一時間余りの逃避行ついで。
キュウリを助手席に乗せて羽理のアパートへ車を走らせた大葉は、合鍵で羽理の部屋の扉を開けた。
昨日大葉がそうしたまま、玄関先へ置き去りになっていた鞄の中を覗くと、携帯が見えた。
「よし」
それを確認するなりとりあえず鞄を手に取って、ふと目についた付きっぱなしの電気だけ全部落として部屋を出た大葉だ。
(携帯ないと連絡取れねぇからな)
勝手に部屋へ侵入したのは申し訳ないとは思うけれど、酔っ払っていたとはいえ合鍵を預けてくれたのは羽理自身だし、きっと本人もスマートフォンはあった方が助かるはずだ。
裸一貫で飛ばされてしまった不便さは、大葉自身骨身にしみている。
事後報告にはなるけれど、羽理には後で色々謝ろうと思った。
***
帰宅するなり、いつものように玄関先でキュウリの足を綺麗に拭いてやった大葉は、自分も手洗いを済ませてから、気分転換に付き合ってくれた可愛い愛娘にご飯をあげる。
一息ついて、ふと(荒木のやつ、まだ寝てるのか?)と気になった大葉は、そろ~りそろりと忍び足で寝室の様子をうかがってみたのだけれど。
(ホント、こいつはっ! どんだけ神経図太いんだよ!)
薄っすら扉を開けて隙間から覗き見た寝室の中、羽理はまだ幸せそうに眠りこけていて。
「あーん、私、鰻大好きです……。はい、……長もたくさん食べて、精力をつけてくださいね♥ ふふふ」
とか何とか夢の中で誰かと鰻を食べているらしい。
(お前、一体誰に精力付けさせてるんだ! 課長なのか部長なのかハッキリさせろ!)
まさか新手で係長とか社長とか、はたまたどこぞの店長とか参戦してきてないだろうな!?とか思いつつ。
自分の妄想に腹立たしさを刺激されて、ぐっと拳を握りしめた大葉は、部長率を上げるべくこっちの小憎たらしい眠り姫にも飯を作ってやるか……と思い至った。
自炊は忙しいなりにも割とする方だから、材料は普段から冷蔵庫の中に結構豊富に買いそろえてある。
ついでを言うと、遅くなった時すぐに食べられるよう、冷凍庫には下茹でした野菜や、常備菜なんかも小分けにして冷凍してあった。
そう。屋久蓑大葉は、どこかのぐうたら女子と違って、生活力高めの〝出来る男〟なのだ。
弁当用に玉子焼きを焼くついで、朝食用にも作るか……と思った大葉は、解いて下味をつけた卵液を二つに分けると、片側にだけ刻んで冷凍庫にストックしておいた小口ネギを混ぜ込んだ。
彩りも良くなるし、ネギ入りを弁当用にしようと決めて、玉子焼き機を出したところでふと手を止めた。
(アイツ、どのくらい食うんだ!?)
女子社員の弁当箱のサイズは幼稚園児並みに小さいというイメージがある。
だが、昨夜からずっと。夢の中で食べ物の寝言ばかり言っている羽理が、そんなに小食には思えなくて。
大中小様々な大きさのタッパーウェアを前に、「うーん」と首をひねった大葉だ。
(俺のは当然一番デカイのだが)
というか、普段あまり使う機会はないが、一応……と思って用意してある弁当箱は九〇〇mlの二段タイプ。
下段に飯、上段におかずを入れる仕様だ。
では羽理は――。
どのタッパーもいまいちピンとこないな?と思いながら、更にガサガサと棚の奥をあさっていたら、以前会社の忘年会のビンゴ大会で当たった白木の曲げわっぱの弁当箱が出てきて、コレだ!と思った。
サイズも女性用っぽい手のひらサイズ。
(……小さ過ぎか?)
