息をした。
「まぁ、あのSDカードの証言と似たようなモンだな」
「記憶違いがあるかもしれません」
「人間だからな。まぁ蒼井さんの顔に血が飛び散ったのは間違いない」
「撮れていたんですか」
「すげーぞ、現像も出来たそうだ。見るか?」
「ーーー見ません」
「そらそうだ」
井浦は高等学校の卒業アルバムを取り出すと3年C組のページを開いて見せた。その指先は 青 を指していた。
「佐原 青 、蒼井さんに付き纏っていたのはこいつか?」
「はい」
「まぁ、蒼井さんのお友だちは口を揃えて佐原 青があんたのストーカーだと証言したからな、間違いねぇだろ」
「そうですか」
「話は変わるが蒼井さんが当時好意を持ってた同級生ってーのは覚えてるか」
「ーーー田代ふみ、田代さんです」
「ちなみに田代ふみから鳥越交番に、ストーカー被害届が出ていたぞ」
「え」
「知ってたか」
「いいえ」
「相手は佐原 青 だ」
「 青 が」
「えれぇ女に惚れられたもんだな、ご愁傷さまだ」
スチールデスクから脚を下ろした井浦は眉間に皺を寄せ拓真の顔を真正面から見据えた。
「で、ここからが本題だ」
「ここからが」
「あんたのママの首を絞めたのは誰だ」
「ーーーーー」
「黙秘権てぇのがあるからな、言いたくなけりゃ《《今度》》で良い」
拓真は身を乗り出した。
「私です」
「はぁ?」
「私が絞めました」
微動だにしなくなった母親の上で呆然としている拓真の両腕を佐原 青が力強く握った。
「先輩、私が先輩を助けたのよ」
言葉を失くした拓真は首を激しく横に振った。
「先輩のママはやり過ぎたのよ」
「ーーーたの、頼んでない」
佐原 青 は拓真の手首を掴むとやや皺の目立つ細い首へと導いた。
「先輩と私はもう離れられないわ」
「ーーー頼んで、頼んでない!」
「もう遅いのよ!」
「ーーーヒッ!」
次の瞬間、拓真の手のひらに卵の殻が砕けたような感触が走った。
「もう、離れられないわ」
それからは無我夢中だった。
床に散らばった|学生服《ブレザー》を身に着けたがそれには母親の血液が飛び散っていた。物置に走り雨合羽を被り埃に塗れたブルーシートを棚から取り出した。 青 に言われるままそれを床に広げて拓真が頭部を、 青 が両膝下を抱えてブルーシートの中央に横たえた。
「先輩!床に着けないで!」
「わ、分かった」
後々の掃除が面倒だからと、母親と一眼レフカメラを包んだブルーシートは床に着けないように掲げ挙げる必要があった。力の抜けた亡き骸はコンクリート片のように重く腕と膝が震えた。
「佐原、佐原 青 、力入れろ!」
ところが玄関の階段を降りる頃に形勢は逆転した。女性の腕力にそれは重すぎた。佐原 青 の足元は覚束なくなり「先輩、ちょっと待って」と弱々しい声が漏れ始めた。
「佐原!」
「せ、先輩」
「 青 、しっかりしろ!」
鬱蒼とコテージを囲い込む黒い杉林。雨に濡れた松葉に足を取られながら緩い傾斜をゆっくりと登った。
「ーーーあっ!」
「 青 、力入れろ!」
雨合羽に打ち付ける雨が痛かった。佐原 青 の三つ編みは解けて泥に塗れ、漏れ出した血液がブラウスの袖をどす黒く染めた。
「ちょっと待ってろ!」
拓真は裏庭の倉庫に立て掛けてあったシャベルと懐中電灯を取りに戻りスイッチを押して点灯するか確認した。
(よし、点いた!)
