クリスマスが過ぎ、もうすぐ年末を迎えようとしていた。世間は慌ただしく新年へ向け、駆けて行く。だが宏章は世間の流れと逆行して、この時がとても長く感じていた。桜那が年末年始は仕事を少しセーブしているというので、できる限り時間を作って桜那のマンションへと足繁く通った。
年始は初詣でも行こうかと誘ったが、桜那が人混みは嫌いだと言うので、デパートの御節と桜那が作ってくれたお雑煮に舌鼓を打って、自宅でのんびりと過ごした。
会う日は毎晩、桜那が抱いてほしいと言うので言われるがままに抱いた。だが宏章はどこか後ろめたさと罪悪感を感じていた。
明け方の空の青白さをたよりに、隣で眠る桜那の顔をぼんやりと見つめる。
このままめちゃくちゃに抱いて、強引に自分のものにしたい。でも、自分勝手には出来ない。「それ」をしたら、桜那が今まで築きあげてきたものを、全部自分が壊してしまう。足場が崩れていく恐怖は、自分にもよく分かるから。すべてを曝け出して、その身で受け止めてきた桜那なら尚の事。自分がどうすれば良いのか、本当は分かっている。
……結局俺は、桜那の為に何もしてやれないのかな?
宏章もまた、自分の不甲斐なさにもがき苦しんでいた。
三が日が過ぎて、桜那はバラエティの収録現場にいた。
本番に入れば、それこそいつも通りのキレの良さと集中力を見せていたが、ひとたび出番を終えると、心ここに有らずといった様子ですべてが上の空だった。
「桜那さん、大丈夫ですか?」
「……え?」
桜那は覇気のない声で、マネージャーの雫の問いかけに返事をした。
「ここ最近、なんだか上の空ですよ。顔色も悪いし……。体調良くないなら、スケジュール調整しますか?」
桜那は一瞬視線を落とし、ふと考え込んだがすぐ我に返り気丈に振る舞った。
「……ううん、大丈夫。休み明けでちょっとリズム狂っちゃって。そのうち慣れるよ。心配かけてごめんね」
……しっかりしなきゃ。
桜那は心配かけまいと、笑顔を見せる。
だが常日頃桜那の側にいて、普段の桜那をよく知るマネージャーの雫は、桜那の異変を直に感じ取っていたのだ。
雫は桜那を自宅まで送り届け、事務所へ戻ると、ちょうど収録から帰ったばかりの侑李に出くわした。
「おっ!雫ちゃんお疲れ!今日桜那は?」
「侑李さんお疲れ様です。桜那さんはさっきマンションまで送り届けました。なんだか最近疲れてるみたいで……」
雫は心配そうに侑李へ打ち明けた。
「ここのところ顔色も良くないし、なんだか上の空で……。本番に入れば、それこそいつも通りなんですけど……」
……あの桜那が?
侑李は何かあったに違いないと確信した。
「そうなの?何か最近変わったことでもあった?」
雫は少し考え込んだが、思い当たる節もないと言った様子で「いえ、特には。ただ先月のビデオ撮影の後から、明らかに様子がおかしいんですよね……。内容もハードだったし、役が抜けきらないのかな……」と言った。
……そんなはずはない。
桜那は撮影の時こそ並々ならぬ集中力を見せるが、切り替えもまた早いのだ。
「ちょっと私が桜那と話してみるよ」
「そうですか……、桜那さんも、侑李さんには話せるかもしれませんね。ごめんなさい頼りなくて。桜那さんの事、よろしくお願いします」
雫は侑李になら安心して任せられると、お礼を言って託した。
次の日、早速侑李は桜那を呼び出した。
事務所からほど近くの、自身がオーナーを務める完全個室のカフェだ。侑李はタレント業の傍ら、カフェバーなどを手掛け、手広く活動していた。
侑李が一服しながら窓の外を眺めていると、移動の合間に桜那がやってきた。
「侑李さんお疲れ様です。遅くなってごめんなさい」
