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それまで浮かべていた笑みを消し去って振り返ろうとしたら、いきなり抱きつかれてしまった。
「な、にを……」
背後から忍び寄られ、その男の左腕が高橋の首に強く巻きつくせいで、声が出せない。右側の腰の周辺に、鋭い痛みを感じた。
「高橋さん、全部アンタのせいなんだ。どうして部長の俺が、会社を辞めなきゃならないんだ」
「くぅっ!」
通りを行き交う人々は、明るい街灯の下での揉め事に目を合わせず、巻き込まれないように高橋たちを避けて歩いて行く。
「放せ、こ、の馬鹿っ」
「牧野といいおまえといい、どうして俺を馬鹿にするんだ。くそっ!」
「それはこっちのセ、リフだ……こんなま、ねをしたらっ、人生を棒に振ることになるだろ」
やっとのことで告げた言葉を聞き、男が高橋から離れた。
痛む部分に手を当てながら振り返ると、辞職を促した部長が果物ナイフを手に持ったまま、自分をじっと見つめる。
「俺の人生は、もう終わったも同然なんだ。住宅ローンに車のローン、子どもの進学やらなんやらで、金がどうしても必要なのに! この年で再就職して、同額の給料が貰えるわけがないだろ!」
「だから馬鹿なんだよ、アンタは……」
人を刺すという犯罪をしでかしたというのに、残された家族のことを考えず、自分のことばかり喚く男に、高橋は軽蔑の眼差しを向けてやる。
顔を歪ませながら、痛んだところを押さえていた右手を確認してみると、掌を覆うように鮮血がついていた。
自分の手に血がついているのに、テレビで見るドラマと変わりないそれを冷静に見つめることができたのは、思ったよりも痛みがなかったせいだった。
今回刺されたことによって、かつての同僚を交える辞職の話し合いの出張に、牧野が行かなかった理由を考えた。
本社の一室で、牧野に出張に行くように命じられた場面や、今日のやり取りを頭の中でまざまざと思い出していく内に、絡まった糸が容易く解けるように、その理由がすんなりとわかってしまった。あまりの滑稽さに、高橋は肩を揺すりながら、けたけたと声を立てて笑った。
笑い転げた衝撃で、刺された傷口から尻の下を濡らすくらいの出血があったが、手で押さえることなく、そのまま無視した。
「なにがそんなに可笑しいんだ?」
気が狂ったように笑いだす高橋を見て、男は目を見開いたまま固まる。
「牧野は、アンタの性格を熟知していた。だから俺をここへ行かせたのさ」
「どういうことだ?」
「俺も結局はアンタと同じ、使われる身。逆上したアンタが捨て駒の俺を刺したところで、牧野は痛くも痒くもない。傷害事件を起こしたことで、会社はアンタを堂々とクビにできるだろ」
「そんな……まさか――」
男が持っている果物ナイフが、小刻みに震えはじめた。
「そのまさかさ。今回牧野が企てた、プロジェクトの真相を教えてあげようか?」
高橋は元恋人が大嫌いだと称した、狡猾で残忍な笑みを顔に浮かべてみせる。
「プロジェクトの真相だと? もしかして今回のことと、なにか関係があるんじゃ……」
高橋の様子を唖然としながら見つめつつ、男は独り言を呟くように言葉を発した。
自分のペースに男を巻き込むことができて、高橋の笑みは絶えるどころか、顔全体で笑いかけるものになった。
本来なら、プロジェクトの真相を謎のままにして去るはずだったのに、それを明かすことで、この後どうなるか――もしかしたらそれすらも、牧野が予測していることかもしれない。
実際それに乗っかる事実は、不愉快極まりなかったが、今の自分にとっては最善の策になる。背の高い男をしっかりと見上げながら、優しく話しかけた。