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(ハムレットは私、オフィーリアは)
シェイクスピアの歌劇で描かれる一人の女性、自身の父親を最愛の|恋人《ハムレット》に殺されてしまったオフィーリアは失意のまま川へと転落、古い唄を口づさみながら溺死、両手首を広げ花冠や野の草木に囲まれ川面を流れゆっくりと沈んでいった。
青 は週間ヴィヴィのフォトスタジオ控室でカメラレンズの曇りを拭いながらあの夜を反芻していた。
(ーーー雨が降っていた)
拓真の住むコテージは杉林の木立に囲まれた、村《鳥越》の一番奥に建っていた。遠くに見える灯り、暗い畦道《あぜみち》をローファーで踏み締めるごとにカエルの鳴き声が止んだ。霧雨は次第小雨になり、青の制服のブレザーやタータンチェックのスカートからは雫が垂れた。
(先輩、今はお勉強の時間よね)
白いペンキで塗られた柵を乗り越えると太腿に薔薇の棘が刺さった。そんな痛みよりも拓真の横顔が見たかった。野菊を掻き分けコテージの一番端、一階の出窓の木枠に指を伸ばした。つま先立ちでその灯りを覗き見る。
(ーーー!)
カーテンの隙間にはあり得ない光景が広がっていた。全裸の拓真が母親の膝を掲げ挙げ腰を前後に振っていた。
「ああっ、あっ」
陰毛の付け根が母親の股座へと出入りし、窓の中からはしたない喘ぎ声が絶え間なく続いた。これまで見た事のない拓真の苦悶に満ちた表情に、激しい怒りを感じた。
(ーーー裏切ったのね!)
青はコテージの玄関扉のノブに手を掛けた。不用心な事に施錠されていない白い扉は軋み乍らゆっくりと開いた。青はローファーを脱ぎ、揃えると向き直った。
「んっ、んっ、あっ」
廊下の突き当たりの部屋から醜い女の汚らしい声が響いて来た。紺色の靴下がフローリングに点々と染みを作り、見遣ったリビングの暖炉の灰の中に《《それ》》が突き刺さっていた。ロッキングチェアに手を添えて火かき棒を持ち上げると鉄の重さを腕に感じた。
ギシギシギシ
開け放たれた扉、素裸の背中、女の足の裏が上下していた。二人は青の足音にさえ気付かず性行為に耽っていた。
(ーーー許さない)
青はその背中に向かい火かき棒を高く振り翳したが、絶頂に達した拓真は陰部を女の股座から抜き姿勢を変えた。
「ん、ぐぅっ!」
力の限り振り下ろした火かき棒は鈍い衝撃と共に母親の脳天をぶち撒けていた。ドス黒い血液が飛び散り、拓真の肢体も赤く染まった。
(ーー赤、赤、赤、赤、赤)
「ーーーー蒼井先輩」
「佐原、さん」
拓真の低い声に我に返った青は神に感謝した。
(ーーー蒼井先輩が生きていて良かった)
そして青は、その一生を蒼井拓真に捧げると誓った。それは一瞬でも自身の手で愛する人を殺めようと血迷った事への懺悔にも近かった。
菫《すみれ》、芥子《けし》、ひな菊、パンジー、薔薇、金鳳花《きんぽうげ》、柳、野薔薇、ナツキソウ、蕁麻《いらくさ》、溝萩《みそはぎ》、勿忘草《わすれなぐさ》
(私はオフィーリアを一人にはしない)
青 の控室の扉がノックされた。
「佐原 青 さん、スタジオの準備が出来ました」
「ーーーはい」
「よろしくお願いします」
「はい」
姿見の中の結城紅は普段とは異なる雰囲気を纏っていた。メイクアップスタッフが花冠を頭に被せ指先で絹のような長い髪を手際よく整えてゆく。ファンデーションはイエローオーカー、口紅はグレー寄りのベージュ、瞳には碧眼のカラーコンタクトレンズを装着し、爪先をターコイズブルーのネイルが彩った。
「墓から這い上がって来たみたいだな」
拓真が壁に寄りかかって腕組みをした。確かに、白い雪に深紅の椿、その印象が強い結城紅とは程遠い。
「ーーー酷い言い草ね」
襟元や袖口に豪華なレースが施された中世ヨーロッパ風のロングドレスは青みがかった灰色で、全身沈んだ雰囲気である事は否めない。