桜那はいつも通りの礼儀正しい口調で挨拶をする。一見すると普段と何ら変わりない様子だが、よく見ると寝不足なのか、ファンデの下からうっすらと目の下に隈が透けて見えた。
……なるほどね、メイクで誤魔化しているけど、確かに顔色は良くない。
「いや、こっちこそ急に悪いね。まあ座ってよ」
侑李はスタッフにいつものブレンドを2つ持って来させ、運ばれて来たタイミングで桜那に切り出した。
「最近、何かあった?雫から聞いたよ、ここのところ桜那の様子がおかしいって」
侑李は口元こそ笑みを浮かべていたが、すべてお見通しと言わんばかりの視線で桜那を射抜く。
桜那は少したじろいで口ごもった。
だが侑李には嘘をついたり誤魔化したりしても、それが通用する相手ではない事が桜那にはよく分かっていた。
……下手に隠した所で、どのみち侑李さんにはすべて見抜かれてしまう。
桜那は小さくため息をつき、慎重に言葉を選びながら静かに話し出した。
「……仕事を辞めようか悩んでいます」
侑李は驚いて目を見開いた。
まさか桜那の口から、その言葉が出てくるとは思わなかったからだ。
桜那がAV出演を決めたあの時以来、泣くのはおろか、ただの一度も愚痴や弱音を吐いたのを見たり聞いたりした事はなかった。20歳を少し過ぎたばかりの若い女の子にとって、その決断はあまりに重く辛いものであるという事は侑李も充分理解していた。
それでも一度たりとて、「辞めたい」と漏らした事はなく、その根性にはさすがの侑李も脱帽する程だった。
どの現場に入っても、自分に求められているものを瞬時に理解し、なおかつ自分のものにする才能。凄まじい集中力や、頭の回転の速さには何度も関心させられたものだ。
侑李もまた、桜那が仕事にかける情熱をよく知っていたのだ。そんな桜那だから、辞めたいという理由は仕事上のものではないだろうと察しがついた。
「……彼に何か言われた?」
桜那はびくっと肩を振るわせ、困惑の表情を浮かべた。
宏章との事は誰にも話していないし、マネージャーの雫にですら、感づかれないような徹底ぶりだったからだ。
「……侑李さんは、なんでもお見通しなんですね」
桜那はもう隠しても仕方ないと、侑李にすべてを打ち明けた。宏章との出会いから、今に至るまでを包み隠す正直に、全て侑李へ話した。
侑李はメンソールの煙草を吸いながら、静かに桜那の話に耳を傾けた。
「なるほどねぇ、まあ話は分かったよ」
侑李は煙草の火を消した。
「……怒らないんですか?」
桜那は恐る恐る侑李に尋ねる。
AV出演を決めた時に違約金を肩代わりするとまで言って説得してくれたのに、辞めたいと言ったらすっかり呆れられるとばかり思っていたからだ。だからあの時止めたのに、と言われるだろうと思っていた。むしろ怒るか、ダメなやつだと呆れて見放してくれたらとさえ思っていた。
「いや、その話を聞いてちょっと安心したよ。あんたも普通の若い女の子なんだってね。あれ以来、男性不信どころか人間不信になってるように見えたから」
桜那は目頭が熱くなり、涙が溢れそうになったが、ぐっと堪えた。
「でも、スキャンダルであれ程みんなに迷惑かけて、今度もまた恋愛絡みで辞めたいなんて呆れますよね……」
桜那はがっくりと項垂れた。
「なんでよ?恋愛なんてそんなもんでしょ?前は選んだ相手が悪かっただけで。あれで痛い目見たから、人を見る目もだいぶ養ったろうし。それに話聞く限り、その彼はあいつとは全然違うでしょ?」
桜那はこくんと小さく頷く。
「人間なんだもん、怒りとか悲しみと同じように、恋愛感情だって誰にでも当然あるよ。おかしな事じゃない。むしろあんたは感情を一切殺してるようにも見えたから、今の姿の方がずっと自然だよ。あんたは頭も良いし才能もあるけど、どこかサイボーグというか……、機械的でもあるから。やっぱり感情がなきゃ人の心に響かないじゃない?そういう意味でも、恋愛感情を知っていた方が、人間的にも演技にも深みが出るしね……って、辞めたいんだったね……」
