テラーノベル
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「…わ、本降りなってきた!閣下、俺の店で雨宿りしていきます?」
向井は抱えていた風呂敷包みを少し持ち上げ、路地の先を親指で指し示した。
目黒は降る雨に濡れる路面を見つめ、一瞬だけ躊躇した。屋敷へ戻れば、又あの息の詰まる現実が待っている。
「…邪魔で無ければ。」
「滅相も無い!ほな、行きましょ!」
「──待て。」
目黒は走り出そうとした向井を制すと、自らの重厚な外套を手早く脱ぎ払い、大振りな其れを両手に広げ、何事かと見上げる向井と共に頭上へ豪快に覆い被さる。
「え、閣下?」
「濡れる。入れ。」
「でもそうしたら閣下の御姿が皆に、」
「良いから入れ。」
低く響く声に押され、向井は《…すんません、失礼します。》と小さく首を竦めて外套の下へと潜り込んだ。
一枚の分厚い生地に守られた途端、二人の距離が一気に縮まる。直ぐ隣から伝わる向井の体温と、雨の匂い。暗がりの中で、向井の肩が目黒の胸元にぴったりと触れていた。
「…行くぞ。」
「はいっ!」
互いに外套の端を持ち上げ、雨の降る路地を走り出した。
「ふはっ、凄かったですねぇ!」
店内に飛び込むなり、向井は被っていた外套の端を上げて破顔した。彼の息は乱れ、狭い空間に小さな熱が満ちる。
「すんません、閣下のお召し物、お借りしてもうて。」
「何方にせよ濡れていた。案ずる事は無い。」
一度店先の軒下へ出ると、目黒は濡れた外套を軽く払った。
改めて店内に足を踏み入れれば、古時計のチクタクという心地よい針音と、乾いた木と油の懐かしい匂いに包まれた。
「どうぞお掛けください。今火鉢持って来ますんで、外套は其処の衣紋掛けに掛けて頂いて!」
帽子と外套を脱いだ目黒は、勧められるまま小さめの木製椅子に腰掛けた。
向井は手早く風呂敷包みを置くと、目黒の周りの物を片付け、奥から火鉢を持ち出し、手際良く支度を始めた。橙色の光と熱が目黒の冷えた身体をじんわりと温め始める。
「折角なんで、温かい物でも淹れましょか。珈琲…飲めます?」
「あぁ。」
短い返事に向井は嬉しそうに頷くと、作業台の隣で珈琲豆を挽き始めた。ガリガリと心地良い音が店内に響き渡る。
「随分手馴れているな。」
「ちっさい頃から此処の先代の爺ちゃんに、知り合いのカフェーに連れてってもろてて。勿論当時は珈琲なんて飲まれへんかったけど、其処の主人の所作が好きでずっと見とったんです。そしたら或る日、《やってみるか?》って教わったんすわ。」
軈て、香ばしい珈琲の深い馨りがふわりと立ち込め、雨音と混ざり合っていった。
「えっと、砂糖とかは…、?」
「不要だ。其の侭で良い。」
「ほんなら…熱いんで、気ぃ付けて下さいね。」
丁寧に淹れられた珈琲が、陶器のカップに注がれて差し出される。そっと持ち上げれば、湯気が馨りを運んでゆらゆらと立ち上り、目黒の冷えていた指先に温もりが伝わった。
一口、口に含む。程よい苦みと柔らかい酸味が、喉をゆっくりと通っていく。
「!…美味いな。」
「ほんまですか!良かったぁ…豆も、カフェーから買い取っとるんですよ。ゆっくりご賞味下さいね。」
小さく目を見開く目黒に向井は心底嬉しそうに破顔すると、思い付いた様に言葉を続ける。
「あ、雨上がりを待っとる間に、ついでに時計見ましょか?多分大丈夫だとは思いますけど。」
「…では、頼む。」
懐中時計を受け取ると、向井は早々に作業台の端に腰掛け、自分用の珈琲を一口啜ってから片目にルーペを嵌めて裏蓋を開けた。
「…雨、結構強くなりましたねぇ。長引きそうなら、お帰りの時に傘お貸ししますんで、云うて下さいね?」
外の雨音を聞き乍ら、向井に微笑み掛けられて目黒は小さく頷く。店内を包むのは、幾重にも重なる時計の針音と、木炭の爆ぜる微かな音、そして二人の前で湯気を立てる珈琲。
