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#ダークファンタジー
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昨夜の出来事は、悪い夢だったんじゃないか。
そう思いながら、 俺は駅の北口にある「遺失物管理所」へと向かった。
そこは、普段なら誰も見向きもしないような、錆びついたトタン屋根のプレハブ小屋だった。
重い引き戸を開けると、埃っぽい匂いが鼻を突く。
「すみません、昨夜電話した佐藤ですが……」
返事はない。ただ、正面のカウンターにポツンと、小さな桐の箱が置かれていた。
吸い寄せられるように近づき、蓋を開ける。
「……これだ」
鈍い光を放つプラチナ。
内側に刻まれた『T to M』の文字。
間違いなく、美咲に贈った指輪だ。
指先に触れると、心臓の鼓動が耳の奥まで響いた。
ようやく、止まっていた時間が動き出す。そんな気がした。
ふと見ると、箱の横に小さな古びた鍵が置かれていることに気づいた。
『あなたのものも、一つ置いていってください』
昨夜の老人の声を思い出し、俺は無意識に
ポケットに入っていた予備の自宅の鍵をそこに置いた。
一種の等価交換のつもりだった。
指輪をポケットに深くねじ込み、俺は逃げるように管理所を後にした。
異変が起きたのは、その翌朝だった。
「……あれ?」
仕事に行く準備をしようとキーケースを手に取ったとき、妙な違和感に指が止まった。
さっき置いてきたはずの「自宅の鍵」が、なぜかキーケースに戻っている。
いや、戻っているだけじゃない。
見たこともない、重厚な真鍮製の鍵が、俺の車のキーと一緒に束ねられていた。
「なんだこれ。……俺、こんな鍵持ってたか?」
銀色のスマートな俺の鍵とは似ても似つきもしない、古臭いデザイン。
試しに部屋のドアに差し込んでみるが、当然回らない。
どこか別の場所の鍵だ。
困惑しながら出社すると、さらなる「ノイズ」が俺を襲った。
「おっ、タクミ。おはよう。昨日の釣り、大漁だったんだって?」
デスクに座るなり、同僚の阿部がニヤニヤしながら肩を叩いてきた。
「……は? 釣り?」
「とぼけんなよ。ほら、これ」
阿部がスマホで見せてきたのは、俺たちが共有しているSNSのグループチャットだった。
そこには、大量のアジを掲げて満面の笑みを浮かべる俺の姿があった。
背景は海。
ウェアも道具も本格的だ。
「……俺じゃない。これ、誰だよ」
「何言ってんだよ、お前だろ? お前、先月から『週末は海に限る』ってうるさかったじゃないか」
阿部の目は冗談を言っているようには見えなかった。
俺は釣竿なんて握ったこともない。
魚を触るのも苦手だ。
それなのに、チャットの履歴を遡ると
自身のアカウントが数週間前から、釣りスポットのレビューや魚料理の写真を何枚も投稿している。
指先が震える。
ポケットの中の指輪を確認する。
硬い金属の感触。
指輪は確かにここにある。
でも、代わりに失ったものは「自宅の鍵」なんかじゃなかった。
俺が知らない「俺の記憶」が、じわりと、日常の隙間に染み出し始めていた。