侑李はコーヒーに口を付けて、煙草を燻らせた。
「……ごめんなさい侑李さん。あの時、侑李さんを越えてみせますとまで言い切ったのに」
桜那は情けなさから、謝る事しか出来なかった。
「それで、どうしたいの?」
侑李は煙草の火を消し、ズバッと核心を突いてきた。
「……自分でもよく分かりません。宏章に一緒に行こうと言われた時は、純粋に嬉しかったし付いて行きたいと思いました。……でも、すぐに返事する事が出来ませんでした。嬉しかったはずなのに、どうしても言葉が出て来なかった……」
桜那はじわりと涙が滲んできて、左手で目頭を押さえた。
「最近、撮影も思うように出来なくて……。前みたいに、どう魅せたらいいかとか、仕事としての割り切りが出来なくなって……、プロ失格です。監督や男優さんだけじゃなく、みんなそれぞれ熱意を持ってやっているのに……。私はここにいる資格がないと思いました」
侑李はふーっと長めに息を吐いた。
「桜那、私にはあんたにどうしろなんて言えないよ。ただ、どちらを選んでも私はあんたの意思を尊重するよ。あんたよく頑張ったよ、この私が関心するくらい。あんたが今まで頑張って来た事、私はよく分かってるから」
……桜那が頑張っている事、俺は知ってるよ。
桜那はふと、以前宏章が言ってくれた言葉を思い出した。AV女優という理由だけで、オーディションを受けに行っても場違いだと嘲笑された時だ。
……あの時も結局、事務所の力で役が選ばれたんだっけ。
……あの時、宏章はそう言って優しく抱きしめてくれて、温かくて安心したんだった。
桜那は侑李の言葉から、あの時の宏章と同じ温かさを感じ取っていた。
「だから、どちらを選んでも軽蔑したりしないよ」
桜那を見る侑李の眼差しは優しかった。
侑李の人を見抜く鋭さや、相手を受け入れる度量の広さや優しさ。
桜那は改めて、侑李には敵わないと感じた。
「ただ、社長が何て言うかだねぇ、あいつは冷徹人間だからね」
侑李は頭を抱えて苦笑いした。
社長の村井は侑李の元マネージャーで、AV女優時代からの長い付き合いだ。侑李を今の地位まで押し上げた影の立役者でもある。その為、侑李は村井の性格を熟知していた。
「そうですよね……」
桜那は気が重くなり、肩を落とした。
「まあでも、あんたの事はいずれ社長の耳にも入るだろうし、あいつは勘がいいから。覚悟はしといた方がいいね」
そろそろ移動の時間が迫って来たので、侑李はコートを抱えて立ち上がった。
「はい……」
顔を強張らせたまま、返事をして桜那も立ち上がる。
「しかし、あの桜那をここまで惚れさすなんてすごい奴だよ。よっぽどいい男なんだね。どんな男か見てみたいよ。会ったら私も惚れちゃうかもね」
侑李は桜那の表情を見るなり、冗談めかして言った。
「侑李さん……、それシャレにならないんでやめて下さい」
桜那が苦笑いすると、侑李はあははと大きく笑った。そんな侑李を見て、桜那も表情が解れていく。
「侑李さん、今日はありがとうございました。少しだけ気持ちが楽になりました。もう少しよく考えます」
桜那は深々と頭を下げて、迎えの車に乗り込んだ。
侑李は桜那を見送ったあと、しばらくその場に立ち尽くした。
侑李は桜那を説得した時の事を思い出していた。
「違約金なら私が何とかするから!」
「侑李さん、もう決めたんです。私絶対AVの世界でトップ取って、侑李さんみたいにまた表舞台に返り咲いてみせます。侑李さんの事、越えて見せますから」
