前方で赤いランプを灯す信号機を睨み付けるように見詰めながら、想は我知らずあれこれと思いを馳せる。
(結葉。何でお前俺に何も言わずに一人でマンションに行ったりしたんだよ……)
結葉は、あんなにも旦那に会うのを怖がっていたはずなのに、一体何を考えているんだろうか。
無論、想だって鬼じゃない。
結葉が本気で旦那に会いたいと言えば、個人的な気持ちとしてはどんなにモヤモヤするところがあろうとも、それを押し殺してちゃんと二人が会えるよう手配をするぐらいのこと、出来るつもりだった。
(俺がダメって言うとでも思ったのかよ!)
そう考えた想だったけれど、それは何か違う気がして。
そもそも自分は結葉に、面と向かってそんな話をした覚えだってある。
結葉は「その時はお願いするね」と、想の手を微かに震える小さな手で握ってきたのだ。
(とすると――)
やはり偉央から届いていた手紙にその答えがあるような気がした想だ。
あの封書、結葉宛だからと開封せずに彼女に渡してしまったけれど、こんなことならば中身を検めてから手渡すべきだった。
そんなことを思って、(いや、それは人としてダメだろ)と、慌ててその考えを否定する。
そこで信号が青になって。
想は一旦思考を引き上げると車を発進させた。
***
「やっぱり結葉の手料理は優しい味がして美味しいね」
ベッド横。
ドレッサーの椅子を持ってきて、気持ち夫から距離をあけるようにして腰掛けた結葉に、偉央が静かな声音でそっと話し掛けてくる。
(相変わらず偉央さんは上品な食べ方をなさるな)
そんなことを思いながらぼんやり偉央を見詰めていた結葉は、偉央に淡く微笑みかけられてドキッとしてしまった。
結葉は、偉央の箸を持つ手指のスッと長くて、その所作が美しいところが大好きだった。
結婚前、結葉は見合いの席で偉央が食事をする光景を見るとはなしに眺めて、〝この人となら、毎日三食一緒にご飯を食べてもきっと不快な気持ちにはならないだろうな〟と思ったのを鮮明に覚えている。
結婚してからここ数年は、食事の時すら偉央の顔色を窺っていた結葉だ。
張り詰めた空気の中、偉央がこんな風に綺麗な食べ方をする人だったことすら、いつの間にか見えなくなってしまっていたんだなぁと思って。
(私たち、一体どのぐらい長い間、ボタンを掛け間違え続けてきたんだろう)
そんなことを考えて、結葉は両手で包み込んだ湯呑みをギュッと握りしめる。
最初は熱くてこんな風に持つことが敵わなかった湯呑みも、今は大分中身が冷めて、強く握ってもほんのりと温かい程度にしか感じられない。
「お口に合って良かったです」
答えながら、そう言えば偉央との関係が悪化してからは、自分が作った料理に対して「美味しい」と余り言われなくなっていた気がした結葉だ。
それでも偉央は、結葉が出したものは残さず全部綺麗に食べてくれていたから、不味いとは思われていないんだろうな、程度に感じていたのを思い出す。
「よく考えてみたら、僕は最近キミに『美味しいね』とか『作ってくれて有難う』とか、ちゃんと言葉にして伝えていなかったね。――本当にすまない」
まさか偉央も同じことを想起していただなんて思わなかった結葉は、半ば無意識に伏せ気味にしていた顔を上げて、偉央をじっと見詰めて。
「ん?」
偉央に小首を傾げられてしまった。
そのことにビクッとして、「な、何でもありません」と目を逸らして。
湯呑みの中でフルフルと揺れるお茶の水面に視線を落とした結葉は、その揺れに励まされるように再度顔を上げた。
「私も……」
小さくつぶやくように結葉が口を開いたのを、偉央が何も言わずに聞いてくれている。
それにホッとしたように、結葉はポツンポツンと言葉を続けた。
「私も……偉央さんと同じことを思っていたので少し驚いてしまいました」
言ったら、「そっか……」と自分を責めるでも結葉に同調するわけでもなく、ただただ静かな声音が返ってくる。
今日の偉央は本当に穏やかで。
結葉はほんの少しだけど肩の力を抜くことが出来ている自分にちょっぴり驚いてしまう。
(こんな風に凪いだ気持ちで偉央さんと話が出来たのは何年振りだろう)
そう思ってしまった。
***
「ごちそうさま」
偉央の声に、結葉は「お粗末様でした」と答えて席を立って。
「片付けますね」
そう声を掛けてベッドの方へ向けていたサイドテーブルを、トレイを載せたままキャスターのロックを解除してベッドを避けるように動かした。
「偉央さん、今度こそ横になって身体を休めていてください。私、食器を洗ってきますので」
ベッド横の定位置にサイドテーブルを固定すると、自分が使っていた湯呑みをトレイに一緒に載せて、偉央の方を振り返る。
「――っ!」
それと同時、いきなり強く手を引かれて、結葉は偉央の腕の中に抱きしめられていた。
食事の間中、偉央が纏う穏やかな空気感に完全に油断していた結葉は、突然のことに何が起こったのか理解出来なくて。
悲鳴すら上げられないまま偉央に捕まえられてしまう。
「――あ、あのっ、偉央、さっ」
偉央の腕の中に閉じ込められた事で、嫌と言うほど嗅ぎ慣れた偉央の香りが鼻腔に流れ込んできた。
〝偉央の香り〟と言っても、偉央は仕事柄香水などをつけるタイプではない。
だから偉央から漂ってくるのは、いつも彼が身に纏っている服に使われた洗剤や、ボディソープの香りに、彼自身の体臭がほんの少し混ざった感じの仄かなものだ。
同じ石鹸を使って身体を洗っていた時ですら、自分とは違って感じられた偉央のにおいだったけれど、こんな風に弱っている時でさえも、彼は汗臭かったりしなかった。
思えば、偉央は仕事から帰ると真っ先にシャワーで身体を清める男だった。
家の中に病院からのアレコレを持ち込みたくないからだよと説明されたことがあるけれど、そのせいで必然的というべきか。
家で偉央を待つ結葉には、夫=風呂上がりの香りが定着してしまっていて。
不意打ちのように偉央に抱きしめられた結葉は、その香りとの相乗効果で、偉央にされた数々のことを思い出して恐怖心がブワリと再燃する。
ギュッと身体を固くして、震える声で「偉央さ、お願っ……離して……」と懇願してみたけれど、聞こえているのかいないのか。
偉央は一向に腕を緩めてくれないのだ。
しかも、何度呼びかけても偉央が何も言ってくれないから、怖くて堪らない結葉だ。
「……偉、央、さん……」
震える手でグッと偉央の身体を自分から引き剥がそうとしてみた結葉だったけれど、偉央の力は思いのほか強くてびくともしない。
「お願い、離し、て……」
さっきまでの凪いだ気持ちが嘘みたいに、結葉の心は千々に乱れて嵐の中に放り込まれたみたいな錯覚を覚えている。
ややして――。
「今まではずっと要らないって言い続けてきたけど……」
結葉が必死にもがくのを封じたまま、偉央が譫言のようにつぶやいた。
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