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「ち……っ!」
真っ向から迫る穂先を認めた虎石は、ともかく鉞を盾のように取り成して、これを難なく防ぎ止めた。
見る間に厚刃の一部が白々と凍(し)みつき、慣れ親しんだ手溜まりに、かすかな違和感が生じた。
すぐさま刃の内側に体当たりを加え、冷ややかな穂先を女性の体躯もろともに押し返す。
これが驚くほど軽々としており、にわかな罪悪感が胸中でチクリと小針を打った。
もちろん、そんな事に感(かま)けている時ではない。
なり振り構わずひた走った真っ白な穂先が、地面を浅く引っ掻いたのもつかの間、こちらの腋下を目掛けて駆け込んできた。
反射的に拝み打ちで応じたところ、強(したた)かに火花を散らして咬み合った箇所が、またしても仮借(かしゃく)のない堅氷に覆われた。
「くそったれ!!」
たまらず後退し、これを苦しまぎれに地面に打ち付けるも、モノは砕けるどころかびくともしない。
やはり並みの氷ではないか。
通力が揮(ふる)う最低限を残していれば事足りるとは言え、肝心の刃を半ばまで封じられたとあっては、いささか分が悪い。
それに、元より過重量の厚刃がさらに着膨れを余儀なくした結果、ほんの一振りを加えただけで肩が持っていかれそうになる。
手指の硬直も深刻だ。 どうにか五指は柄に巻きついている様子だが、感覚は疾(と)うに無い。
この寒冷に得物の超重量も加わって、今にも痩せ枝のようにポキリと行ってしまいそうな錯覚が、先から頭の中をひっきりなしに行き来している。
戎具としての機能を著しく低下させた愛用の得物は、ひとえに鈍重なお荷物に様変わりしつつあった。
──それにしてもコイツ。
最前の臨機に富んだ攻め手はどこへ失せたのか。 今のやり口にはまるで精彩がなく、あたかも子どものお遊びに付き合っているような気分だった。
窮地にあって見境をなくす者は多々いるが、どう見ても形勢はいまだ向こうに傾いている。
さっきの言葉、あれがよほど癇に障ったか。
もしくは地雷とばかり思っていたものが、単なる泣き所であったのか。
思う間に、疾風(はやて)のように走り駆けた女性が、長尺の柄を棒高跳びの要領で撓(しな)らせて、頭上に高々と躍った。
対する虎石は、敵の到来を待たず、地面に打ち込んだ得物を足掛かりに勇躍、これに満身でぶち当たった。
闇雲に突き出された穂先を辛くも避け、柄を用いた俊敏な打撃を感覚の失せた手掌で払い除(の)ける。
そうして相手の身柄を力任せに組み敷いたはいいが、なおも抵抗は著しく。 頬を引っ掻かれ、首を絞められ、あまつさえ目玉を突かれそうになったところで、ようやく地表に到った。
人体が発したものとは思えないほど鮮烈な噪音が鳴った。
ちょうどガラス細工をハンマー等で景気よく打ち壊すような、甲高い音だった。
背中を強打した女性は、しばらく息を詰まらせた後、身体を弓なりに反らせて苦悶した。
落下の衝撃で横合いにすっ飛んだ虎石は、ともかく頭を振って気つけを得た。
敵の身柄がクッションになったお陰で、立て直しは早い。
これで詰みだ。 恐らくアイツはしばらくのあいだ動けないだろう。
先方の様子を確認すると、五体を大の字に投げ出す格好で空を仰いでいる。
「よぉ、もうここいらで──」
声をかけようとした矢先、奇っ怪な音色を聴いた。
錆びた鉄板を爪の先で擦(こす)るような、不快で気味の悪い音。
それが女性の口から発せられた笑声であると知るのに、そう時は要さなかった。
先の痛手が尾を引いているのか、時おり声を詰まらせながらも、彼女は笑うことを止(や)めない。