白いライトの線が夜空に伸びた時ふと我に返った。
(ちょっと待て、俺はなにをしているんだ)
視線はコテージへと向けられた。このままリビングに飛び込んで警察に通報すれば良いのではないかとそう思った。然し乍ら拓真自身が母親の首を絞めた事は確かだ。指紋が採取されるに違いなかった。
(それに 青 になにをされるか分からない)
杉林の木立の間で光る二つの瞳に拓真は震え上がった。
(もう、もう駄目だ。逃げられない)
拓真はシャベルの柄を握り締め、足元をライトで照らしながら 青 の元へと戻った。
「ーーーで、二人でママを埋めちまったと」
「はい」
井浦はため息を吐くと眼鏡を外してネクタイで拭き始め、背後の警察官へと声を掛けた。
「なぁ」
「はい」
「死体遺棄ってーーーのは賞味期限があるのか」
「ありますね、3年から10年じゃないでしょうか」
「あーーー、意外と腐るのが早いんだな」
「じゃ、じゃあ私は」
「10年ちょい前なら死体遺棄の時効は切れてるかもしんねーな」
「そう、ですか」
「ただなぁ」
「はい」
「殺人の実行犯と同居ってーのは問題あるかもしんねぇな」
「どういう意味でしょうか」
「あーーーー、なんだっけ」
井浦は襟足を掻きながら背後を振り返った。
「犯人隠避罪《はんにんいんぴざい》か、犯人蔵匿罪《はんにんぞうとくざい》か微妙なところですねーーー」
「ーーーだそうだ」
「はい」
「ただなぁ」
「はい」
「そのストーカー嬢ちゃんが実行犯かどうかが微妙なんだよなーーー」
拓真はその言葉に顔を挙げた。
「し、指紋が出たんじゃないんですか」
「おいおいおい、誰だよ漏らしたヤツは」
「井浦さんですよ、現場で大騒ぎしてたじゃないですか」
「ちっ」
窓のブラインドの日差しがスチールデスクに何本もの筋を作った。キラキラと埃が舞い上がる。
「私は帰っても良いんでしょうか?」
「良いもなにも、なに蒼井さんあんたがママを|殺《や》ったのか」
「いえ、違います」
「なら帰ってくれ、いつまでも此処にいられちゃ邪魔なんだよ」
「あ、この人、いつもこうなんです」
「この人たぁ、なんだ!」
「すみません」
拓真は証拠不十分という事で金沢中警察署捜査一課を後にする事となった。
「まぁ蒼井さんとは近々会うかもな、そん時は宜しく頼むわ」
「ーーーはい」
捜査一課がある3階から下りる足取りは重かった。出勤して来た警察官とすれ違う度に「おまえが犯人じゃないのか」そう言われているようで居た堪れなかった。始業前で出入り口の自動ドアは開いておらず、廊下突き当たりの職員玄関口から出るように指示された。
医王山《いおうぜん》から上る朝日が眩しかった。
(ーーー 青 はどうしているんだろう)
拓真は 青 が重要参考人に指定され、自宅マンションが家宅捜索の対象となっている事を知らなかった。街を走る流しのタクシーに手を挙げると遠回りをしてドムズ犀川のベランダを見上げた。
(ーーー 青 )
なぜだろう、涙が滲んだ。確かに出会いは異様なものだったがこの10年間全てが苦痛ではなかった。
拓真の目は《《私のもの》》
代わりに《《私の目をあげるから》》
そう言って 青 は拓真からカメラを奪い、自身の写真を拓真に与え続けた。
(ーーー青)
ふと思い出す妖しくも美しい 青 の笑顔。
(ーーー青 に会いたい)
確かにこの感情は羽場に指摘されたように監禁監視下に置かれた心理状態で 青 に好意を抱いたストックホルム症候群だったのかもしれない。
(今更、会ってどうするんだ)
青 との10年間、これはもう終わった事だ。拓真は結城紅の待つ object《オブジェクト》 紺谷組のスタジオへと向かった。
「ありがとうございました」
乗車運賃の清算を終え、タクシーの後部座席の扉が閉まるとほぼ同時にobject《オブジェクト》 紺谷組の玄関扉が開いた。
「ーーー拓真!」
柔らかな髪をなびかせて拓真の胸に飛び込んで来たのは結城紅だった。
「良かった、帰ってきて、良かった」
「ただいま」
「良かった」
いや、拓真の胸の中で安堵の声を洩らしたのは結城紅ではなく美由。その帰りを待ち焦がれ浅い眠りの中にいたのだろうか血色が悪い。
「大丈夫か、顔色が良くないぞ」
「拓真も酷い顔よ」
「そうか」
「そうよ」
だが確かに結城紅の顔色は優れなかった。
「美由、本当に大丈夫か」
「だいーー」
