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夜はまだ濡れていた。
カジノ街のネオンが、水溜まりに溶けて歪む。
赤も、青も、すべてが混ざって――現実感が薄い。
その中を、チャンスは歩いていた。
コツ、コツ、コツ……
わざとだ。
足音を消さない。隠れない。
追われていることを、知っているから。
――もう一つの足音が、重なる。
チャンスは止まる。
振り向かない。
「遅かったな」
沈黙。
影が、路地の奥から剥がれるように現れる。
黒いコート。
縦縞のフェドラ帽。
胸元で、金のチェーンがかすかに揺れた。
ドン・ソネリーノ。
通称マフィオソ。
「……逃げないのか」
低く、乾いた声。
チャンスは肩をすくめる。
「逃げる必要あるか?」
二人の距離は、まだ数メートル。
だが、その間にある空気は、引き金よりも重かった。
マフィオソは銃を抜かない。
部下もいない。
――“個”で来ている。
「返してもらおう」
その言葉に、チャンスはわずかに笑う。
「どっちを?」
ほんの一瞬。
マフィオソの沈黙が、夜に落ちる。
「……賞品だ」
チャンスが、そこで初めて振り返った。
目が合う。
逃げ場のない、まっすぐな視線。
「本当にそれか?」
その一言で、空気が変わる。
マフィオソの中で、何かが“ズレる”。
――違う。
自分は、もうそれを一番にしていない。
一歩、近づく。
足音が、やけに大きく響く。
チャンスは動かない。
「お前は……どうやって勝った」
「さあな」
「運ではない」
「そう思いたいんだろ」
即答だった。
迷いがない。
マフィオソの目が、わずかに細まる。
「もう一度やるぞ」
チャンスの眉が動く。
「は?」
「同じ条件でいい」
一歩、さらに近づく。
「イカサマも……してやる」
それは、勝つための言葉じゃない。
――理解したい、という執着だった。
チャンスが、静かに笑う。
「随分必死じゃねえか」
間を置かず、マフィオソは言う。
「当然だ」
雨の滴る音だけが、二人の間を埋める。
「お前を、このままにしておけるか」
ほとんど、告白だった。
チャンスは少しだけ首を傾ける。
「……賞品はどうした」
その問いに、
マフィオソは、ほんのわずかだけ視線を逸らす。
「今はどうでもいい」
完全に、目的が入れ替わる。
遠くで、サイレンが鳴る。
チャンスは息を吐くように笑った。
「今日はやめとけよ」
「その顔のままじゃ、勝てねえ」
マフィオソの視線が、鋭くなる。
「……次は逃がさん」
チャンスは背を向ける。
「逃げねえよ」
数歩、歩いて――
振り返る。
「来いよ、マフィオソ」
ネオンの中に溶けるように、消えていく。
残されたのは、静かな路地と、
動かない男。
マフィオソは、ゆっくりと目を閉じる。
――奪われたのは、賞品ではない。
あの瞬間、
確かに、何かを持っていかれた。
理解できないものに、
触れてしまった。
そしてそれを、
手放す気は、もうなかった。