テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
阿久津が逮捕され、騒がしかった捜査二課のフロアが嘘のように静まり返った翌晩。
私は溜まりに溜まった事務処理をようやく終え、重い足取りで警視庁の正面玄関を出た。
春の夜風はまだ少し冷たく、加熱した頭を冷やすにはちょうどいい。
ふと見ると、街灯の影に隠れるようにして、あのグレーのコートが立っていた。
「……待っていたんですか?」
私が声をかけると、柊さんはスマートフォンの画面を消し、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「まさか。自意識過剰だよ、南さん。僕はただ、次に食べるラーメンの候補を絞り込んでいただけだ」
「嘘ですね。この辺りの店はもう全部閉まってますよ」
「おや、バレたかな。君も少しずつ、僕の思考回路に馴染んできたようだ」
彼は悪戯っぽく微笑むと、「少し歩こうか」と歩き出した。
私たちは特に目的地を決めることもなく、夜の銀座に向かって歩を進めた。
街の喧騒は遠のき、周囲には閉まったブティックのショーウィンドウが並んでいる。
ガラスに映る二人の姿は、まるでどこかの映画のワンシーンのように不自然で、それでいてどこか調和していた。
「……柊さん。一つ聞いていいですか」
「内容によるね。明日の天気予報なら、僕の勘はほぼ当たる」
「いえ、昨日の事件の時。阿久津さんに『死んだことにしておこう』と言ったのは、本当にただの作戦だったんですか?」
柊さんは歩みを止めず、前を見つめたまま答えた。
「どういう意味だい」
「あの時点では本当に阿久津が狙われている可能性もあった……誰かを守るために嘘をつくのは、あなたの癖なのかなと思って」
柊さんの足が、一瞬だけ止まった。
彼はゆっくりと私の方を向き、いつものように私の全身をスキャンするように見つめた。だが、その視線はいつもの冷徹なプロファイリングとは少し違っていた。
「南さん。君は本当に、質のいい教科書だね」
彼はそう言うと、私の左手首にそっと手を伸ばした。指先が私の肌に触れ、腕時計のベルトの内側を軽く直す。そのわずかな接触に、私の心臓が大きく跳ねた。
「心拍数が上がった。……緊張しているのかい?」
「……それは、急に触られたら誰だって驚きます」
「嘘だね。君の瞳は驚きよりも、別の感情を隠そうとしている」
彼は手を離さず、そのまま私の手首を掴んだ。指先から伝わる彼の体温は、冷たい夜風の中で驚くほど熱く感じられた。
「僕はね、自分の時間を止めるために警察にいるんだ。でも、君というページをめくるたびに、少しだけその針が動くような気がして……困っている」
彼の瞳の奥に、以前ファイルで見たあの絶望の残像がよぎった気がした。婚約者を亡くしたあの日から、彼は誰も愛さないことで自分を守ってきたはずだ。
「……柊さんは、ずるいです」
私は震える声を抑えながら、彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「私のことは全部暴くのに、自分のことは何一つ語ってくれない」
「語るほどの真実なんて、僕の中には残っていないよ」
柊さんは自嘲気味に笑い、私の手首を離した。温もりが消えた後には、先ほどよりも鋭い冷気が忍び込んでくる。
私たちは再び、沈黙の中で夜の街を歩いた。横を歩く彼のフレグランスの香りが、いつもより色濃く感じられる。
阿久津の事件が終わっても、彼という難解なミステリーは一向に解決の兆しを見せていない。いつか、彼の止まった時間を完全に動かす日が来るのだろうか。その時、彼の隣にいるのが私であってほしいと願うのは、刑事としては失格なのだろうか。
夜の静寂が、私たちの境界線を曖昧に溶かしていく。遠くで光る信号機が、青から赤へ、ゆっくりと嘘のないリズムで変わっていった。
#オリジナルキャラクター有り