「大丈夫か」
「心配しないで。周囲にスタッフも揃っているし 青 さんもフォトグラファー、プロフェッショナルだもの。ちゃんと撮ってくれるわ」
そうだ。《《ただのプロカメラマン》》ならば色恋沙汰でその信条が揺らぐ事はないだろう。然し乍ら、佐原 青 はただのカメラマンではない。虫も殺さぬ顔で人を殺めた過去を持つ女だ。
「今から、断る事は出来ないのか」
「ーーー!なにを言っているの、これは仕事なのよ」
「だけど」
「そんなに心配なら暗幕の後ろから見ていて」
「ーーーそうする」
「お願いね」
結城紅の控室の扉がノックされた。
「結城さん、スタジオの準備が出来ました」
「ーーーはい」
「よろしくお願いします」
「はい」
「ーーー美由」
「じゃあね」
結城紅は素足にスリッパを履き、スタッフに長いドレスの裾を預けフォトスタジオへと向かった。
週間ヴィヴィ編集部の社屋の裏手には、車が三十台ほど駐車出来るスペースがあった。そして、その奥には二階建て全面ガラス張りのフォトスタジオが併設されていた。
「いいか、一斉にだぞ」
「はい」
駐車場出入り口には警察車両、玄関エントランス前、社員出入り口、それぞれに捜査車両が停められている。
「お嬢ちゃんはなにすっか分かんねぇからな」
「はい」
明け方の街灯に浮かび上がる警察官の影がひとり、ふたりと建物内部へと音を立てずに入って行った。
「蒼井 青 がモデルから離れたら確保しろ」
捜査車両の助手席で無線を握る井浦警部補はいつになく慎重だった。
「ただし無理はすんな」
「はい」
「井浦さんはどうなさいますか」
「俺は蒼井拓真んとこに行く」
「はい」
被疑者 蒼井 青 に対し|蒼井真希《拓真の母親》殺害の罪で身柄の拘束が許可された。
青鼠《あおねずみ》のバックスクリーンに286cm×382cm程の透明な浅い水槽が中央に配置され、その中には微温湯《ぬるまゆ》が張られた。
「ーーー水じゃないのね」
「はい」
「花が萎れるから水をお願いしたわよね」
「はい」
水槽の周囲には菫《すみれ》、芥子《けし》、ひな菊、パンジー、薔薇、金鳳花《きんぽうげ》、柳、野薔薇、ナツキソウ、蕁麻《いらくさ》、溝萩《みそはぎ》、勿忘草《わすれなぐさ》などの生花が配置され、スタッフがライトの当たり具合を確認、すでに枯れ始めた蕾《つぼみ》を摘んでいた。
そこで、蒼井拓真、結城紅、佐原 青《蒼井 青》の三人の関係性を把握していなかった撮影スタッフが、《《事実》》をそのまま伝えてしまった。
「どうして水から、微温湯に変更になったの?」
「モデルさんがおめでたで身体への配慮だとお聞きしました」
「おめでた?」
「はい、妊娠されたそうです」
「相手は、相手は誰」
「さぁーーそれは聞いてないですね」
「ーーーそう」
暗幕が開き、生花スタッフが青いタライを両手で抱えて運んできた。
「佐原さん、これで宜しいでしょうか」
「あぁ、間に合ったのね」
「なかなか良い具合に開いているものがなくて」
「これで充分よ、ありがとう」
青 は妖しげな微笑みでそれを掬い上げると水槽の中にそっと浮かべた。幾重にも重なる白い花弁は仄かなライトに陰を帯びた。
「睡蓮の花言葉は、破滅」
そこでYouTube配信動画を撮影していたスタッフの小声が 青 の耳に届いた。
「聞いてるか」
「なんだよ」
「ここのお偉いさん、この記事であいつを潰すらしいぜ」
「あいつって誰だよ」
「蒼井拓真だよ」
「本当かよ」
「紺谷さん、会社の事しか考えてないからな」
「面白いネタがあれば良いってか」
「酷いよなぁ」
暗幕が開いた。
「はーーい!モデルさん入ります!」
青 が振り向いたそこにはオフィーリアが見下ろしていた。
