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「恋を知ると、そういう顔ができるようになるのね。驚きだわ」
「大嫌いと言っておきながら、どうしてに嬉しそうに笑うんだ?」
忍の表情を見て、高橋は眉間に皺を寄せた。喜ばれるような発言をしていないのに、目の前の表情についてどれだけ考えても、答えのかけらすら浮かんでこなかった。
「そんなふうに見える? 実際は困っているのよ」
「何に困っているんだ?」
「だっていつものアンタなら、愛だの恋だのそんな話を耳にした途端に、否定していたでしょ。くだらないって」
「確かにな」
ふらつく足どりを隠そうと、背筋を伸ばして重心を下ろした。
「私の言った言葉を否定しないで、笑ったことにツッコミされるなんて思いもしなかったの。だから、いつものペースを崩されて困っているわ」
「……胸に穴が開く思いを知ったら、どんなに辛いことに直面しても、やり過ごすことができるんだな」
いつものペース――かなり昔の話を持ち出されて懐かしく思ったせいか、今の現状をぽろりと口にした。
「アンタ、いったい何してんのよ? らしくなさすぎて、お節介したくなっちゃうじゃない」
ショッキングピンク色の唇を突き出しながら告げられる言葉に、へらっと笑って肩をすぼめてみせた。
「普通に仕事をしてるだけだ。おまえのお節介はウザいから、謹んで遠慮させてもらう」
「相変わらず冷たいわね。そのほうがアンタらしいけど」
胸の前で腕を組み、苛立った口調で告げられたセリフだったが、頼もしい元恋人の姿を見て、高橋は頼まずにはいられなかった。
「はるくんによろしく……なんて彼に迷惑か」
「健吾――」
「じゃあな」
「お願いだから!」
金色のドアノブに手をかけた瞬間、涙を声にしたように忍は呼んだ。どこか必死な雰囲気を感じて、渋々振り返る。
「なんだよ?」
「お願いだから……たまにでいいから、顔を出して。会員登録してる関係で、生存確認したいのよ」
高橋の今後の安否を心配した忍の言葉に、思わず吹き出しそうになった。
「仕事が忙しくて、いちいちここに来られない。会員登録も抹消しておいてくれ」
淡々とした様子で告げる高橋のセリフを聞き、忍は胸元をぎゅっと握りしめる。つらそうな表情をさせる原因に思い当たるフシはあるものの、元恋人に対してわざわざ宥めるような思いやりは高橋になかった。
心をかける人間は、この世に一人しかいない――。
「わかったわ。店のリストから抹消しておく。だけどね……」
「…………」
「私の心と江藤ちんの心から、健吾を抹消できないことだけは覚えておいてちょうだい。他にもたくさん、アンタに傷つけられた男はいるかもしれないけれど、せめて――」
マスカラと一緒に化粧を崩す原因の涙が、忍の頬を濡らした。
「ふっ、化け物が宇宙人に早変わりだな。これから来店する客は、貴重な生物を見ることになるとか、俺は売り上げに貢献したといったところか」
「言ってくれるじゃないの……」
「俺なんてとっとと忘れて、他のヤツと幸せになれ」
ぼそりと告げながら外に出る。男の声で「バッキャロー」と怒鳴り散らした元恋人の存在を消すために、勢いよく背中で扉を閉めた。
(はるくんじゃなく忍に恋をしていたら、また違った未来になっていただろうな――)
かすかな冷笑に似た奇妙な笑みが、高橋の唇の端に浮かんだ。
それまでの縁を断つように、扉に触れている躰をさっさと起こし、階段を踏み外さないように下界に降り立つための階段を、ゆっくりと下っていく。コンクリートに反響する靴音が、規則的な時計の秒針のように聞こえるせいで、酔いが次第に醒めていった。
古ビルの外に出ても、頭の中にさきほどまでの靴音が鳴り響く。
元恋人が作った美味い酒を飲み、懐かしいやり取りの中から、青年の身の上を知ることができて、高橋としては楽しいひとときを過ごすことができた。それなのに耳について離れない靴音が、明日から再び繰り返される、地獄の生活のカウントダウンのように、感じずにはいられない。
「くそっ。現実なんて上手くいかないのがわかってるのに、素直に従わざるを得ない自分がいるなんて……」
舌打ちをしながら、すれ違う人がまばらの駅までの道すがらをだらだら歩く。
どんなに時間をかけて歩いても、終電までには余裕で間に合うことがわかっている上に、ここから離れたくない気持ちが、高橋の足を更に重くさせた。
(はるくんは今頃この町で、何をしているのかな。誰かと一緒に飲んでいたり、あるいは恋人と一緒に過ごしているか――)
不意に目に入った、駅まであと150mの看板が、高橋の重い足どりをぴたりと止める。
「はるくん……」
鼻の奥がつんとした瞬間に、舌の上にレモンの苦みがなぜだか蘇った。
「こんなところで何をしているんですか、高橋さん」
唐突に背後からかけられた聞き覚えのある低い声で、反射的に高橋の眉間に皺が寄った。
今日出逢ったその人物は、高橋が支店から出るときまで離れずにまとわりつき、最後まで自分の立場を何とかしろと、しつこく食いついてきた社員だった。