テラーノベル
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エレンと結ばれ、心を通わせてから数日。
私の世界は、これまでの灰色が嘘だったかのように、色鮮やかな幸福に満たされていた。
優しい朝陽、穏やかなお茶の時間
そして隣にいてくれる彼の存在。
けれど、そんな絵画のような幸せを壊すのは、いつだって私を一人の人間ではなく
「都合のいい道具」としてしか見ていなかった、身勝手な身内だった。
その日、エレンは王宮での公務のため、朝から不在にしていた。
「なるべく早く帰るよ」
そう言って、愛おしそうに私の額にキスをして出かけていった彼を笑顔で見送り
私は一人、屋敷の静かな図書室で、先日デートで彼と一緒に選んだ本を開いていた。
しかし、その穏やかな静寂を破ったのは
玄関の方から聞こえてきた、耳を塞ぎたくなるような濁った怒鳴り声だった。
「おい! 出てこいスカーレット! 親を差し置いて、こんな贅沢な暮らしをしてるとは何事だ!」
心臓が、氷の塊を無理やり飲み込んだように冷たく、激しく脈打つ。
聞き間違えるはずがない。私を無理やり
女遊びの激しいロニーに嫁がせ、泣いて縋っても「黙って従え、それがお前の仕事だ」と突き放した、私の両親の声だ。
(どうして……どうしてここが分かったの……!?)
ガタガタと震える足で玄関ホールへ向かうと
そこには困惑する使用人たちの制止を力ずくで振り切り、高価な絨毯の上を土足で踏み込まんばかりの勢いで仁王立ちする父と母の姿があった。
「あら、やっと出てきたわね。この親不孝者が! よくもノコノコとこんな所に!」
母が私の顔を見るなり、毒蛇のような鋭い声で言い放つ。
父は、屋敷の壁に飾られた絵画や豪華な調度品を
まるで自分の所有物であるかのように品定めする目で卑しく見回しながら、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ロニー君から聞いたぞ。お前、勝手に離縁したそうじゃないか。しかも、こんな若い男の屋敷に転がり込んで、のうのうと……。よくもまあ、我が家の名に泥を塗ってくれたな!」
「ち、違う……! 私は、ロニーにひどい扱いを受けて……、帰る場所もなくて。それに、エレンは、私を助けてくれただけで……っ」
「黙れ! 誰が言い訳を許した!」
父の怒号が吹き抜けのホールに激しく響き渡る。
その耳をつんざくような威圧感に
私は子供の頃、暗い部屋に閉じ込められた時と同じように肩を震わせて縮こまってしまった。
「お前が勝手にロニー君の元を去ったせいで、家同士の契約が台無しだ。我が家の事業にどれだけの損害が出たと思っている?」
「……いいか、今すぐ荷物をまとめて戻るんだ。ロニー君には私から頭を下げて、もう一度妻として置いてもらうよう話をつけてやる。お前は一生、彼の靴でも舐めて償うんだな」
「嫌……っ、あんなところ、もう二度と嫌よ……! 私はもう、あそこには戻らない!」
震える声を振り絞って言い返したが、それを見た母が冷酷な笑みを浮かべて一歩踏み込んできた。
「嫌も何も、あんたは私たちがここまで育ててやった『商品』なのよ。代金分は働いてもらわないとね。それとも何? 戻りたくないなら、今ここでこの屋敷の主に、迷惑料として金を工面させなさい。娘を囲うなら、それ相応の誠意を見せてもらわないとねえ」
「お金……? お父様も、お母様も……結局、どこまで行ってもお金なの……?」
視界が急速に歪んでいく。
この人たちにとって、私の心や幸せなんて、最初から一欠片もどうでもよかったのだ。
ただの金蔓か、家を潤すための便利な道具。
喉元まで言い返したい言葉は出かかっている。