その撮影現場は通常とは異なる緊張の糸が張り詰めていた。object《オブジェクト》 紺谷組の主要メンバーは固唾を呑んで見守った。紺谷信二郎はディレクターズチェアで脚を組み、その背後にマネージャー日村、九重百合香、暗幕の影に隠れた拓真が 青 の手元を凝視していた。
(ーーー 青 は、 青 は)
結城紅の素足が一歩前に出ると 青 が床に手を突いて立ち上がり右手を差し出した。
「初めまして、佐原 青 です」
「初めまして、結城 紅 です」
背の高い結城紅を見上げた 青 は左の手を取った。
「これは外して下さい」
「ーーーあ、申し訳ありません」
結城紅は左手の薬指からガーネットの指輪を外すと駆け寄ったメイクアップスタッフへと手渡し、指輪は日村のポケットへと仕舞われた。傍目には 青 は冷静に淡々と撮影の手順を指示しているように見えた。
然し乍ら|青鼠《あおねずみ》のバックスクリーンの上では二人の女性が睨み合い、拓真を中心に微妙なバランスを保っていた。
「 青 さん、私」
「私がなんでしょうか」
「ーーーいえ」
青は屈み込むと微温湯に指先を付けて掻き回した。花弁の開き具合を調整する為にエアコンは20℃に設定されている。
(ーーふふ)
水槽に張られた液体は冷たさを感じた。
「結城さん、これからあなたにはオフィーリアになって頂きます」
「はい企画書は拝見しました」
見上げたライトが眩しかった。青 は目を細めながら結城紅の手を取った。
「知ってる?オフィーリアは恋人に裏切られたの」
「ーーーーえ」
「恋人に裏切られたオフィーリアは気が狂って川面に転落したのよ」
「そうですか」
「知らなかったの」
「はい」
「知らずにこの仕事を受けたのね、不用心だわ」
青 の手が急に結城紅を引き寄せ、その身体が水槽の縁へと倒れ込んだ。スタッフがざわつき 青 は暗いそちら側へと向き直った。
「なに、なにか不具合でもあった?」
「いえ、大丈夫です」
「そう」
暗幕の隙間から二人の様子を窺う拓真の脇に汗が滲んだ。
「それでは水槽の中に浸かって下さい」
「ーーーはい」
ターコイズブルーの素足が水槽の中へと沈んだ。
(冷たい)
青 が会話を長引かせた事で微温湯は殆ど水になっていた。結城紅はこの冷たさが胎児に影響を及ぼすのではないかと無意識のうちに下腹に手が伸びた。
(ーーー大丈夫、大丈夫)
水槽の縁に掴まりゆっくり腰を下ろすとプラスチックの底は氷のように冷たかった。
(大丈夫)
肘を突き背中を倒すと後頭部を支える凹凸があった。これで呼吸は確保され耳に水が入る事もない。
(大丈夫)
花冠が水中に浸り、髪やドレスの裾が水面に広がる浮遊感に鼓動が跳ねた。目を左右に動かすと色彩豊かな花弁が開き、天井を見上げれば柳の枝が揺れていた。
カシャ カシャ
「ナツキソウの花言葉は、なんだったかしら、忘れたわ」
「ーーーえ」
「ひな菊は純潔、あなたたち純潔を守れなかったのね」
足元にカメラのシャッターを切る音が聞こえた。黒い影が目の前に迫りレンズが結城紅の碧眼を捉えた。それはファインダー越しに見据えられているようで背中に怖気が走った。
「結城さん、どうしてお腹を押さえているの?」
「ーーーあ」
「オフィーリアは両手首を開くの、胸の横で」
「はい」
結城紅が躊躇いながら腕を上げようとすると 青 の手がそれを握り、勢い良く水面に押しつけた。
「ーーーあっ!」
水飛沫が上がり結城紅はその勢いに目を瞑った。頬が濡れ、前髪が乱れた事を確認したメイクアップスタッフが駆け寄ろうとすると 青 はそれを制した。
「来ないで!」
「で、でも」
「オフィーリアは足を滑らせて川に落ちたのよ、これでいいわ」
「はい」
結城紅が顔を拭うと口紅の端が滲んだ。
「あなたって男の子みたいな顔なのね」
「そうでしょうか」
「菫《すみれ》は小さな幸せ」
「あなたに似るのかしら、それとも二重の拓真に似るのかしら」
「ーーーえ」
青 は結城紅の下腹を愛おしそうに撫でながらカメラのファインダーを覗きシャッターを切り続けた。