「お前……、なにがあった?」
図らずも、虎石の胸中で何とも言えない情操が働いた。
人がここまで狂うのには、相応の理由があるはずだ。
「……愉快ですね?」
「愉快じゃねえよ。 そんな女の姿……」
この世の中に、イカれてない奴なんていない。
そう言い聞かせたところで、やはり割り切れない物事は多分にある。
それこそ、巷(ちまた)を歩けばあちこちに散らばっている。
「話せとは言わねえよ。 けど、こんなアホなことはもう止めにして」
「……霙(みぞれ)」
「あ?」
不意に、女性がうわ言のように唱えた。
その意図が、果たして虎石には理解し得ない。
誰かの名前か。 それとも単に世迷言(よまいごと)か。
──待てよ、名前……。
出し抜けに、全身が粟立った。
「カヤ!!!」
なり振り構わず相棒を大呼し、既(すんで)に寄越された霊威を糧に、できる限りの瞬発力で跳躍する。
瞬く間に中空へ至った虎石の眼下、広大なグラウンドが、いまや氷棘の密林と化していた。
まるでチープな落とし穴の底を見る思いだったが、その直中(ただなか)で女性がヒラヒラと手を振っているのが見えた。
「舐めんなコラァ!!!」
先頃の哀愁も手伝ってか、瞬時に沸点を超過した彼は、鉞をスケートボードのように取りまわしつつ、この剣呑な密林に突撃をくれた。
頼もしい大塊が尖端の群れをざっくばらんに圧(お)し潰し、清々しい氷晶が礫(つぶて)のように飛散した。
そうして根元の安全圏にゴロゴロと転がり込むや、得物に配(あしら)われたなけなしの刃を利かせ、目に留まる徒物(あだもの)を片っ端から伐(き)って伐って伐りまくった。
手もなく樵(こ)られた長大な氷棘が澹然(たんぜん)と倒れゆき、近場を巻き込んで崩壊を起こす。
大小の氷塊が、にわかな雹のように降り注いだ。
「驚きました?」
「あ? あぁ、まぁな……」
肩で息をする虎石に、身を持ち直した女性が細(ささ)やかな期待を忍ばせて訊いた。
御遣の力量は、霊威を発信する協力者──、すなわち巫覡(ふげき)の能才に比例する。
うちの場合は身体強化がせいぜいだ。 なにをどのように間違っても、あんな真似は出来っこない。
この女、いったいどんな化け物を飼って……。
「本当に楽しくて、困ってしまうんですよ」
「あ?」
ふと、彼女が瞳を細めて言った。
その顔つきには、やはり一貫して悪気がなく。 まるで人形遊びに精を出す幼気(いたいけ)な少女のようだった。
「……オメー、なんでこんな事やってる?」
「怒られたこと、ないんですよ。 わたし」
「あん?」
悪いことをすれば怒られる。
そんな当たり前のことが、当たり前じゃない生活というのは殊(こと)のほか恐ろしい。
誤って窓を割った。
“お見事です”
誤ってキャンドルを倒し、小火(ぼや)が起きた。
“お見事です”
あれは幾つの時だったか、家族の節介が嫌で、ひどい癇癪(かんしゃく)を起こしたことがある。
しかし周りの者はこれを咎(とが)めようとせず、ただ甘い笑みを浮かべるのみだった。
「もし仮に……」
「……………?」
「もしも私があなたを壊したら、あなたは私を叱ってくれますか?」
「なに……?」
にわかに眉を顰(ひそ)めた虎石は、言葉の意味を知ろうと努めたが、これは間もなく頓挫する運びとなった。
余りにも不可解なものを見て、思考がピタリと停止したのである。
地中から岩漿(がんしょう)のように滲み出した寒水(ひみず)が、次第に人の形を取りなして凝固してゆく。
時を経ず、それは剣を携えた中世騎士の氷像となって、重々しい跫音(きょうおん)とともに屹立した。