桜那の決意はすでに固まっていて、あの意思の強い目に思わず怯んでしまい、何も言えなくなったあの時を。
……あの時私がもっと強く、何としてでも止めていれば。
侑李は自分自身に、深く責任を感じていた。
侑李は静かに目を閉じ、何かを決意したようにまた目を開くと、くるりと踵をかえして歩き出した。
2
桜那と話をした翌日の午後、侑李は社長に呼ばれて事務所へ向かった。
呼び出された理由は察しがついている。
最近の桜那の様子が、早速社長の耳にも入ったのだろう。
社長の村井とは、自身が芸能界入りした時からの長い付き合いだ。そこから、二人三脚でここまで事務所を大きくした。侑李も普段は馴れ馴れしい態度で軽口をたたいたりするが、村井の経営者としての手腕は尊敬しているし、また恩義を感じてもいるのだ。
村井も侑李には全幅の信頼を置いていて、何かあれば侑李に意見を求めた。この事務所では、侑李だけが村井と対等に渡り合う事が出来るのだ。
「失礼します」
侑李はドアをノックして、社長室へ入った。
「おう!侑李。急に呼び出して悪かったな」
ブラインドの隙間から、窓の外を眺めていた村井が振り返る。
リーゼント風にセットされたヘアスタイルに口髭を生やし、色付きの眼鏡をかけた強面の風貌の中年男性。
この男こそが、社長であり侑李の長年の相棒とも呼ぶべき存在だ。
「で、話って何です?」
侑李は単刀直入に切り出して、ソファにどかっと腰掛けた。
「最近、桜那の様子がおかしいんだって?」
村井は侑李の前に灰皿を差し出し、自身もソファへ腰掛けると、煙草に火をつけた。
……やっぱり来たか。
「そうみたいだね。私も一昨日聞いたけど」
侑李は平然と答え、煙草に火をつけて一服する。
「男か?」
村井もまた単刀直入に切り出し、ずばりと言い当てた。
侑李は一瞬答えるのを躊躇ったが、遅かれ早かれ知ることになるだろうと思い、諦めて話し始めた。
桜那から聞いた話を時系列に沿って、私情を交えず淡々と簡潔に話す。
「そうか。まあ話は分かった」
村井はひと通り話を聞き終えると、煙草の火を消した。
「あの桜那がなぁ……」
村井はまさかと言わんばかりに呟いた。
「あの娘の事なんだと思ってたの?あの娘だって普通の若い女の子なんだから」
侑李はため息まじりに、呆れながら答える。
「『普通の若い女の子』ならな。桜那はあの一件で相当懲りたろうし、その後の仕事ぶりはお前も分かっているだろ?俺は基本的に、プライベートはある程度本人に任せるスタンスだし、前みたいに手ェ出したら面倒な奴でなければ、桜那の自由にさせておくつもりだったんだけどな。もっとも、あいつは自分をコントロールできると思っていたから。本人のガス抜きになるなら、ある程度は好きにさせてやろうと思ってた……。だけど、こうなった以上話は変わってくるな」
そう言って、村井はまた煙草に火をつけた。
「桜那に何を言うつもりなの?」
侑李は睨みを利かせて、村井を問い詰める。
「まあそう凄むな。この間桜那が受けた映画のオーディション、先方が桜那に是非にとの事でな」
「あの湯田監督の?」
桜那は少し前、ある映画のオーディションを受けていた。
その監督の映画は暴力描写や性描写などハードなシーンこそあるが、脚本に定評があり、複雑で難解な役が多く相当な演技力が求められる。その分認められれば又とないチャンスだ。
実際その監督の作品からは何人もの名俳優が生まれている。監督は決して事務所の力や知名度だけでキャスティングせず、自身の求める演技ができる俳優だけをキャスティングする、完全な実力主義者だった。その分気難しく厳しくて有名だが、桜那のあの根性なら乗り越えられるだろう。
「桜那にとっては、念願叶ったりって所だろ。せっかくのチャンスを、その男の為に棒に振るのか?」