そこまで言葉にした結城紅は口元を手で押さえ化粧室へと駆け込んだ。中から軽い嘔吐が立て続けに聞こえて来る。
「美由、おい、大丈夫か!」
返答はなく嘔吐がしばらく続き水を流す音が聞こえた。化粧室の扉を開けた結城紅の顔付きは酷いもので口元を拭う指先も冷たかった。
「美由、胃腸の具合でも悪いのか」
「そうじゃないの」
「薬は飲んだのか」
「薬は要らないわ」
拓真が不思議そうな顔をすると結城紅はその手を取り自身の下腹へと導いた。
「柘榴石のお守りが効いたの」
「柘榴って」
柘榴石《ガーネット》が光る左の薬指を掲げた。
「拓真、柘榴の花言葉はなにか知っている?」
「花言葉はあまり好きじゃないんだ」
「そんなこと言わないで」
「ーーーごめん、忘れた」
「子孫の守護」
「どういう意味?」
結城紅は拓真に「少し屈んで」と耳元で囁いた。
「赤ちゃんができたの」
「ーーー本当!?」
「生理が来ないから調べたの、2ヶ月だって」
「ええ、信じられない。この中にいるの」
「いるのよ」
拓真は一瞬戸惑ったがその口元は少しづつ緩み始め、それはやがて笑顔となり結城紅を抱きしめた。
「パパになるんだ」
「そうよ」
「驚いた」
「私も驚いたわ」
「美由がママ、想像つかないな」
「私もよ」
頬を擦り寄せた2人は幸せそのものだった。
「いやだ、髭が痛い!」
「あ、ごめん。今剃るよ」
拓真は結城紅を庇うように階段をゆっくりと上った。
そして3人の姿はobject《オブジェクト》 紺谷組のミーティングルームにあった。人払いをしたマネージャー日村の表情は硬く、顔色は青ざめていた。
「紅、それは間違いないのか」
「ーーーはい」
「聞き難い事なんだが蒼井さん、心当たりはあるのか」
「申し訳ありません」
「あるんだね」
「はい」
日村は膝に肘を突くと頭を抱えてため息を吐いた。
「ーーーで、紅はどうしたいんだ」
「産みます」
「紺谷さんが堕ろせと言ったらどうする」
「事務所を辞めます」
「紺谷さんが手を回したらモデルを続けられなくなるぞ」
「その覚悟はあります」
結城紅の鋭い目付きには揺るぎのない意志を感じさせた。
「ーーーそうか」
「はい」
然し乍ら日村はこの《《上質な商品》》を「はい、そうですか」と安易に手放す訳にはゆかなかった。
「分かった。紺谷さんと相談してみる」
「ありがとうございます」
そこで日村は数枚の紙をクリップした企画書を結城紅に手渡した。
「明後日、金曜日に朝イチで撮影が入った」
「急ね」
「週刊ヴィヴィのグラビアフォトだ」
「ーーーこれは」
その企画書を横目で見た拓真の表情は凍りつき、結城紅は怪訝な顔をした。
「ーーーフォトグラファーAOが撮る信仰とエロチシズムの世界」
「拓真が撮るのね」
「違います」
「どういう意味」
日村は数枚の原稿を取り出してテーブルに並べた。
そこには妖しくも美しい女性が髪の毛を後ろで結えカメラを構えている写真が掲載されていた。
「この方は」
「蒼井 青 さんです」
「蒼井さんの奥さま」
「 青 とは2年前に離婚している」
「ーーーえ」
「同居しているだけだ」
「そうだったの!?」
そこで日村は拓真を見据えた。
「蒼井さん、その離婚は法的に認められていますか」
「ーーーーーー」
「お相手の同意なしに離婚届を提出したご記憶はありませんか」
「ーーーそれは」
「口の軽い職員もいますから」
拓真は言い淀み、テーブルから視線を逸らした。
「紅との結婚は考えていますか」
「それは、まだ」
「どういう事ですか」
「私たち結婚は考えていないの」
昨夜、拓真と結城紅は今後の二人のあり方を話し合った。この時、結城紅は拓真が妻帯者だと思い込んでいた為、「重婚的内縁関係、胎児の認知」それだけを望んだ。
「そうですか」
「はい」
「ただ蒼井さん、これからは色々と身綺麗にして下さいね」
「ーーーはい」
「お話の続きなんだけど」
気を取り直した結城紅は企画書と原稿を手に蒼井 青 について言及した。
「日村さん、フォトグラファーAOと蒼井 青 さんにどんな繋がりがあるの」
「それは蒼井さんがよくご存知の筈ですよね」
「ーーーはい」
結城紅は二人の間にただならぬ雰囲気を感じ取った。
「拓真、教えて」
「紅、蒼井 青 さんはーー」
「それは俺から言います」
日村の言葉を遮ると拓真はカメラバッグからフォトアルバムを取り出してページを開いた。そこには深い青、淡い青、淫靡な青、清らかな青、青い花の写真が何十枚も収められていた。
