テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
53
69,242
#悪役令嬢
五月の爽やかな風が吹き抜ける中、王立学園の校舎裏は、世界のバグが凝縮されたかのような局所的混沌に包まれていた。
現在の配置は以下の通り。
エレノア(悪役令嬢)の肉体 ⇒ 中身:本物のマリア
マリア(ヒロイン)の肉体 ⇒ 中身:王太子ギルバート
ギルバート(王太子)の肉体 ⇒ 中身:亜香里
用務員のまこと ⇒ 中身:まこと(完全固定)
用務員の作業着を着たまことは、校舎裏の物陰から手に「泥水が入った木製バケツ」を握りしめ、胃が痛む思いで状況を見つめていた。イベントを成立させるには、エレノアがマリアに泥水をかけなければならない。しかし、今のエレノアのガワに入っているのは、泣き虫な本物のマリア(中身)なのだ。
案の定、エレノアの豪華なドレスを着たマリア(中身)は、自分の肉体(中身王太子)の前に立ち、高級なフープドレスをガサゴソと揺らしながら、大きなエメラルドグリーンの瞳に涙を溜めてオロオロとしていた。
「うぅ……なんで私がエレノア様の姿になってるんですかぁ……。それに、目の前にいる私の身体(中身王太子)が、もの凄く怖い顔で私を睨んでる……ひぃん!」
一方、特待生の粗末な制服を着たマリアの肉体(中身王太子)は、地を這うような低いトーンの美声で、エレノア(中身マリア)を蛇蝎のごとく睨みつけていた。
「――来たな、エレノア。いや、中身はあの下町の渡辺まことか!?」
王太子(中身)は、目の前のエレノアの中身がまことだと完全に勘違いしていた。毎晩の悪夢(物置のキス)のせいで、彼の脳内は完全にまことに支配されている。
「昼間の現実でも、私の前にその姿で現れるとはな! そのバケツの泥水で、今度はこの肉体をどうするつもりだ? 毎晩の夢の中だけでは飽き足らず、現実でも私を……私の王族としての尊厳をドロドロに汚さねえと気が済まないのか!」
「殿下、違いますぅ! 私はマリアですぅ!」エレノア(中身マリア)が必死に弁明する。
ザワザワ……と、校舎裏の茂みの向こうから、不穏な気配が湧き上がった。ゲームのシナリオ通りに動く「エレノアの取り巻きの令嬢たち(モブ)」が、いじめイベントを観劇するために集まってきたのだ。
「ご覧になって、エレノア様が平民の特待生をお呼び出しですわ……」「やはり、身の程知らずにはお仕置きが必要ですわね」
(マズい、モブ令嬢たちの監視が入った! このままじゃエレノア(中身マリア)が動けないせいで、イベント失敗で世界がバグる!)
物陰で見ていたまことは意を決した。俺が「エレノアの従者(用務員)」として泥水をぶっかける悪役をやるしかない!
まことは物陰から飛び出し、エレノア(中身マリア)の前に跪いた。
「エレノアお嬢様! このような平民、お嬢様の手を汚すまでもありません! この用用員のまことが、代わりにお仕置きを執行いたします!」
「えっ? えっ? まことさん!?」エレノア(中身マリア)が目を丸くする。
まことはバケツを思い切り掲げ、マリアの肉体(中身王太子)に向けて叫んだ。
「さあ、その綺麗な顔を、この泥水で汚しなさい!!」
バシャァァァァン!!!
放たれた茶色い泥水が、放物線を描いてマリア(中身王太子)の頭上から容赦なく降り注ぐ。金髪が泥で茶色く染まり、白いブラウスに汚いシミが広がっていく。
「くっ……あ、ああ……っ!」
泥水を頭から被ったマリア(中身王太子)は、屈辱に唇を噛み締め、その場に膝をついた。周囲のモブ令嬢たちから「おーほっほ! お似合いですわ!」と拍手が沸き起こる。
【システムメッセージ:イベント『校舎裏の洗礼』の条件(エレノア陣営がマリアに泥水をかける)が代理達成されました。フラグ維持に成功】
(よし……! これで世界線は維持された……!)
