テラーノベル
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大正十三年、四月。
神田の焼け跡に、新しい木の匂いがする店が一軒、建った。
まだ半分は板囲いの、小さな店だった。両隣も、向かいも、建ちかけの柱ばかりが並んでいる。それでも、格子戸の上には、檜の看板が掛かっていた。
志摩活版所。
父の字だった。火傷の痕の残る手で、三日かけて書いたのだという。
店の奥に、活字棚が一つだけ、据えてあった。
棚の升目の半分は、まだ空いている。埋まっているのは、私の嫁入り道具の木箱から移した字と、冬馬様が大阪の鋳造所から取り寄せてくれた字だった。
父が、棚の前に立った。
煤けた前掛けを、きゅっと締め直した。その背中が、去年の秋より、少しだけまっすぐになっていた。
「栞。最初の一行は、お前が組め」
父は、植字台の上に、真鍮の組み盆を置いた。
「この店の、一番目の仕事だ」
私は、左手に組み盆を持ち、右手の指を、棚の升目に伸ばした。
久。遠。寺。
指が、覚えていた。目で探すより先に、指先が字の重さを知っている。
冬。馬。
それから、少し迷って、一本の活字をつまんだ。
栞。
字面は、裏返しだった。活字は、いつも裏返しだ。紙に押しつけたとき、初めて正しい向きになる。
帯の上の、銀の帯留めに目を落とした。冬馬様が、職人に活字の形に彫らせた、鏡文字の栞。直させようとしたら、これで正しいと言い張られた、と言っていた。
本当に、これで正しかったのだ。
組み上がった版に、父が、インクを含ませたローラーを転がした。
白い紙が、版の上に重なる。父の、まだ少し震える手が、手フートの柄を、ゆっくりと押し下げた。
紙を剥がす。
御披露目の御案内。久遠寺冬馬、栞。
四方を、子持ち罫が囲んでいた。新しく鋳た、真鍮の罫。どの角にも、欠けはなかった。
右下の欄外に、小さく、六号の数字が並んでいた。
一三・四。
刷った年と月。今度は、入れるなとは、誰にも言われなかった。
父が、刷り上がりを窓の光にかざした。
「……活字は、嘘をつかん」
いつもの口癖だった。今度は、自分を責めているようには、聞こえなかった。
格子戸が開いて、黒い三つ揃いの人が、身をかがめて入ってきた。
黒い革の手袋は、もうしていなかった。両の手の甲に、薄く引きつれた火傷の痕が残っている。冬馬様は、それを隠さなくなった。
「父上。一枚目は、私がいただきます」
「侯爵様、そいつはまだインクが乾いとらん」
「構いません」
冬馬様は、刷り上がったばかりの紙を、指の先でそっとつまみ上げた。罫の四つの角を、一つずつ、目で確かめていた。
それから、私を見た。
「欠けていない」
「新しい罫ですから」
「そうか」
冬馬様は、紙を、内隠しの手帳のあいだに挟んだ。握り飯の数を書きつけている、あの手帳だった。
*
その月の末、私は、二つの墓に花を供えた。
青山の、久遠寺家の墓所。小夜子様の墓には、大奥様が、早咲きの藤の一枝を手向けた。大奥様は、長いこと手を合わせていた。それから、私を振り返らずに言った。
「藤の間を、開けておきなさい。花の季節のあいだだけでも。あの子は、藤が好きでしたから」
小石川の、白河家の寺。
千鶴さんの墓の前で、子爵夫人が、私の手を両手で包んだ。透さんは、詰襟の袖で、何度も目をこすっていた。白河子爵は、冬馬様と並んで、黙って頭を下げていた。
麗子様は、黄色い山吹を抱えてきた。
「向日葵は、まだ咲かないもの。千鶴さんの、半幅帯の色よ」
麗子様は、『婦人の窓』の四月号に、自分の名で、長い記事を書いた。藤堂麗子。千鶴さんのこと。小夜子様のこと。三人目の妻の目が、何を読んだか。
「勘違いなさらないで。あなたのために書いたんじゃないわ」
麗子様は、細い眉を上げて、それから、少しだけ笑った。
「でも、あなたが読んでくれたら、嬉しい」
藤堂家では、お駒が、今も麗子様の髪を結っているのだという。腕だけはいいのよ、と麗子様は肩をすくめた。
私は、墓石の前にしゃがんだ。
心の中で、千鶴さんの手紙に、返事を書いた。
千鶴さん。あなたの見つけた欠けは、ちゃんと、私が読みました。この家の紙は、全部、あるべきところへ戻りました。
