「労らせてくれよ」
尊さんはそう言ってから今度は洗面所に行ってお湯で濡れタオルを作り、いつものように汗を掻いた私の体を拭いてくる。
「……要介護」
ボソッと呟くと、彼は声もなく笑い崩れる。
私の体を綺麗にして下着を穿かせたあと、彼は自分の体もサッと拭いて下着を穿き、自分も布団に潜り込む。
「……あぁ、可愛い」
そのあと、そんな事を言いながら私を抱き締めてきた。
「なんですか、いきなり」
「こんな可愛い彼女を抱いてるんだぜ。絶対世界中の男から嫉妬される」
「もぉ……」
ふざけているんだか分からない言葉を聞き、私はクスクス笑う。
「寝るか」
「……はい」
私は尊さんの温もりを感じながら、幸せと安心感に満ちて目を閉じた。
今ではこの立派過ぎるマンションを〝我が家〟と認識している自分がいる。
記憶にある私の最初の〝家〟は、賃貸マンションだった。
居間とキッチンがあり、バスと洗面所があるほか、二つの部屋があって、一つは両親の寝室、一つは私の部屋にしてもらえた。
その物件に暮らしていた時に父は亡くなってしまい、私は母と別のアパートに移って数年暮らした。
それから母が再婚したあとは吉祥寺に移り、一人暮らしを始めて転々とし、最後は西日暮里に住んだあと、尊さんが暮らすマンションにお世話になる流れだ。
私の記憶はあやふやで、ジグソーパズルのピースが少し欠けてしまっているような感じで、大切な事を忘れてしまっている事に罪悪感を抱いている。
(……お父さん、こんな私でも幸せになっていいかな? 大好きなお父さんの事を忘れたまま、お嫁に行こうとしてるけど、許してくれる?)
心の中で父に話しかけてくると、涙が次々に溢れてくる。
私がズッと洟を啜ったのに気づいたからか、尊さんは私の体に腕を回し、脚も絡めてくる。
(この人、とっても優しいの。頼りになるし、理想の上司。お父さんが死んで絶望していた時、私の命を救ってくれた人だよ)
そう思うと、すでに父から尊さんにバトンタッチがされていたように思えた。
まるで、花嫁のエスコート役を、ヴァージンロードの途中で新婦の父から新郎に変わるように。
あの時、尊さんが愛知県にいたのは、速水家の本家を見てやろうという気持ちからだった。
でも私の都合のいい脳は、父が彼をあそこに向かわせてくれたのでは……、と考えてしまう。
運命は巡りに巡って、彼の大切な家族を殺し、私の父を殺し、私たちを引き合わせた。
犠牲ありきの関係と思いたくないけれど、尊さんはお母さんと妹さんを喪わなければ愛知県へ行かなかっただろうし、私も父を喪わなければ旅行で向かう事はなかった。
私たちはこの人生を歩まなければ、出会う事はなかっただろう。
「……尊さん……」
「ん?」
小さな声で呼びかけると、暗闇の中で彼が返事をする。
体を伝って聞こえてくる低い声に安堵した私は、微笑んで言った。
「幸せになりましょうね」
私は言葉の初めに、「皆の分も」という意味を込める。
「ああ」
暖かな声を聞き、私は静かに息を吐き、ゆっくりと体をリラックスさせると眠りの淵に意識を解き放つ。
――ここは、安心していい場所だ。
もう暗闇を怖れて一人で震えなくていい。
母を気遣って、一人でも大丈夫なふりをしなくていい。
(これからは、尊さんを頼って夫婦として生きていくよ)
私はもう一度心の中で父に語りかけ、心地いい闇に意識を委ねた。
**
そのあと、GWになるまで精力的に働き続けた。
慣れない仕事だけれど、朝と帰る前にエミリさんと話し合って、分からない事や不安な点は指示してもらえた。
秘書課の人たちとは、仲良く……なれる雰囲気ではないので、あまり期待はしないでおく。
やっぱり彼女たちとしても、副社長にイケメンの尊さんが就任するとなり、自分が秘書になれるのでは!? と期待したのだろう。
けれどそこに他部署から私がスチャッと収まってしまったので、面白くなく思うのは当たり前だ。
へたをすると〝第二の丸木エミリ〟扱いされている……、と言っても過言ではない。
コメント
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そうですね....✨ きっとお父さんが朱里ちゃんを心配し、 尊さんに愛娘を託していったような気がします🥺🍀