何となく「お昼ご飯が少な過ぎてお腹がすいちゃいましたぁ」とピィピィ鳴く雛鳥のコスプレをした羽理の姿が目に浮かんで、別容器に桃の缶詰も入れておいてやろうと思った大葉だ。
(デザートを入れるのに丁度いい大きさのタッパーもあるしな)
残った桃缶は小さく刻んでヨーグルトに混ぜて、朝食に出してやれば喜びそうだ。
色々思いながら鼻歌まじり。
作業を進めていた大葉は、足元にお座りしてじっとこちらを見上げていたキュウリが、カチカチと爪音を立てて向きを変えたのを感じて。
ん?と思ったのと同時、
「……あ、あの……、屋久蓑部長、おはよう、ござい、ます」
恐る恐るといった調子で背後から羽理に声を掛けられた。
「ああ、おはよう」
言いながら振り返ったら、もじもじと所在なさげにTシャツのすそを懸命に下へ引っ張っている羽理の姿があって。
(さすがに一晩寝て酔いが醒めたか)
恥じらいが復活しているところからそう判断した大葉だ。
「よく眠れたか?」
そのはずだと分かっていながらも、あえてそう問いかけたら「何となく頭がズキズキするし、胃もムカムカするので……寝不足かも知れません」とか。
「いや、それ、寝不足じゃなくて二日酔いだろ!」
思わずそう突っ込まずにはいられない。
そんな大葉に、羽理は「あ……」とつぶやいて。
てっきり「ごめんなさい」と続くのかと思いきや、
「そういえば……何で私、部長の家に連れ込まれてるんでしょう?」
なんて人聞きの悪いことを言ってくる。
「っていうか、それ、一番最初に聞くところだろ!」
当然と言うべきか。クソ真面目な大葉は、律儀にそう反論せずにはいられなかったのだが。
それだけでは飽き足らず、
「……倍相課長や仁子の家ならまだ分かるんですけど」
ポツン……と聞き捨てならないことを付け加えてくる羽理に、
「何でそこで倍相が出る!」
思わず、〝仁子〟の部分は華麗に無視して勢い込んで問いかけたら、「だって私、昨夜は課長と仁子の三人で飲みましたもん」と、至極ごもっともな返事が返ってきた。
「まさかその飲みの帰り、酔っ払ったお前をご丁寧にも俺様が! わざわざ迎えに行ってやったのを、覚えてないとか言うつもりじゃあるまいな?」
どうやらその辺りがスパーンと抜けているらしい羽理に、料理の手を止めないままに問いかけたら「え?」とつぶやかれて。
しかも一度は羽理のアパートまで送り届けてやったと言うのに、大葉の言いつけを守らず入浴して。
こちらへ素っ裸で飛ばされて来た上、あーんなことやこーんなことをしまくったことを、よもやなかったことにしようなどと言うつもりだろうか?
(有り得ねぇだろ!)
「携帯見てみろ!」
論より証拠だと、ノーマルの玉子焼きを焼き終えたところで、先程キュウリと一緒に羽理の部屋から取ってきてソファの上に置いた鞄を指さしたら、羽理がトトトッとそちらへ駆け寄った。
そのまま鞄の中からスマートフォンを取り出して操作し始めた羽理の様子を遠巻きに眺めていたら、「あ……、倍相課長」と羽理が想定外のことをつぶやくから。
大葉は、(ちょっと待て! お前、俺からの着信を確認してたんじゃなかったのか!)と思わずにはいられない。
「はぁ!?」(どう言うことだよ!)
思わずネギ入りの卵液が入ったボールと菜箸を手にしたまま、頓狂な声を上げて羽理のそばへ駆け寄ってしまった大葉だ。
マナー違反なんてクソ喰らえ。
羽理の背中越しに彼女が手にしたスマートフォンの画面を覗き見れば、確かにそこには「倍相課長」の文字。
「お前、倍相と個人的に連絡先の交換なんかしてたのか!」
どこか責めるように問いかけたら、「え? だって直属の上司ですもん。全然おかしくないですよね?」とか。
それは確かに必要なのかもしれないな?と思ったら、モヤモヤしつつも大葉はそれ以上の追及が出来なかった。
だが、「あっ。課長から電話がかかってきました! 夜にもらってたメッセージ、ずっと未読のままだったからでしょうか。既読にした途端……」と言われては、平常心でいられるわけがない。
「さ、さっさとスマホの電源落としてしまえ!」
自分がわざわざ羽理のアパートから取って来たくせに、羽理が手にした端末が忌々しくてたまらない。
思わずそんなことを言ってしまった大葉に、羽理が「何でですかっ」と本気で分からないみたいに言うから……。
「お、俺と話してる最中だからに決まってるだろう!」
大葉は自分でも何言ってんだ?と思うような理由を述べずにはいられなかった。