カシャ カシャ
「駄目じゃない、勝手に子どもを作っちゃ」
「ーーーあ」
「蕁麻《いらくさ》は残酷、残酷だわ」
「ご存じだったんですか」
「残酷だわ」
オフィーリアに成り切った結城紅は内心恐怖に震えながら《《呆けた》》表情を崩さない。
「あなた、意外と肝が据わっているのね」
「ーーープロですから」
「そう、これでもかしら」
青 は下腹を手のひらで押しながらシャッターを切り続けた。遠巻きに見守っているスタッフからは二人の遣り取りは見えず、当然、苦悶に歪む結城紅の表情は 青 の背中に隠れていた。
「頑張り屋さんなのね」
「んっ!痛っ!」
痛みに耐えかねた結城紅が起きあがろうと水槽の縁に指を掛けたがそれは 青 によって呆気なく水の中に引き戻された。
カシャ カシャ
「起きあがっちゃ駄目よ、オフィーリア」
「やめて下さい」
「あなたは呆けて唄いながら川面を流れているの」
カシャカシャ カシャ
「薔薇と野薔薇は永遠の愛」
「 青 さんと拓真さんの事ですか」
「そうよ」
「そして芥子《けし》は脆い愛」
「私たちの事ですか」
カシャ
「違うわ、拓真と拓真のママの事よ」
「おかあさん」
「芥子《けし》は脆い愛、二人は愛し合っていたのよ」
「親子ですから」
「違うわ、男と女」
「ーーーえ」
「雨の夜、二人はセックスしていたわ」
「お、親子でセックス?」
「そうよ」
「あり得ないわ」
カシャ カシャ
「その写真は何処かにある筈よ」
「何処にですか」
「拓真の実家の裏にはね、雑木林があるの」
「雑木林に隠したんですか」
「溝萩《みそはぎ》は悲哀、可哀想な拓真のママ」
「可哀想?」
カシャ カシャ カシャ
「拓真と私でママを殺して雑木林に埋めたの」
「埋めた」
「二人がセックスしている写真も一緒に埋めたの」
「ころ、殺したんですか」
カシャ
「勿忘草《わすれなぐさ》は私を忘れないで。白骨遺体が発見された事件知ってる?」
結城紅は目を見開いたまま頷いた。
「あれは拓真のママよ」
「嘘」
「10年も経ってるのに、まだ拓真に会いたかったのかしら」
カシャ カシャ
「金鳳花《きんぽうげ》は名誉」
「二人で殺したの?」
「そうよ」
「本当に?」
「私は拓真に作品を渡した。拓真は私の作品で名誉を手に入れた」
「殺したの?」
「拓真は良い子だったわ」
カシャ カシャ
「柳の花言葉は愛の哀しみ」
「そんな、嘘」
「なのに私を捨てたの」
「嘘」
「あなたに出会って全部捨ててしまったの」
カシャ カシャ
ふと 青 の指の動きが止まった。
「パンジーの花言葉はーーー私を思って」
カシャ カシャ
結城紅は下半身に違和感を感じた。
「あなた、思い遣りが足りないわ。苦しいって言ってるわよ」
「ーーーー!」
長いドレスの裾から薄っすらと赤い線が漂っている。慌てて起きあがろうとする結城紅を水槽に押し戻した 青 はその肢体に跨り花を一輪、また一輪とその顔の周りに添え始めた。それは死人に手向ける花にも似ていた。
カシャ カシャ
「ーーーこ、九重さん!赤ちゃんが!」
ところが九重百合香はその叫び声から顔を逸らし、ディレクターズチェアで脚を組んだ紺谷信二郎の口元は醜く歪んでいた。暗幕から飛び出そうとした拓真の腕は日村の大きな手に掴まれた。不慮の出来事で結城紅が流産する痛ましい事故、紺谷信二郎にとってまたとない好機だった。
「拓真、拓真!」
「馴れ馴れしく呼ばないで」
カシャ カシャ
青褪めた顔、恐怖に見開かれた目、それはまさにハムレット《恋人》に裏切られ気が触れたオフィーリアだった。青 は取り憑かれたようにカメラのシャッターを切り続けた。
「睡蓮《すいれん》は滅亡」
結城紅の胸の前には白い睡蓮の花が浮かんでいた。
カシャ
最後のシャッターを切り終えた 青 は水槽の中で中腰になると結城紅の背中に手を添え、氷のように冷えた上半身を起こした。