目黒はカップを持ち直し、静かに息を吐いた。
──何故だろう。ほんの短い雨宿りに過ぎない筈なのに、今迄のどんな休日よりも心が静かだった。
深澤書房では、誰とも言葉を交わさずに居られる事が心地良い。
けれど、
「………。」
窓を叩く雨音。
規則正しい時計の音。
火鉢から伝わる温もり。
そして、その向こうにいる向井の気配。
誰かが居る。其れなのに、只居るだけで良い。
屋敷に戻れば、又当主として振る舞わなければならない。けれど今だけは、其の事を考えなくても良い気がした。
あの書房で得る安らぎとは、また違う。
一人で居なくても、静かで居られる。
目黒は僅かな安堵を込め乍ら、静かに目を伏せた。
「…うん、大丈夫やな。」
ルーペを外した向井がぽつりと呟く。慎重な手付きで裏蓋を閉じ、再び珈琲を一口飲み下すと、目黒の元へと歩み寄って《お返しします。》と手を差し伸べる。
目黒は掌の上に還ってきた懐中時計を受け取ると、金属の冷たさは消え去り、心地良い温もりが残っていた。
「油の状態も悪ないですし、中の歯車も綺麗です。閣下が大事にしはってるのが伝わってきますわ。」
何気なく発せられた其の言葉と、慈しむ様な向井の柔らかい眼差し。目黒は手元の時計を見つめた侭、微かに胸の奥が締め付けられる様な感覚を覚えた。
目黒は時計と交代させる様に懐から紙入れを取り出すと、白銀の光を放つ小さな硬貨を卓上に静かに置いた。
「?…此れは?」
「珈琲の代金だ。」
予期せぬ言葉に向井はぽかんと丸い目を瞬かせ、即座に申し訳なさそうに手を振った。
「いやいやいや!俺が勝手にお出ししたもんですし、そんなお代なんて受け取れませんて!」
「豆も技術も、カフェーの物なのだろう?ならばその店の珈琲を淹れてくれた者への正当な対価だ。受け取れ。」
頑として譲らない目黒の眼差しに、向井は《…もう、ほんまに…》と降参した様に苦笑し、恭しく硬貨を手に取った。
「…おおきに。ほな、大切に使わせて頂きます。」
硬貨を衣嚢に仕舞い、目を細める向井。其の姿を視界に収め乍ら、目黒の思考は自然と或る一冊の本へと向いていた。
「…お前に見せたい本がある。良ければ今度、屋敷へ来ないか。」
静けさを破って落ちた目黒の低い声に、向井は《…え?》とぱちぱちと瞬きをして再び口を開けた。
「閣下のお屋敷に、ですか?」
目黒は空になった陶器のカップを緩やかに机へ置くと、静かで揺るぎ無い眼差しを向井へ向けた。
「祖父が西洋から取り寄せた、古い時計の構造について書かれた希少な原書が有る。」
「洋書…!それも昔の時計の構造の…!?」
途端に向井の目が爛々と輝きを帯びる。
「ほんまですか!?異国の古い専門書なんて、俺等みたいな下町の職人には逆立ちしても手に入らん様な代物ですよ!」
歓喜に声を上擦らせる向井の姿に、目黒の口元が仄かに…本人すら気付かない程小さく緩む。
「だからこそ、お前に見せたい。都合の良い日を知らせてくれれば、迎えを来させる。」
「お迎えなんてそんな…場所も分かりますし、何時でも飛んで行きますわ!」
「では、日取りは追って伝えよう。」
「はい!楽しみにしてます!」
満面の笑みを浮かべる向井の気配に包まれ乍ら、目黒は静かに頷いた。
ほむぺ⋆*
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コメント
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今回のお話も内容から雰囲気まで全てにおいて好きです😻🫶 大正時代とか、時代背景が少し昔のお話に惹かれるので読んでいてとても楽しいです✨ めめこじの安定感ある雰囲気がめちゃ好きですわ、💘🖤🧡 これからも更新楽しみにしてます!