侑李は桜那にとって、まさに今が正念場だという事を理解していた。だがその分、どちらを選んでも桜那にとっては辛い選択になる事も。
「まあ桜那が、それでも辞めたいって言うなら俺は止めないよ。やる気のない奴はうちの事務所にはいらないからな。代わりはいくらでもいるんだ。そんな中途半端な覚悟じゃ、この世界で通用しない事はお前が一番よく分かっているだろ」
侑李は眉間に皺を寄せ、険しい表情のまま目を閉じて村井の話を黙って聞いていた。
「成功したいのなら、犠牲はつきものだ」
村井は煙草の火を消して、静かに呟く。
「俺が桜那に話すよ」
村井は立ち上がると、また窓の外を眺めて侑李に背を向けた。
「……桜那を脅す気?」
侑李は低い声で、静かに村井を問い詰める。
「人聞きの悪い事言うなよ。さっきも言ったろ、辞めたいなら止めないって」
村井はおいおいと言わんばかりに振り返った。
「決めるのは、あいつ自身だ」
そう言い放った村井の目もまた凄みがあった。その気迫には、さすがの侑李も気圧されてしまい、何も言う事が出来なかった。
これから桜那を待ち受ける状況を思うと、あまりに不憫で胸が傷んだが、侑李は返す言葉もなく社長室を後にした。
3
桜那は侑李と話した翌日も、尚もすべてが上の空で仕事も全く身が入らなかった。移動の車中でトーク番組の台本をパラパラめくる。冬の西日がやたらと眩しくて、眉間に皺を寄せて目を閉じた。
……全然集中できない。
桜那はため息をついて窓にもたれかかり、台本を静かに閉じた。
雫が心配そうに桜那を一瞥する。
そこで携帯の着信が鳴り響いた。雫はディスプレイで相手を確認すると、路肩に停車してすぐさま電話に出た。
「お疲れ様です」
雫の声のトーンで、相手が社長だとすぐに分かった。桜那は目を見開き、不安げな表情で体を起こした。雫は手帳を開いて、何やらスケジュール調整をしていた。
「……この後すべてですか?分かりました」
雫は話し終えて電話を切ると、少し戸惑いながら桜那の方へ振り返った。
……何?
「桜那さん、社長がお呼びですので、今から事務所に向かいますね」
「え?このあと打ち合わせじゃ……」
「今日の打ち合わせは先方に連絡して、別日にという事です」
……どうして?もう社長の耳に入ったの?
桜那はたちまち青ざめて、泣きそうになり俯いた。桜那のあまりにも思い詰めた様子に、雫は少しでも安心させようと慌ててフォローした。
「桜那さん、心配しなくて大丈夫ですよ。いいお話だって社長がおっしゃってました!」
「えっ?」
桜那が驚いて顔を上げると、雫は笑顔を見せた。そんな雫をよそに、桜那は困惑の表情を崩せずにいた。
……どういう事?
未だ迷いの中で答えを出せずにいるのに、一体これから何を言われるのか……桜那には皆目見当もつかなかった。
そうこうしているうちに、事務所に到着した。桜那は碌に心の準備もできぬまま、重たい足取りで雫と社長室へ向かった。
「失礼します」
雫がノックをしてからドアを開け、桜那に入室する様促す。
「雫、無理言って悪かったな。桜那と二人で話したいから、席を外してくれ」
雫は心配そうに桜那の顔を覗き込んだが、すぐに返事をして部屋を後にした。桜那は困惑したまま立ち尽くしていた。
そんな桜那をよそに、村井は桜那の目をじっと見据える。
桜那は目を合わせることができず、無意識のうちに視線を逸らした。
「まあ座れ」
村井はソファに腰掛け、煙草に火をつけた。
桜那も黙って静かに腰掛け、下を向いた。
「桜那、こないだの映画の話だがな、先方が是非桜那にとの事だ」
「え?」
桜那は驚きで顔を上げた。
一瞬嬉しさで目が輝いたが、すぐさま戸惑いの表情へと変わった。
……やった!嬉しい!
