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115 ◇聞き間違い?
雅代が温子から励まされて工場から帰った日から数日後、また哲司が休日にエッホエッホと米や缶詰を持って来てくれた。
「きゃあ~、哲司くん、いつも悪いわね。ありがとうございます」
いつもは哲司に子供時代のようにざっくばらんに話掛ける育代も、米などを差し入れてもらう折には、丁寧な言葉遣いを心掛けていた。
「気にしないでください。こんなことくらいしかできないので……」
両親が米や諸々いただきものをよいしょよいしょと座敷へと持ち運んでいる隙に、雅代も哲司に声を掛けた。
「哲司くん、いつもいつも何だか申し訳ないわ。
鳩子ちゃんにお裁縫教えてるくらいでこんなしてもらって、甘えすぎだと思うの。私は哲司くんに酷いことしたのに、何で……」
「前にも説明したろ? 雅代ちゃんのためだけじゃないし、別にこれで雅代ちゃんに結婚を迫ったりしないから、あんまり思いつめないで――――。
近所のよしみってことで、受け取ってほしいなぁ」
『結婚を迫ったりしない』と哲司が言う。
それを聞いて雅代は酷く寂しい気持ちになるのだった。
今の自分じゃあ、結婚を迫られても哲司に相応しくなくて困るだけなのに、さりとて『結婚を迫ったりしない』と言われるとたちまち苦しくなるのだ。
デモでもダっての雅代と、一度断られていてプロポーズは二度としてはいけないと自重している哲司とでは、結婚話の進みようがない中……育代と育代の夫、そして雅代と今日も手習いに来ていた鳩子といった具合に、ちょうど登場人物の揃ったところでお茶でもということになり、大川家と小桜家の5人でお茶の時間を持つことになる。
********
「久しぶりに今度はもらった小豆でおはぎでも作ろうかね」と育代が雅代と鳩子に向けて話し掛け始めたので、へぇ~おいしそうじゃないかぁ~、お相伴に預かりたいなぁ~などと哲司がのんきなことを考えていたら、今の話のついでのように育代が言った。
「哲司くん、うちの雅代もらってくれないかしら……」
その言い方があまりにも先程の話し振りの延長のような調子だったため、哲司は提案された内容が一生の大事とは思えず、空耳? 聞き間違いかと思い育代に訊き返した。
「えっ?」
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――――― シナリオ風 ―――――
◇数日後・再び訪ねる哲司
〇雅代の実家/大林家の玄関
哲司が荷物を持参して訪ねて来る。
真っ先に応対に出る育代。
育代(笑顔で)
「まぁ~、哲司くん、いつも悪いわね。ありがとうございます」
哲司(穏やかに)
「気にしないでください。
こんなことくらいしかできませんから」
両親が米袋を運び込む。
玄関先に雅代が現れる。
雅代
「哲司くん……いつもすみません。
鳩子ちゃんに裁縫を教えてるくらいで、こんなしてもらうなんて……。
私、哲司くんに酷いことしたのに、なんで、そんなふうに――」
哲司(やさしく遮って)
「前にも言ったろ?
これは雅代ちゃんのためだけじゃない。
それに――これで結婚を迫ったりなんてしない。
……近所のよしみ、ってことで受け取ってほしい」
雅代、俯く。
雅代(心の声)「結婚を迫らない……って言われると、
どうしてこんなに寂しくなるんだろう」
(N)
「“迫られたら困る”と思う自分。
“迫られないと苦しい”と思う自分。
雅代の胸は、その間で静かに揺れていた」
◇お茶の時間
室内/茶の間。
ちゃぶ台を囲む5人。
登場人物:哲司、育代、育代の夫、雅代、鳩子
育代(嬉しそうに)
「久しぶりに、もらった小豆でおはぎでも作ろうかねぇ」
哲司(笑顔で)
「へぇ~、それはおいしそうだ。ぜひ、お相伴に預かりたいなぁ」
その直後、育代が何気ない調子で言う。
育代
「哲司くん、うちの雅代――もらってくれないかしら」
時間が止まる。
そして一瞬静寂に包まれる。
哲司(ぽかんと――――空耳なのか?)「……えっ?」
(N)
「育代のあまりに自然な物言いに、哲司は、何かの聞き間違いだと思った」
まだ片付けられていない風鈴が……チリンと鳴る