「結城さん、お疲れ様でした」
「 あ、青 さん」
「《《最後に》》あなたのようなプロフェッショナルなモデルに出会えて嬉しかったわ」
結城紅は撮影が終わったと知るや否や身体中が震え出し、前歯の噛み合わせが落ち着かずガタガタと音を立てた。
「 青 さんごめんなさい」
「あなたに謝られる事なんてないわ」
「ーーーーー」
「それより、赤ちゃん助かると良いわね」
水面に赤い筋が揺らぎ、青みがかった灰色のドレスの裾を深紅に染めた。
「ーーーーー」
「ふふふ」
青 は妖しい笑みを浮かべた。そして次の瞬間、真顔になってスタッフへと向き直った。
「誰か!この子を病院に連れて行って!」
「ーーーあ」
「早く!」
青 の緊迫した声で撮影現場が一気に慌ただしくなった。
「おい、救急車だ!救急車!」
「車椅子準備しろ!」
結城紅は厚手のガウンを羽織るとスタッフが準備した車椅子に倒れ込んだ。
「日村さん、紅さんの着替えはありますか!」
「今、取って来ます!」
「お願いします!」
日村は結城紅の私物や衣類を手に暗幕を捲り、拓真の鼻先で鉄の扉が重い音を立てて閉まった。現場に取り残された拓真は途方に暮れたが、慌てふためき混乱するスタッフの中に見覚えのないスーツ姿の男性が紛れ混んでいる事に気が付いた。
(ーーーあれは、誰だ?)
Tシャツにキャップを被った警察官の耳元で無線が飛び交った。
<よし、ゆっくり行け>
<了解>
複数人の警察官が 青 を確保すべくその背中に近付いた。
「いやーーー、素晴らしい!」
その時、紺谷信二郎がディレクターズチェアから立ち上がり拍手をしながらバックスクリーンへと歩み寄った。
<待て>
<了解>
青鼠《あおねずみ》のバックスクリーンの中に立つ白いカッターシャツにジーンズといった出立ちの 蒼井 青 は、背中で結えていた髪を解き天井を振り仰いだ。長いまつ毛に潤む黒曜石の瞳は夜の闇、それは人工的な月《ライト》に両手を伸ばし妖しく咲く月下美人のように美しかった。
(撮りたい)
この時、拓真は初めて 青 を撮りたいという衝動に駆られた。そして結城紅の控室に預けて置いた自身の一眼レフカメラを取りに戻ろうと踵を返した。
「よぉ、蒼井さん、何処に行くんだ」
「ーーー井浦さん」
拓真の背後には石川県警捜査一課の井浦警部補が立っていた。
「カメラを取りに行こうと思って」
「あーー、残念だな。あんたはここでお終いだ」
「どういう意味ですか」
「ママを埋めたってぇのは時効だったが、蒼井 青 と住んでたってぇのが犯人隠避になるらしいぞ」
「そんな」
突然の死刑宣告を受けたような衝撃、井浦の容赦無い言葉に拓真の足は床に張り付きその場に崩れ落ちそうになった。
「蒼井さんはこれから俺と警察署までドライブだ」
「井浦さん」
「なんだ」
「これで、これで 青 を撮っても良いですか」
拓真はポケットから携帯電話を取り出した。
「あーー、パシャパシャ好きなだけ撮れ」
「ありがとうございます」
暗証番号をタップしカメラアプリを起動させた。機種変更をしたにも関わらず、携帯電話の暗証番号は使い慣れた 青 の生年月日だった。
カシャ カシャ カシャ
(ーーー 青)
何故、なぜこれまで一度も 青 を撮ろうと思わなかったのだろう。
(何処で間違えたんだ)
何故、 青 の献身的な愛情に応えられなかったのだろう。
(どうして)
携帯電話を握る拓真の指先が小刻みに震えた。紺谷信二郎は満面の笑みを浮かべた。
「いやー、素晴らしい!」
紺谷は顎髭《あごひげ》を撫でながら 青 に近付き、その肩に擦り寄りモニター画面を覗き込んだ。
「ーーーー」
吐く息が臭く、青 はその距離の近さに顔を顰《しか》めた。
「結城紅はどうでしたか」
「良いモデルでした」
青 の表情は厳しく、氷のように冷たい目をしていた。
「そうですか!」
「ええ」