それが一番最初に湧き上がった、率直な感情だった。だが、すぐに宏章の顔が浮かんだ。
実際のところ、村井の話を聞くまでは辞める方に気持ちが傾いていた。宏章の側にいたいのはもちろんだが、こんな中途半端な自分はここにいる資格がないと思っていた。
本気で辞めたいというよりは、この世界における自分自身の存在意義を見失っていたのだ。
その一瞬の表情を村井は見逃さなかった。
ひいては桜那の無自覚の本心を、しっかり見抜いていたのだ。
「侑李から聞いたよ、そいつと一緒になりたいんだって?」
桜那は体をびくつかせ、言葉を詰まらせた。
「お前をここまで売り出すのに、どれ程の人間が動いていると思ってるんだ?」
村井は怒り出すでもなく、低い声で淡々と語りかけた。
村井の言葉で、桜那は咄嗟に侑李の姿や、雫や現場スタッフの顔が思い浮かんだ。
「お前が全てを投げ打ってでも、そいつと一緒になる覚悟があるなら俺は止めないよ。別の奴に鉢が回るだけだ」
桜那はぎゅっと強く目を瞑り、下を向いてただ黙って聞いていた。
「それにたとえ引退しても、お前がAV女優だったという事実は一生ついて回る。そいつが仮にお前を受け入れられても、お前がそれに耐えられるのか?」
村井はゆっくりと煙を吐き出し、灰皿に煙草をぎゅっと押しつぶす。
「お前に一週間やる。今週のスケジュールは翌週に回せるものは全部雫に調整させた。もう一度よく考えろ」
桜那はとうとう何も答える事ができなかった。
桜那は少し一人になりたいと雫に告げ、事務所を後にする。隣のコーヒーショップでいつものホットカフェラテを頼み、近くの公園まで歩いた。
もうそろそろ日が暮れようとしていた。ベンチに腰掛け、しばし茫然としていたが、冬の凍てつく空気が頬を刺し、カフェラテを飲もうとプラスチックのカップへ視線を落とす。
ふと笑い声が聞こえたので、ゆっくりと顔を上げた。
目の前を制服を着た高校生くらいのカップルが通り過ぎた。楽しくて仕方ないといった様子で、腕を組んでおしゃべりしながら歩いていた。その横を母親に手を引かれて歩く小さな子どもが通り過ぎていく。
虚ろな表情で眺めていると、ふいに宏章の笑顔が浮かんできた。優しく名前を呼ぶ声も。
カフェラテの蓋の上に、ぽつりと一粒の涙が落ちる。
桜那はベンチに座ったまま、冷たい冬空の下でひとり肩を震わせた。
4
……どれくらいここにいただろう。
あたりはもう、すっかり暗くなっていた。
……事務所に戻らなきゃ、きっとみんな心配してる。
桜那は力なく立ち上がり、ポケットの携帯を取り出した。体はすっかり冷え切って、もはや感覚すら無い。
時刻は18時を回っていた。
桜那は空を見上げた。冬の星座に囲まれて、月が白く輝いている。星が滲んで、月の輪郭が次第にぼやける。
……ごめんね、宏章。
桜那は前を向いて、事務所までの道のりを歩き出した。
事務所に戻ると、ロビーで雫が待っていた。
桜那の姿に気付いて、慌てて駆け寄る。
「桜那さん……、大丈夫ですか?」
ここのところ、ずっと雫には心配ばかりかけさせている。雫だけじゃない。侑李さんにもみんなも……、桜那はにっこりと微笑んだ。
「ごめんね、心配かけて。せっかくだから、今週はゆっくりさせてもらうね」
そう言って桜那は、雫の運転で自宅へと戻った。
その頃ちょうど宏章は仕事を終えて、倉庫を出ようとしていた。
背中の振動で携帯の着信に気付く。
……桜那からだ。
「はい」
「……」
宏章は返事をするが、桜那からの応答はない。 桜那は少し間を置いてから話し始めた。
「宏章……、今から会える?話したい事があるの」
桜那のいつもの甘えるような無邪気な声はそこにはなかった。桜那の声で、宏章はすべてを悟った。
「わかった。すぐ行くよ」
宏章は桜那のマンションまでバイクを走らせる。マンションに着くと、すでにマンションの前で桜那が待っていた。
宏章がバイクを路肩に停めて急いで駆け寄ると、「中で待ってなよ。風邪引くだろ」と桜那の手を握った。桜那はにっこり微笑み、「ありがとう。心配しないで」と静かに手を離した。
「寒くない?どっか入って話す?」
宏章は桜那を気遣ったが、桜那が慌てて「いいの、ここで」と首を横に振った。明るい場所で宏章の顔を見たら、決意が揺らいでしまう。
……泣き顔は見せたくない。せめて最後くらい、笑顔で見送らせて。
桜那は意を決して顔を上げた。
「宏章……、私やっぱり一緒には行けない」
桜那は暗がりの中、宏章の目を見つめた。
宏章の表情はよく見えなかった。
「一緒になろうって言ってくれて、すごく嬉しかった……。宏章と一緒なら、きっとすごく幸せになれると思う……。でも、私の居場所はここしかないから。家族も捨てて、いろんな物犠牲にして……。もう後戻りは出来ない」
桜那は退路を全て断った。
唯一の心の拠り所だった、宏章さえも。
「それに、きっと今更普通の生活は送れないだろうから……。この世界でのし上がってみせるよ。今まで、ありがとう」
桜那が涙を堪えて穏やかな笑顔を見せると、宏章はゆっくり目を閉じた。
今までの桜那との出来事が蘇る。
初めて出会った日の衝撃。
アパートでの穏やかな昼下がり。
強さの中に、時折見せる孤独と寂しさ。
子どものように泣きじゃくる姿。
そして自分だけに見せる甘えた笑顔。
どれもすべてが愛しくて、大切だった。
「分かった……」
宏章は声を絞り出した。
「なんとなく、そんな気がしてたから……。俺は不甲斐なくて、結局桜那に何もしてやれなかったよ……」
……そんな事ない!
