テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
***
「じゃ、気をつけてね」
「大丈夫ですよ、もうアパートのすぐそばです」
いつのまにか少し乗り慣れてしまった車から降りて、柚は運転席を覗き込むように身体を折って、優陽へ笑いかけた。
さっきまでの微妙な空気は、とっくに彼が消してくれた。本当に場の空気を操ることに長けた人だ。
優陽が突然柚の前に現れてから、その後こうして家の前まで送り届けてもらう、それももう三度目になる。
ほんの一時間にも満たない二人きりの時間は柚にとって、とても濃いものになっていると思う。
初めて会ったあの日のように、強風がずっと心の中に吹き荒れているかのよう、ざわざわと落ち着かない。
「それにしてもなぁ、一階角部屋ベランダの柵は低いって女の子が住むにはなぁ」
なにやら不満気に呟く優陽は、まるでこの古びたアパートに住む柚のことを心配しているかのような物言いだ。落ち着かない理由にはきっと、優陽のこんな言葉や行動のせいも大いにあるのではないかと思っている。
「……よくわからない人」
「は?」
「……え、あ! ごめんなさい声になってた」
慌てる柚を見て、彼は不機嫌そうな溜息をここぞとばかりき大きく響かせた。
そうして、ちょいちょいっと手招きをする。バカみたいに従って先ほどまで座っていた助手席に手をついて近づいた。
「わ!?」
すると、こちらに身を乗り出して来た優陽の手が後頭部に触れ、力強く引き寄せてきた。
と、同時にバランスを崩しかけた柚の手首を掴む、もう片方の手。あっというまに自由を奪われてしまった。
「ちょ、ちょっと、なん! なんなんですか!?」
「余計なこと言ったから怒ってるの?」
先ほどまでの会話のことを言っているのだろうか。
らしくなく、不安そうに揺れる瞳。
それに視線を奪われてると、やがて目の前に近付いてくる、優陽の顔。
鼻先が触れ合いそうな距離に、ドキドキ、ドキドキと。心臓はわかりやすく鼓動を早めるのに、情けない。離してくださいと言えばいい。わかっているのに、声にならない。
どうしようもなく、ぎゅっと目を瞑った、そんな時だ。
触れ合いそうな唇を初期設定のままの、あのよく聞くコール音が食い止めた。
優陽のスマートフォンからだろう。
「……うーわ、音消すの忘れてた」
気怠そうな声と共に、爽やかな香りが遠ざかる。
優陽はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップする。
そんな動作を眺めながら覚醒してく頭。
(また流されてしまってる……!)