「どうでしょう、これを機会に結城紅の専属カメラマンになりませんか」
「お言葉ですが結城紅の専属カメラマンは蒼井拓真ですよね」
「確かに、蒼井さんの作品は素晴らしい」
青 はSDカードをカメラ本体から素早く抜き取り、駆け寄ったスタッフに手渡した。
「私は必要ないと思いますが」
青 は床にしゃがみ込んでカメラバッグのファスナーを開けた。
「object《オブジェクト》 紺谷組はフォトグラファーAOを求めています」
「蒼井拓真がフォトグラファーAOです」
周囲では照明機材の撤去やコードの巻き取り、水槽の水を抜く作業が行われていた。萎れかけた花や草木は手折られゴミ袋に詰め込まれた。
「佐原 青 さん、あなたがフォトグラファーAOの代作者である事は明白です。先日、週刊ヴィヴィの九重がお伝えした通り来週の誌面にその記事を掲載する事が決定しました」
「蒼井拓真はどうなさるおつもりですか」
青 は顔を挙げる事なく手を動かし、それを見下ろした紺谷信二郎は困り顔で首を傾げて見せた。
「蒼井拓真さんにはスクープ記事の話題提供者としてご活躍頂きましたから週刊ヴィヴィの芸能カメラマンとして雇って差し上げても構いませんよ」
「拓真がスクープ記事の話題提供者?」
「ネタですよ、ネタ」
次の瞬間、 青 は紺谷信二郎の両腕を片手で捻り上げると右手を喉仏に突き刺した。
「スクープ記事が欲しいんでしょう!」
「や、止めてくれ」
「良かったわね。私がスクープ記事になってあげるわ」
右手にはステンレス鋼の刃先6cmのフォールディングナイフが握られ紺谷信二郎の首筋に当てられていた。現場に緊張が走る。拓真は手にしていた携帯電話を手放し暗幕から身を乗り出したが呆気なく井浦に羽交締めにされた。
「お嬢ちゃんは殺人事件の犯人として逮捕される」
「ーーーー逮捕」
「殺人に時効はないからな」
「時効」
「そうだ」
水槽から水を抜いていたスタッフは震える手でビニールホースを床に置いた。それはまるで息をする蛇の如く跳ね回り、紺谷の腕を捻り上げる 青 に降り注いだ。
「紺谷さん、あなたが欲しいフォトグラファーAOは殺人犯なの」
「ーーーなんの、事」
「私は10年前に人を殺したわ」
降り注ぐ雨、赤い血液、拓真は10年前のあの夜に引き戻された。
「ひっ」
「紺谷さん、スクープどころか最上級のスキャンダルよ良かったわね」
「は、離してくれ」
「蒼井拓真を傷つける人は許さない」
「悪かった!悪かった!だから、離してくれ!」
妖しい微笑みの 青 は周囲を見回しながらその手を振り上げた。
「あなたも仲間に入れてあげるわ」
「ひぃ!」
フォールディングナイフは勢いよく振り下ろされバッグスクリーンを切り裂いた。彼方此方から悲鳴が上がり、照明機材を倒してフォトスタジオを飛び出すスタッフの姿もあった。
「あら、意外と素早いのね」
咄嗟に身を翻した紺谷信二郎の頬に赤い筋が付いた。
「こりゃ、銃刀法違反と傷害罪で現行犯逮捕だな」
「ーーー現行犯逮捕」
井浦警部補が襟元のワイヤレスマイクに口を付けた。
それを見た拓真は間に合う筈の無い言葉と 青 の名前を叫んでいた。
「青、逃げろ!警察が居る!」
「拓真、拓真居るの!?」
暗幕から必死の形相で叫ぶ拓真の姿を見つけた 青 の手からフォールディングナイフが落ちた。
<確保!>
身を潜めていた警察官が一斉に 青 を抑え込み、その華奢な姿は厳つい刑事たちの背中に埋もれた。
「確保、確保ーーーー!」
「蒼井青、午前7時18分、銃刀法違反ならびに傷害で現行犯逮捕!」
警察官が床に転がったフォールディングナイフを布に包むとチャック付きポリ袋に入れた。青は数名の警察官に抱き抱えられスタジオの外に連れ出された。
「さあ、蒼井さんも警察署までドライブだ」
「ーーーはい」
振り向くと青鼠《あおねずみ》色のバックスクリーンに勿忘草の花弁が痛々しく踏み付けられていた。