まことが心の底から安堵し、空のバケツを下ろした瞬間。
泥水に濡れたマリア(中身王太子)が、ゆっくりと顔を上げた。前髪から泥水を滴らせながら、彼女の瞳から、一筋の綺麗な涙が頬を伝って流れ落ちた。
「……やはり、夢と同じだ。お前は、そうやって乱暴に私を組み伏せ、汚し、快感を得ているのだな……」
「は!? いや殿下、本当にそれはシステムの強制力で――」
「黙れ……っ! 私とて、一国の王太子だ! 毎晩お前に物置で唇を奪われる悪夢に怯え、昼間はこうして女の身体で泥を塗られるなど……これ以上の侮辱があるか! だが……だが、なぜだ……!」
マリア(中身王太子)は、泥まみれの自分の胸元をぎゅっと抱きしめ、激しく呼吸を乱しながら、まことを凝視した。
「なぜ、お前にこうして乱暴に汚されると……私の心臓が、こんなにも激しく気高く脈打つ(ときめく)のだ……ッ!? 悔しい、悔しいぞ渡辺まこと……! お前はいったい、私にどんな呪いをかけたんだ!」
「はあああ!? 殿下、それはいじめイベントの恐怖による単なる動悸(吊り橋効果)ですって!!」
王太子の精神が、夜な夜なの悪夢と、現実のリアルいじめ(代行:まこと)という波状攻撃により、完全に「重度の勘違い(バグ)」を起こしていた。完全に「手負いのヒロイン」の目になった王太子(見た目マリア)の熱い視線に、まことは全身に鳥肌が立つのを感じた。
その時である。ドタドタドタ!!! と物凄い足音が響き、校舎の角から、豪華な制服を着た王太子ギルバートが、髪を振り乱して猛ダッシュで突っ込んできた。中身は、先ほどまで「緊急御前会議(公務)」を死ぬ気で戦い抜いてきた亜香里である。
「ちょっと待ちたさーい!! まこと、マリアちゃん……って、中身は殿下!? 無事!?」
王太子のガワのまま息を切らせて叫ぶ亜香里。その手には、会議で適当にサインさせられた国家予算の書類がクシャクシャに握られている。
「亜香里! こっちはイベント成立させたぞ! それよりお前、その身体で会議どうしたんだよ!?」
「もう必死すぎて記憶ない! それより、その泥まみれのマリアちゃん(中身王太子)が、まことをすっごく熱い目で見つめてるの何!? 浮気!? 泥棒猫なの!?」
王太子のガワ(中身亜香里)が、用務員のまことに詰め寄るという、客観的に見れば「美形の王太子がむさ苦しい用務員に嫉妬して迫っている」ようにしか見えない、地獄の修羅場が展開される。
その時。
キーン、コーン、カーン、コーン――。
午後2時。魂のシャッフルタイムの終了を告げる鐘の音が、学園に鳴り響いた。
空間が虹色に歪み、魂がそれぞれの「本来の肉体」へと強制的に引き戻されていく。
「――はっ!? やっと戻ったぁー!!」
自分の肉体に戻り、動きやすくなった我が身に歓喜する亜香里。
「冷たっ……!? え、お、お洋服が泥だらけ……? うわぁぁん!」
魂が自分の身体に戻ってきた瞬間、自分が頭から泥水を被っている現実に直面し、大号泣する本物のマリア。
そして、自身の執務室の椅子で自分の肉体に戻った本物の王太子ギルバートは――。
先ほどまでマリアの身体で体験していた「用務員のまことに泥水をぶっかけられて心臓がバクバクした記憶(勘違いのときめき)」が脳内に直接フィードバックされ、
「私は……私はマリアの身体で、あの下町の男に、泥を塗られて喜んでいたというのか……!? 違う、あれはイベントの強制力で……いや、しかしあの胸の気高き鼓動は……ッ!」
と、王族としての尊厳と新たな扉の間で、激しく頭を抱えてのたうち回っているのだった。
呪い(キスのノルマ)をクリアし、公務をギャルのノリで乗り切り、いじめイベントをライブシャッフルで強行突破したまことと亜香里。
しかし、王太子の倫理観が別次元へと狂い始めたことで、この四重奏のバグは、さらなる予測不能な深淵へと突き進んでいくのだった
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!