そうこうしている間にも、羽理の手の中の端末はブルブルと震えながら着信を知らせてきて。
我慢出来なくなったのだろう。
「もう、わけ分からないこと言わないで下さい。私、出ますからね!?」
羽理はそう宣言して、大葉が抗議する間も与えず「もしもし」と電話に出てしまった。
「あぁぁぁ!」
その、男心を全く意に介さない羽理の情ない態度に、思わず悲痛な叫び声を上げてしまった大葉だ。
その声を拾ってしまったらしい電話の先で、倍相岳斗が『あれ? 荒木さん、ひょっとして誰かと一緒?』と問うてきて。
羽理はちらりと大葉――と彼の足元にちょこんとお座りするキュウリ――を見遣ると、「か、可愛いワンコとその飼い主が、私の足元にいるだけです!」と、さらりと主体をキュウリにしてしまう。
「なっ!」
そのことに抗議しようとした大葉の口を、羽理は電光石火の速さでムグッと押さえつけて封じると、「ところで倍相課長、こんなに朝早く何の御用ですか?」と話題を変えた。
羽理の愛らしい手のひらで口封じをされた大葉は、羽理の温もりと、鼻先を霞める彼女の甘い香りにやられて窒息寸前。
別に鼻は塞がれていないのでそこで息をすればいいものを、これ以上羽理の香りを嗅いだらどうにかなってしまいそうで、息を止めたままフリーズしていた。
『今朝は足がなくて会社へ行くのが大変でしょう?』
「あぁー、車、会社に置いて帰ってますもんね……」
『そうそう。でね、今朝は僕が呼んだタクシーで法忍さんを拾いに行くことになってるんだけど……荒木さんもついでに、どうかな?って』
どうやら倍相課長は、昨夜自分が飲みに誘ったことで、仁子や羽理の足を奪ってしまったことを気にしてくれているらしい。
もちろん岳斗自身も同様だったから、昨夜仁子を送って行った際、明朝もタクシーに乗り合いで出社しようと言う話になったらしい。
昨夜から羽理にそれを打診していたと言う岳斗に、「でも、うちは倍相課長や仁子の家とは会社挟んで逆方向ですよ?」と至極まともな返しをした羽理だ。
それを聞きながら、大葉は(よく言ったぞ! 荒木羽理!)と思わずにはいられない。
そもそも――。
(ガキじゃあるまいに、放っといても自分で行けるっつーの! 過保護が過ぎるとウザがられるぞ、倍相岳斗!)
自分のしていることを棚上げして、大葉はそう悪態をつきながら心の中でベーッと舌を突き出した。
それでも諦めようとしない倍相に、大葉は、自分の口を押さえたままの羽理の手をサッと外すと、思いっきりブンブンと首を横へ振って見せた。
それを見た羽理が、キョトンとして小首を傾げるから。
大葉は冷蔵庫に張り付けてあったホワイトボードとマーカーを取ってくると、『お前、今、自宅にいないだろ! どこへ迎えに来させる気だ!?』と殴り書きをした。
別に大葉的には声を出して倍相に聴かれたところで一向に構わないのだが、何となく羽理のお黙り!と言う雰囲気に気圧されて筆談してしまう。
羽理はそれを見てハッとすると、「あ、あのっ。実は私……今可愛い女の子と住んでるお友達の家に泊めてもらってて……。そこ、結構会社と近いので歩いて行こうと思ってるんです」と誤魔化した。
『ああ、昨夜お迎えのあった、いつも裸って言う男の人んトコ……?』
常なら春風のような喋り方の倍相岳斗が、ワントーン落とした冷めた声音で問うてくるから。
羽理は、(あれ? 何で課長、お迎えしてくれたのが裸男だって知ってますかね?)と首を傾げつつ、「え……? あ……、はい」と答えた。
もちろん、そんなの羽理が話したからに他ならないのだが、本人の記憶からはその辺がスポンと抜け落ちているのだから仕方がない。
(こら、荒木っ! お前飲みの席で何を話した!? っていうかウリちゃんは確かに可愛い女の子だがっ、その言い方だとどういうシチュエーションだ!ってなるぞ!?)
通話口から漏れ聞こえてくる倍相の言葉に、一人百面相をする大葉を残して。
倍相が、それでもしつこく『会社のそばなら尚のこと拾うよ? 一緒にいる人、その感じだと別に荒木さんの恋人ってわけじゃないんでしょう?』とかやけに食い下がってくるから。
(まだを付けろよ、倍相岳斗!)
などとモヤモヤしまくりの大葉が、怖い顔をして首を振り続けた成果だろう。
羽理は倍相からのしつこいくらいの誘惑に、どうにかこうにか打ち克ってくれたのだった。
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