十二階は、八階から折れてしまいました。鎌倉のハツさんから手紙が来て、あの東屋は、崖ごと海へ落ちたそうです。
それから、あなたが信じていた旦那様は、今も卵焼きを焦がします。
私は、焦げたほうを、もらうことにしています。
*
屋敷は、少しずつ、元の姿に戻っていった。
百合絵様と篠原さんの婚約が、親族会で決まった。誰も反対しなかった。篠原さんは、来年の春に大学を出たら、司法官を目指すのだという。
「錠前の開け方を知っている判事さんなんて、素敵じゃない」
百合絵様は、そう言って笑った。
大台所は、建て直された。
朝になると、大奥様が、ときどき襷を掛けて、竈の前に立つ。握り飯を握るのだ。角がなく、ところどころ崩れて、指の跡がそのまま残っている。塩加減だけは、少しずつ、よくなってきた。
タキさんは、杖をついて、屋敷じゅうを歩くようになった。声は、まだ、か細い。それでも、お鈴が廊下を走れば、ちゃんと叱る。
離れには、ふささんが住んでいる。夕方になると、三味線の音が、細く聞こえてくる。大奥様は、それについて、何も言わない。ただ、離れへ運ぶ膳だけは、自分で見てから出させている。
フミさんは、中央電話局の交換室に戻った。今度、白河先輩のお墓に連れていって、と、走り書きの手紙を寄越した。
鬼塚警部補は、焼け跡の仮の庁舎で、相変わらず帽子を取らずに働いている。
真柴さんは、市ヶ谷で、裁きを待っている。
冬馬様は、月に一度、手紙を書く。返事は、まだ一度も来ない。それでも、冬馬様は、書くのをやめない。
ある晩、冬馬様が、私の手のひらに、古い鍵を一つ載せた。
萩の間の、鍵だった。
「君が、開けてくれ」
翌朝、私は、百合絵様と二人で、萩の間の板戸を開けた。
三年近く閉め切られていた部屋に、春の風が入った。文机の上の埃を払うと、百合絵様が、袂から、一枚の写真を出した。
窓辺で笑う千鶴さん。八階の写真屋で撮った、白く霞んだ東京の屋根を背にした一枚。
「お兄様には、ずっと内緒にしていたの」
百合絵様は、写真を文机に立てかけた。
「でも、もう、いいわよね」
その日の夕方、冬馬様は、萩の間の敷居を、初めて越えた。
*
夕暮れ。
洋館の北側には、新しい煉瓦の壁が積まれた。その内側に、厨房も、元の通りに作り直された。ガス焜炉、銅鍋が三つ、水甕、鉄格子の窓。
鍵は、二本。冬馬様と、私の。
その日、私は、冬馬様より先に、厨房に入った。
釜の飯を、手に取った。塩を、手のひらにまぶす。熱い飯を、両手で包んで、二つ握った。
少しいびつな、塩だけの握り飯だった。
婚礼の夜、半紙に包まれて、小卓の上に置かれていたものと、同じ形にしたかった。
戸口で、靴音がした。
冬馬様が、白いシャツの袖をまくりながら入ってきて、作業台の上の皿を見て、足を止めた。
私は、皿を、冬馬様のほうへ押しやった。
「今夜は、私が用意しました」
冬馬様は、黙って、一つを手に取った。
長いこと、それを見ていた。それから、一口、食べた。
ゆっくりと噛んで、飲みこんだ。
「……塩が、きつい」
そう言って、冬馬様は、もう一口食べた。
それから、私を見た。灰色がかった黒い目の端に、細い皺が寄った。
もう何度も見た笑い方だった。それでも、見るたびに、私は、少しだけ息を止めてしまう。
「栞」
「はい」
「この家では、君が用意したもの以外は食べない」
コメント
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第80話、読み終わりました。 焼け跡からの再出発、志摩活版所の「最初の一行」に栞さんが自分の名を組んだところで、もう胸がいっぱいになりました。それと、最後の握り飯——「今夜は、私が用意しました」の静かな強さと、冬馬様の「この家では、君が用意したもの以外は食べない」という言葉に、ああ、このふたりは確かに新しい家を建てたんだなと感じました。 細やかな日常の描写が、すべての重みをそっと受け止めている、素晴らしい回でした。
local99
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瑠璃マリコ
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