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羽鳥大智。都内の芸術大学に通う、ごく普通の大学生だ。
彼が籍を置くのは演芸研究会。しかし、発表会ではいつも脇役で、舞台袖から送る拍手はどこか他人事のようだった。
そんな彼に、人知れず抱き続けている夢がある。
それは、手品師になること。
幼い頃、父が披露してくれた手品に心を奪われた。その驚きと感動は、今も彼の心を鮮やかに照らしている。以来、独学で練習を重ね、今では宴会芸くらいなら難なくこなせる腕前だ。
自分の夢に一番近づける気がして入ったこのサークルで、彼はまだ、本当の自分を見せられずにいた。
ゼミ帰り、サークルの仲間に誘われて飲み会に顔を出した。
盛り上げ役として呼ばれたようなものだったが、反応はまちまちだった。
気の進まない場では、酔いもやけに早く回る。
酔い覚ましも兼ねて、羽鳥は帰り道にイベントスペースのある大きな公園を抜けていくことにした。
深夜二時。
月は、雲の向こうに隠れている。
街灯のない道を、ぼんやりと歩いていると——
視界の端に、妙な“白”が入り込んだ。
草地の向こうに、大きなテントが建っている。
不自然なほど白く、まるで闇を押し返すような光を放っていた。
その白さは人工的で、どこか冷たく、現実味に欠けていた。
見れば見るほど、その存在が夢か現か、わからなくなる。
酔いのせいで視界が揺れる。
その揺れの向こうから、一人の男が歩いてきた。
「ようこそ。シャングリ・ラ・ガーデンへ」
「……はい?」
聞き返してしまった。
聞きなれない横文字。見慣れない異質な男。
脳の処理が、追いつかなかった。
光沢のあるスーツに、飾り羽根のついたシルクハット。
そして、顔を覆う仮面。
派手な出で立ちのわりに、男からは騒がしさの欠片も感じられなかった。
物腰は淡々としている。
声は低く、乾いていた。
“招いている”というより、“こちらが近づくのを待っている”ような空気。
羽鳥は、酒の残る頭で問いかけた。
「……サーカスですか?」
男は仮面の奥で、微笑んだような気配を見せる。
「“見世物”と言えば、そうかもしれませんね。
中へ入れば、退屈も日常も、すべて忘れられます。
どうぞ……あなたも、ひとときの逃避を」
押しつけがましくない、静かな語り口。
だが、それがかえって不気味だった。
羽鳥は眉をひそめる。
「こんな場所で、ですか?」
「当サーカス団は、予告も宣伝も一切いたしません。
常に神出鬼没。だからこそ、神秘が生まれるのです」
「……そう……なんですか?」
冷静に考えれば、突っ込める点はいくらでもあった。
だが、その思考を酔いが奪っていた。
異質なはずなのに、妙に納得してしまう。
それがさらに奇妙だった。
気づけば、突拍子もない質問を口にしていた。
「……動物も出るんですか?」
「もちろん。本物の虎と毒蜘蛛を、間近でご覧いただけますよ」
その一言で、背筋がぞくりとした。
猛獣と危険生物が、すぐそばにいる。
虎が急に暴れだしたら。
蜘蛛の毒にやられたら。
恐ろしい想像が次々と脳裏をかすめた。
会話の端々に、妙なリアルさと、感情の抜けた冷たさが混ざっている。
それが、言葉の意味以上に、不気味だった。
テントの布が、ふわりと揺れた。
そこから、もう一人の男が現れる。
白いスーツに、涼しげな笑み。
サラリとした長い髪に、軽やかな物腰。
まるで、中世の貴公子のような佇まいだった。
「あれ? キョウ、お客さんかい?」
「ええ。迷い込んだみたいで」
仮面の男――斬島凶と呼ばれたその男は、微かに肩をすくめた。
そのやり取りは、まるで台本でもあったかのように滑らかで、どこか芝居がかっていた。
「えっ!? いや、僕は……!」
慌てて否定しかけた羽鳥に、白スーツの男――東堂喜代彦は、にっこりと微笑みかける。
「まぁまぁ、いいじゃないか。
せっかくだし……僕たちの“庭”を、ちょっとだけ覗いていかないか?」
その誘いは、甘く、そして抗いがたい力を帯びていた。
羽鳥は、無意識のうちに頷いていた。
断る言葉が、浮かばなかった。
まるで深い眠気に引きずられるように、足が前へと出る。
羽鳥は、思わず目を見開いた。
「庭」と呼ぶにふさわしく、内装は豪華な花々で飾られていた。
テントの中は想像を超える広さで、大きく湾曲した観客席が空間を取り囲んでいる。
深夜二時とは思えない熱気が、場内に充満していた。
匂い、音、光、すべてが現実離れしている。
「普段は、深夜公演なんてやってないんだけどね。今日だけは特別さ」
東堂喜代彦が言うと、すぐ隣で斬島凶が静かに続けた。
「常に新たな挑戦を成し遂げること──
それこそが、シャングリ・ラの本懐であると言えましょう」
まるで用意された台詞のように、二人の言葉は滑らかに繋がっていた。
座る場所を探して立ち尽くしていると、
背後から、不意に声をかけられた。
「お、兄ちゃん学生か?」
「はい……大学生です」
「そっかぁ。
いやしかし、こんな真夜中にサーカスだなんて、なかなかぶっ飛んでるよなぁ」
男は人懐っこく笑った。
けれど、その顔はどこか影のように暗く、
羽鳥は、返す言葉を探しながら妙な居心地の悪さを覚えた。
「でもまぁ、こんな時間にサーカス見にきちまってる俺たちのほうが、よっぽどぶっ飛んでるかもしれねぇな! ガハハ!」
「はは……そう、ですね」
男の明るさが、妙に頭に響いた。
テンションの落差に、自分だけ置いてけぼりにされたような感覚を覚える。
やはり、真っ直ぐ帰るべきだったか。
そんな後悔が、胸をかすめた。
だが、公演はもうすぐ始まるようだった。
「お待たせいたしました!!
Shangri-La Garden 公演・深夜の部──ただいまより、開幕いたします!!」
司会の男が高らかに叫ぶと、場内は一気に歓声に包まれた。
羽鳥も、流されるように空いていた席へと腰を下ろす。
目の前に広がる非現実に、ただ、呑まれていくしかなかった。