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美佐子さんが去った後のフロアには
なんとも言えない気まずい、けれど熱を帯びた空気が停滞していた。
「……あ、あの。私、お弁当、休憩室で食べてきます!」
私は熱くなった顔を隠すように立ち上がると、逃げるようにその場を後にした。
背後で高橋先輩が何か言いかけた気がしたけれど、今の私には振り返る余裕なんて一ミリもなかった。
(無意識……無意識であんなこと、する!?)
休憩室の隅っこで、冷え切ったお弁当の卵焼きを口に運ぶ。
先輩の指先が触れた頭のてっぺんが、まだじんわりと熱い。
演技なのは分かっているけれど
あの時の先輩の目はいつもの「ムードメーカー」のそれとは違っていた気がして
自惚れそうになる自分を必死に抑え込む。
「───結衣ちゃん、ここ、いい?」
聞き慣れた声に顔を上げると、同期の佐々木君が立っていた。
「あ、うん!」
いつもは気さくな彼が、今日は少しだけ真剣な、複雑な表情をしている。
「……高橋先輩と付き合ってるって、本当なの?」
「えっ…あ、ええと……」
私は答えに詰まった。
嘘をつかなきゃいけない。
でも、一番身近な同期に嘘をつく罪悪感が胸を突く。
「……マジでびっくりした。高橋先輩、人気者だしさ。でも、結衣ちゃんとはタイプが違うから意外だなーって」
「タイプが、違う…?」
「うんうん、レベルが違うって言うか?なんかあったら俺に言ってよ?結衣ちゃん前まで影で泣いてることあったし」
「え、き、気づいてたの?!」
「まあね。だから、高橋先輩に泣かされたりしたら俺のとこに───」
「泣かせないよ。絶対」
背後から突然響いた、低く、少しだけ尖った声。
驚いて振り向くと、そこにはお弁当を持っていない高橋先輩が立っていた。
いつもの優しい微笑みがない。
少しだけ不機嫌そうに目を細めて、佐々木君を見下ろしている。
「あ、高橋先輩。……お疲れ様です」
佐々木君が気圧されたように椅子を引く。
「佐々木君。悪いけど、今から彼女と『ランチデート』の予定なんだ。席、譲ってもらってもいいかな?」
「あ……はい!すみません。失礼します!」
嵐のような勢いで去っていく佐々木君を見送った後、先輩は私の隣にどさりと腰を下ろした。
「……先輩? ランチデートなんて約束、してませんよね」
「してないね。……でも、他の男と楽しそうに話してるのが見えたから。つい」
「えっ……」
つい、って何。
先輩は私の方を向くと、少しだけいたずらっぽく
でもどこか真剣なトーンで囁いた。
「もう『付き合ってる』って公表したんだから、隙を見せちゃダメだよ。…いい? これからは会社でも、外でも。俺の前では俺の『結衣』でいて」
「……ゆ、い……?」
「そう。下の名前。……演技の一環、だよ」
先輩はそう言って、また「無意識」のような顔をして、私の髪をひと房、指先で弄んだ。
『演技』。
その二文字が、甘く溶けかけた私の心に冷や水を浴びせる。
でも、先輩の口から呼ばれた自分の名前の熱さに
私はもう、逃げ出すことさえできなかった。
#ワンナイトラブ