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十二月の最初の月曜日、私は、白樺台警察署の小さな部屋で、紙を一枚ずつ机に並べた。
御影家との雇用契約書。給料の受け取り。病院の手術の同意書。
幼稚園の運動会の、付き添いの名簿。
どれにも、右手の字で、佐伯凛と書いてあった。
「これで、全部です」
向かいに座った水無瀬刑事は、ガムを噛むのをやめていた。
「私は、佐伯凛さんの名前を借りて、半年働きました。お給料も、その名前で受け取りました。……凛さんの貯金には、一円も手をつけていません。でも、名前を使ったことに、変わりはありません」
水無瀬刑事は、黙って紙を揃えた。
それから、上着の内ポケットから、もう一枚出して、その上に重ねた。
十月の朝、離れの縁側で、私が書いた被害届だった。
「凛さんの名前で書いた紙は、全部、凛さんに返す。……そう言いましたね」
「はい」
「ご自分で始末をつけに来た人は、あなたが初めてですよ」
帰りぎわ、ドアの前で、水無瀬刑事が言った。
「起訴するかどうかは、検察が決めます。結果が出たら、連絡しますよ。……白瀬さん、でいいんですか。それとも、まだ御影さん」
「……かしこまりました」
口から出たのは、半年、毎日言い続けた言葉だった。
水無瀬刑事が、吹き出した。
私も、つられて笑った。喉が、ん、と鳴って、咳にはならなかった。
一月の終わりに、検察から知らせが来た。
事情を考え、起訴はしない、と。
*
冬のあいだに、たくさんの紙が動いた。
家庭裁判所の許可が出て、戸籍の、私の死亡の記載が消された。
拘置所の蒼真は、弁護士を通じて、離婚届に判を押した。私は、白瀬の姓に戻った。
陽翔との養子縁組は、そのまま残った。
私は、離婚しても、法律の上でこの子の母親だった。
運転席で亡くなった人が佐伯凛さんだということは、私が生きていることと、バッグの遺品と、松本の歯医者に残っていた記録で、正式に確かめられた。
蒼真の親権を止めてほしいという申立ては、二月の初めに認められた。
お義父さまの遺言の検認は、十二月のうちに終わっていた。坂の上の家は陽翔のもので、その管理は玲司さんに任されている。
私と陽翔は、あの家に残った。
麗奈は、紗季さんを殺した罪で、起訴された。
八月の階段の狂言は、水無瀬刑事が預かっていたものを、そのまま検察へ送った。どう裁くかは、私が決めることではない。
堂島も、凛さんを殺した罪で、起訴された。
お義母さまのことは、倉橋先生が教えてくれた。
息子をかばって証拠を隠した罪は、親族のしたことだから、刑は免除される見込みだと。
*
お義母さまは、和館に残った。
月に一度、二十日に、私を茶室に呼ぶ。
欠けた白い茶碗で、黙ってお茶を点てる。
許したわけではなかった。
お義母さまも、許してほしいとは、一度も言わなかった。
一月の二十日には、玲司さんも呼ばれた。
お義母さまは、茶碗を玲司さんの前に置き、少しだけ内側に寄せた。
「宗一郎さんの葬儀の五日後に、茶室の風炉で、青い封筒の束を燃やしたわ」
玲司さんの手が、茶碗の手前で止まった。
「あなたのお母様が、宗一郎さんに宛てた手紙。……宗一郎さんは、四十年、一通も捨てていなかったのよ」
お義母さまは、帛紗を畳んだ。
「それが、許せなかった」
玲司さんは、しばらく黙っていた。
それから、茶碗を両手で包み、一息に飲み干して、音を立てずに戻した。
お義父さまと、同じ手だった。
お義母さまは、その手を見て、目を伏せた。
帰りぎわ、私は、水屋でお義母さまにお茶を一服、点て返した。
ぬるめに。
お義母さまは、茶碗の縁に唇をつけ、長いあいだ、そのままでいた。
「……温かいわね。お茶というのは、本来こういうものだったわ」
*
二月十四日、陽翔は六歳になった。
朝、私は、厨房で、甘酒の卵焼きを焼いた。
左手で菜箸を返し、巻いた端を、そっと押さえて。
もう、誰の目を気にすることもなかった。
駅前の和菓子屋のおかみは、誕生日のお菓子の注文票に私の名前を見て、黙って、坊ちゃんの分を一つ増やしてくれた。
去年までと、同じように。
夕方、源さんとトキさんが来た。
お義母さまは、和館から渡ってきて、食堂の端の席に座った。
六本のろうそくを、陽翔は一息で吹き消した。
下の前歯の抜けたところに、新しい白い歯が、半分まで生えていた。
「澪ママ」
陽翔は、食卓の真ん中で、大きな声で私を呼んだ。
「来年も、卵焼き、あまいのね」
