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「直しに、出しています」
私は、左手を机の上に置いたまま言った。隠す理由はない。隠せば、嘘になる。
「あら」
氷室さんの笑顔は、動かなかった。
「専務が買われたのに、サイズ違い?」
壁際の三人が、顔を見合わせた。見合わせてから、三人とも私の左手を見た。
「サイズ直しは、普通です」
「普通、ですか」
「指輪は、買ってから直すものだと聞いています」
「そうねえ。でも、専務ともなれば、最初から合うものを用意されると思っていたから」
氷室さんは、机の上の資料を一枚めくった。めくる手が、ゆっくりだった。
「まあ、いいでしょう。それでは研修を始めます。まず、お辞儀の角度から」
始まる。私は背筋を伸ばした。
扉が、開いた。
ノックはなかった。開けたのは高梨さんで、高梨さんの後ろから、専務が入ってきた。
黒いスーツ。紺のネクタイ。手に、小さな箱。
壁際の三人が、立ち上がった。氷室さんも、立ち上がった。
「専務。研修中ですが」
「分かっている」
専務は、氷室さんに答えながら、私の前まで来た。
「直しが終わった」
箱を開けた。細い銀色の輪。十月に、私の手から外れたもの。
「つけろ」
私は、専務を見た。専務は、私を見ていた。
人前だ。氷室さんがいて、秘書室の三人がいて、高梨さんがいる。
手を出すか、出さないか。それは、私が決めることだった。
私は、左手を出した。
専務が、指輪を取って、私の薬指にはめた。
ぴったり合った。回らない。テープは、要らない。
「……合っています」
「九号だ」
専務は箱を閉めて、高梨さんに渡した。それから、氷室さんのほうを向いた。
氷室さんは、立ったまま、固まっていた。きれいな笑顔が、きれいなまま、動かない。
「研修は、続けてください。氷室さん」
「……はい」
「親父の希望だそうなので」
専務は、それだけ言って出ていった。高梨さんが後ろを閉めた。
部屋の中の誰も、しばらく動かなかった。
私は、左手を机の上に戻した。指輪が、蛍光灯の光を少し返した。
「それでは」
氷室さんが、座った。
「お辞儀の角度から」
声は、研修の講師の声に戻っていた。ただ、資料をめくる手が、さっきより速かった。
研修は、お辞儀の角度と、名刺の受け渡しと、親族への挨拶の言い回し。氷室さんは正しいことを正しく教え、私は正しく聞いて、正しく頭を下げる。左手は、机の上に置いたままにしておく。隠さない。それだけを決めていた。
一時間後、研修が終わって廊下に出ると、高梨さんが待っていた。
眼鏡の奥の目は、いつもどおり無駄がなかった。
「お疲れさまでした」
「あの、高梨さん」
「サイズは、最初から分かっていました」
高梨さんは、私の左手を一度見た。契約の日、専務室で見たときと同じ目で。
「九号で合っていました。水瀬さんの指が細いのは、見れば分かります。直しに出したのは、本当です。少し詰めただけで、一週間で戻っていました」
「……一週間前に」
「はい。専務が、お渡しする日を決めるまで、私が預かっていました」
「今日、と」
「今日、人前で、と」
高梨さんは、それ以上言わなかった。言わないで、小さく頭を下げた。
「研修、あと二回です。私も七階にいますので、何かあれば」
初めて、高梨さんが私に頼みごとでないことを言った。私は頭を下げ返して、二階に降りた。
二階では、小森さんが待っていた。研修の中身より先に、聞かれたのは指輪のことだった。
「七階の人から聞きました。専務が、研修室に」
「来た」
「かっこいい」
「仕事して」
小森さんは席に戻って、十分おきに私の左手を見た。最初の水曜と同じだった。違うのは、指輪が回らないことだけだ。
夜、台所。
専務は、私より先に帰っていた。椅子に座って、机の上の袋紗を見ていた。
「ただいま帰りました」
「ああ」
私は、鞄を置いた。専務は、私の左手を見なかった。
「人前で、庇うつもりはなかった」
専務が、言った。
「でも、来ました」
「指輪を渡す用事があった」
「一週間前に、できていたと聞きました」
専務の手が、袋紗の上で止まった。
「……高梨か」
「はい」
「あいつは、余計なことを」
二度目だった。高梨は余計なことを、と専務が言うのを聞くのは。熱のときと、今日と。どちらも、専務が自分では言わないことを、高梨さんが私に言ったときだった。
私は、指輪を回した。回らなかった。合っているから。
「ありがとうございました」
「用事だ」
「はい。用事でした」
専務は、袋紗から手を離して、立ち上がった。
「氷室さんは、親父に報告する」
「はい」
「寝室が二つで、指輪は専務が人前ではめた、と」
「……矛盾しますね」
「矛盾していればいい。親父は、矛盾したものを自分の目で確かめに来る」
専務が部屋に入って、私は茶を淿れた。一人分。
スマホが、震えた。
知らない番号だった。会社の番号でもない。
出ないつもりだった。でも、二度目に震えたとき、研修の名簿に自分の番号を書いたことを思い出した。秘書室に渡した名簿。
出た。
「水瀬さん、か」
低い声だった。飴を転がす音がした。
「桐谷重臣です」
社長だった。私は、立ち上がっていた。
「奏に内緒で、一度会えんか」
コメント
1件
いやもう…人前で指輪はめる専務、かっこよすぎました🥀💍 しかも「九号だ」ってサイズも言っちゃうの、ずるいです。 氷室さんの笑顔が固まった瞬間、めっちゃゾクゾクしました。 高梨さんの「今日、人前で」って説明も、全部計算だったんだなって思うと…もう、言葉になりません。 最後の社長からの電話、これからどうなるんだろう。続きが怖いけど気になる…