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#大人の恋愛
バーベキューがお開きになり、河川敷に夕闇が迫る頃。
片付けを終えて一人で駅へ向かおうとした私の前に、千鳥足の男が立ちふさがった。
「ねぇ、天音ちゃん。さっきから専務につきっきりで、面白くないよ。……俺とも遊んでよ」
それは取引先の、評判の良くない役員の男だった。
逃げようとしたけれど、グイと手首を掴まれて壁際に押し込まれる。
「や、やめてください……っ! 離して!」
「いいじゃん、専務のお気に入りなんだろ? いくらで『契約』してんの?」
汚い言葉に、心臓が凍りつく。
力任せに引き寄せられ、男の酒臭い息が顔にかかる。
恐怖で目を閉じた、そのとき
「——その汚い手を、今すぐ彼女から離せ」
低く、地を這うような冷徹な声。
目を開けると、そこには見たこともないほど恐ろしい無表情の涼さんが立っていた。
「あ、一ノ瀬専務……。いや、これはただの……」
「聞こえないのか」
涼さんは男の腕を力任せに振り払い、私を自分の背後に隠した。
彼の背中が怒りで微かに震えている。
「彼女は私の会社の重要な社員だ。そして——私の許可なく触れていい存在ではない。これ以上無礼を働くなら、貴社との全取引を見直すが、構わないかい?」
その瞳には、いつもの爽やかな微笑みの欠片もない。
圧倒的な威圧感に、男は顔を真っ青にして何度も平謝りをし、逃げ去っていった。
二人きりになった静かな道。
涼さんはゆっくりと私の方を振り返ると、今度は強く、壊れそうなほどに私を抱きしめた。
「…涼、さん……?」
「ごめん、琴葉さん……もっと早くそばに行くべきだった。怖かったよね」
抱きしめる腕の強さに、彼の後悔と独占欲が混ざり合っているのが伝わってくる。
「専務、そんなに私に優しくされていると、怪しまれますよ…もし誰かに見られたら……」
「……もう、どう思われても構わない。あんな風に他の男に触れられるのを見て、理性が吹き飛んだんだ」
涼さんは私の耳元に顔を埋め、深く息を吐き出した。
その声は、震えていた。
「君は、僕が買った『契約妻』なんかじゃない。……僕の、たった一人の大切な女性なんだ」
そう言って、彼は私の指先に絡めるようにして、ぎゅっと手を繋いだ。
その手は驚くほど熱くて、力強かった。
「専務」としてではなく、「一人の男」として。
涼さんは私を連れて、夜の街へと歩き出す。
契約という鎖が、いつの間にか本物の愛情に変わっていることに、私はもう気づかないふりはできなかった。
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