「うん。ずっと、あまいの」
離れの北の窓辺では、十月に拾った月下美人の葉が、根を出していた。
素焼きの鉢の中で、葉の付け根から、新しい芽が小さく顔をのぞかせていた。
水無瀬刑事が焼き増ししてくれた一枚の写真を、陽翔の部屋の棚に飾った。
赤ん坊の陽翔を抱いて、温室の月下美人の前で笑っている、肩までの髪の女の人。
「陽翔を、産んでくれたお母さん。紗季さん、っていうの」
陽翔は、写真の前で、長いあいだ黙っていた。
「……ママが、二人いるの?」
「うん」
「ふうん」
陽翔は、ぴょんたの手を取って、写真に向かって振らせた。
花が咲いたら、陽翔に見せよう。
紗季さんが、土の下の缶に書き残した一行だった。夏になったら、その約束を、私が代わりに果たす。
その週、私は、洋館の二階の奥の浴室の鍵を開けた。
警察から戻ってきた真鍮の鍵を、厨房の鍵掛けの、空いていたフックに掛け直した。
その下の札の「洋館浴室」は、嫁いだ年に、私が左手で書いた字だった。
窓を開けて、閉めきられていた湿った空気を、冬の庭へ逃がした。
戸口から、陽翔がのぞいていた。
「……あのドア、もう、きらいじゃないかも」
*
二月の終わり、私は、玲司さんと、雪の松本へ行った。
あかつき園は、山を背にした、古い二階建てだった。
玄関の前で、雪かきをしていた小柄なおばあさんが、シャベルを持ったまま顔を上げた。
大貫先生だった。
応接室で、私は、膝の上の平たい箱を開けた。
裏打ちした手紙。
麗奈に破られ、離れで玲司さんが和紙で継いでくれたもの。欠けた角に、新しい和紙が一枚当ててある。
それから、柘植の櫛。
髪は、もう一本も残っていなかった。
トキさんから預かってきた、紙の束も。
凛さんがトキさんに送っていた、手書きのレシピの写しだった。おやき、くるみ味噌、染み抜きのメモ。丸い、右上がりの字。
最後に、茶封筒。
御影の家で、凛さんの名前で受け取った給料を、毎月少しずつ入れてきたもの。
「凛さんが、先生に宛てて書いて、出せなかった手紙です。……私が持っていました。一年と、三か月」
大貫先生は、眼鏡をかけ直して、手紙を読んだ。
東京のお屋敷で、働かせてもらえることになりそうです。
凛は、ずくを出して働きます。
先生の指が、欠けた角の和紙を、何度もなぞった。
「あの子らしい」
先生は、笑った。
笑いながら、涙が、皺の溝を伝って落ちた。
「ずくのある子でね。人の代わりに、すぐ自分が重いほうを持っちまう」
私は、頭を下げたまま、上げられなかった。
凛さんの遺骨は、春に、御影家の墓から、園の子たちが眠る松本のお寺の墓へ移す。
御影家の墓誌の、削られた私の名前は、そのときに消してもらう。代わりに、松本の石に、佐伯凛と彫る。
先生は、茶封筒を、両手で胸に抱いた。
「凛の、名前で、受け取ります」
*
松本の駅のホームに、雪が降っていた。
私は、東京から持ってきた黒い長傘を、手に取った。
五月の雨の日に、この人が私に渡して、自分は濡れて車へ走っていった傘だった。
勝手口の傘立てで、九か月、返す日を待っていた。
傘を開いて、玲司さんの頭の上に差しかけた。
背の高い人だった。
私が腕を伸ばしても、傘の縁が、玲司さんの髪をかすった。
玲司さんは、私の手から柄を取って、私の側へ傾けた。
自分の肩に、雪が積もっていくのもかまわずに。
「やっと、返せました」
「ああ」
電車の入ってくる音が、雪の向こうから聞こえてきた。
玲司さんは、ホームの先を見たまま言った。
「桜が咲いたら、答えを聞きに行く」
コメント
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第79話、読み終わりました。 凛さんへの想いが、一枚一枚の書類や手紙、給料の封筒にまで丁寧に込められていて、胸がじんとしました。陽翔くんが「ママが二人いるの?」と聞いたあと、ぴょんたの手を取って写真に振らせたところが特に好きです。子どもなりの優しい受け入れ方だなあと。 玲司さんが「桜が咲いたら、答えを聞きに行く」と言って、傘を澪さん側に傾ける場面も、とても静かで美しかったです。これからの季節が、どうか温かいものでありますように。
#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
1,613
ゆうき
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