けれど、長年かけて魂に刷り込まれた恐怖と従順さが、重い鎖のように私を縛り、声が出ない。
「ほら、さっさと来い! グズグズするな!」
父が乱暴に私の細い腕を掴んだ。
ロニーの乱暴さとはまた違う、湿り気を帯びた脂ぎった嫌な力が加わる。
「やめて、放して……! 助けて、エレン……!」
恐怖が限界に達し、私が彼の名を心の中で叫んだ、その時だった。
「その汚い手を、彼女から離してもらおうか」
冷気を含んだ、けれど地響きのように重く、心臓を直接震わせるような声。
正面の重厚な玄関扉が静かに、だが圧倒的な威圧感を持って開かれた。
そこに立っていたのは、公務帰りの隙のない正装に身を包んだ、エレンだった。
いつもの、私を溶かすような優しい琥珀色の瞳は、今は凍てつくような冷徹な光を放ち、父を射抜いている。
「エ、エレン……!」
「……あ? 誰だ、お前は! 娘を唆して連れ込んだ間男か!」
父が顔を真っ赤にして虚勢を張って怒鳴るが、エレンは一歩
また一歩と優雅に、だが確実に死神のような足取りで歩み寄る。
その一歩ごとに、ホール全体の空気の密度がどんどん重くなっていくのがわかった。
「間男? 言葉には気を付けていただきたい。僕はこの屋敷の主、エレン・ヴァレンタイン侯爵だ。そして、スカーレットは私の正当な婚約者であり、将来を誓い合った最愛の女性だ」
エレンは私の腰にそっと、けれど強く手を回し、父の汚い手から私を鮮やかに奪い返した。
彼の腕の中に引き寄せられた瞬間、震えがピタリと止まり、彼の体温が私の中に流れ込んでくる。
「侯爵、だと……? スカーレット、お前、こんな大物を……」
母が驚きとともに欲望に目を輝かせて擦り寄ろうとしたが、エレンが不快そうに片手を挙げてそれを拒絶した。
「話はすべて聞かせてもらった。彼女を『商品』と呼び、金のために虐待を繰り返した男の元へ無理やり帰そうとする。……貴方方は、親を名乗る資格すらない」
「なっ、親に向かって何を……! 私たちは親として当然のお金を請求して何が悪い!」
「金? 結構だ。ならば、貴方方がスカーレットに長年与えた精神的苦痛、そして不当な強制結婚による損害賠償を正式に請求しよう。法廷で徹底的に争っても構わないが、ヴァレンタイン家を敵に回して、この国で生き残れると思っているのか?」
エレンの低く冷ややかな言葉に、両親の顔から急速に血の気が引いていく。
ただの一貴族が、王家とも繋がりの深い侯爵家に、しかも大陸最強の法務チームを抱えるヴァレンタイン家に逆らえるはずがない。
「そ、そんな……。私たちはただ、娘の身を案じて……」
「二度とその口で彼女を語るな。……今すぐこの屋敷から立ち去れ。次、彼女の前に現れるか、指一本でも触れようとしたら、貴方の家ごと、その身分ごと叩き潰す。これは脅しではなく、決定事項だ」
エレンの瞳に宿る、静かだが苛烈な本物の怒りに、両親は短い悲鳴のような声を漏らし、惨めに転がるようにして屋敷から逃げ出していった。
静寂が戻ったホールで、私はエレンの胸に顔を埋め、堪えていた涙を堰を切ったように溢れさせた。
「……ごめんね、スカーレット。怖い思いをさせた。僕がもっと早く帰るべきだった」
「ううん……。エレンが、また私を……守ってくれたから……っ」
エレンは私を抱きしめる腕に一層力を込め、耳元で愛おしそうに、けれど力強く囁いた。
「もう大丈夫。あんな奴らは、二度と君の人生に関わらせない。君を傷つけるものからは、僕がすべて守ってあげるからね」
彼の手の力強い温もりが、私を縛っていた過去の呪縛
その重い鎖を、今度こそ完全に焼き切ってくれた気がした。
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