「これがフォトグラファーAOの写真だ」
「ーーーそうみたいね」
結城紅はそれを興味なさげに捲った。それを傍目に拓真はもう一冊の色褪せた表紙のフォトアルバムを取り出した。ページの端は日焼けで薄茶に色付き時間の流れを感じさせた。そこには高等学校生の拓真が撮影した笑顔溢れる色温かな写真が並び、結城紅はその1ページ、1ページを愛おしそうに眺め、指先でなぞった。
「これが俺の写真だ」
「ーーー知っているわ」
「だから、俺は」
「だからなに、なんでそんな顔をしているの」
拓真と日村は顔を見合わせた。
「私が何人の写真家に撮られて来たと思っているの。県立美術館の煉瓦倉庫で初めて撮られた時、拓真が青い花の撮影者ではない事はすぐに分かったわ」
「そうなのか」
「あなたの撮る写真は温かい、こんな冷たいものじゃない」
結城紅は青い花のアルバムをテーブルの上に投げ置くと脚を組んだ。
「よく分かったわ。フォトグラファーAOは蒼井 青 なのね」
「ーーーそうだ」
「たったそれだけの事じゃない、拓真も日村さんもなにをそんなに深刻そうな顔をしているの」
想像とは異なった結城紅の反応に日村は身を乗り出して声を荒げた。
「紅、蒼井さんはこの10年間、蒼井 青 を代作者に仕立てていたんだぞ!」
「ーーーそれがなに」
「紅!」
「この半年間、私は蒼井拓真に撮られて来たわ。拓真の力量は日村さんだって認めているでしょう!」
「それは、それは確かに」
「日村さん、object《オブジェクト》 紺谷組は拓真を切るつもりなの」
「ーーーそれは」
「それなら私も一緒に切って!拓真と私は離れられないの!」
結城紅の怒りに日村は気圧された。
週刊ヴィヴィの会議室では紺谷信二郎と日村隆信、九重百合香が原稿を手に話し合いを進めていた。ただそれは解決には程遠かった。
「紺谷さん、紅さんが妊娠とはどういう事ですか」
「それが私も先程報告を受けたところです」
「日村さん、間違いはないんですか」
「妊娠検査薬で確認させました。陽性でした」
妊娠陽性反応を示した検査スティックの画像を差し出した。
「しかも蒼井拓真と蒼井 青 は離婚していた」
「はい」
「そうなると不倫スキャンダルの記事にはなりませんね」
「蒼井拓真は妻に無断で離婚届を提出をした文書偽造の可能性があります」
「その辺は 青 さんに確認します」
「起訴されると厄介だな」
「金でも渡すか」
「誰にですか」
「蒼井 青 だ、わからんのか!」
九重百合香はテーブルの上に原稿を一枚づつ並べた。
「では、整理しましょう」
「ああ、そうしてくれ」
「蒼井拓真の柘榴《ざくろ》と蒼井《佐原》 青のオフィーリアのグラビアフォトは掲載決定で宜しいでしょうか」
「そうだな」
二枚の原稿はソファーの上に置かれた。
「フォトグラファーAOの代作者が 蒼井《佐原》 青 だというスクープはどうしますか」
「悩ましいところですね」
「紅の《《内縁の夫》》に汚点を付けるのは避けたい」
九重百合香が「ーーーあっ!」と声を上げた。
「どうしましたか」
「その件に関して 蒼井《佐原》 青 さんは乗り気ではないようでした」
「乗り気ではない」
「はい、ご自身が前面に出る事に関しては迷っているように感じました」
「蒼井拓真に気を遣っているのでしょうか」
「そうかもしれんな」
バラバラに並んでいた拓真の代作スクープと不倫スキャンダルの原稿を積み重ねた九重百合香は如何にも女性らしい記事を提案した。
「これはどうでしょう」
高等学校時代の恋が実り蒼井拓真と佐原 青 はフォトグラファーAOとして《《合作で活動》》し結婚、然し乍ら二人はそれぞれの道を進む事を決意、蒼井拓真はモデル結城紅と新しい時代を築き、蒼井 青 は佐原 青 として世界に羽ばたくというものだった。
「ーーーなかなか良いかもしれんな」
「女性が好みそうな記事になると思います」
「高校時代の卒業アルバムを探せ」
「自己を犠牲にして蒼井拓真を崇拝した蒼井《佐原》 青」
「オフィーリアですね」
「そうだ」
「蒼井拓真が紅に贈ったガーネットは柘榴石だったな」
「はい」
「柘榴の花言葉は子孫、子孫ーーあぁ、なんだ」
「子孫繁栄です」
「柘榴が繋いだ恋、蒼井拓真と紅の今後の記事にも使えるな」
スポンサーである紺谷信二郎の了承を得て掲載記事は急きょ差し替えられる事となった。そして明日、青 のオフィーリア撮影が行われる。