そう言いたいのに、苦しくて言葉が出ない。
桜那は首を横に振るので精一杯だった。
「桜那と別れても、俺はずっと桜那のファンでいるから……。それぐらいは許してよ」
宏章はそう言って笑った。
「いつ熊本に帰るの?」
桜那が尋ねる。
「実は今日、仕事辞める事伝えたんだ……。今月いっぱいで辞めて、準備が整い次第帰るよ」
「……そう、急だね」
「俺兄弟もいないし、早く帰ってやんないと……」
宏章のそれは建前で、本当は早く東京を離れたかった。長くいればいるほど桜那を思い出して、恋しくなってしまうから。
「そっか、きっと二人とも喜ぶよ」
桜那は安堵して、にっこりと微笑む。
「どうかな……」
宏章は自信なげに苦笑いして、一言そう呟いた。
「それだけで充分親孝行だよ。私には出来なかった素敵な事」
桜那の声は寂しそうだった。
家族の話をする時、桜那はいつもそうだ。
……最後まで、俺はどうしてやる事もできないのか。
宏章は虚な目で下を向いた。
しばし間を置いたあと、宏章は再び桜那へと向き直った。
「俺、東京に来て良かったよ。結局何にもなれなかったけど、やっぱり色々と楽しかったし。……何より桜那と出会えたから」
宏章は一呼吸置くと、しっかりとした口調で、静かに最後の言葉を告げた。
「今までありがとう。元気でな」
その時、宏章の後ろを車が通り過ぎた。
暗がりでずっと宏章の表情が見えなかったが、車のヘッドライトに照らされて、ほんの一瞬だけ、はっきりと顔が見えた。
宏章は今にも泣き出しそうな、悲しい瞳で微笑んでいた。
……そんな顔しないで!
桜那は涙が溢れるのを必死に堪えた。
「じゃあ行くよ」
宏章はバイクのエンジンを掛ける。
「元気でね……」
桜那はやっとの思いで微笑んでみせて、笑顔で宏章を見送った。
宏章がどんどん小さく遠くなる……やがて姿が見えなくなると、桜那は部屋へと駆け込んだ。
ドアを閉めてその場にへたり込み、声を上げて泣きじゃくった。
心の中で何度も宏章の名前を呼ぶ。
だけどもう振り向いてくれる事はない。抱きしめてくれる事も。
桜那は宏章を失ってしまった事を、ようやく実感した。
それから半年が過ぎた。
映画はクランクインを迎え、撮影は連日深夜近くまで及んだ。桜那の仕事はまさに順調そのものだった。
桜那は周囲に一切疲れた表情を見せる事なく、凄まじい集中力を発揮していた。それはまるで「痛み」を忘れようとするかの如く、アドレナリンが放出されている様だった。今日も終了したのは23時過ぎで、桜那は帰りの車中で窓に寄りかかり、ぼんやりと街のネオンを眺めていた。
行き交う車のヘッドライトが眩しくて、桜那はすれ違い様に目を閉じた。その度にいつも、別れ際の宏章の顔がフラッシュバックする。
桜那は祈らずにはいられなかった。
……宏章、どうか幸せでいて。
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