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出撃前――
「ほら、鎧」
差し出されたそれを、ガイロは一瞥だけして、そっぽを向いた。
「いらない」
「重いと逃げるとき邪魔だしな」
「……ちょっと、軍師様」
ユンナが眉をひそめる。
だがサイラスは肩をすくめただけだった。
「事実ですから」
ガイロが鼻で笑う。
「どうせまた、逃げながらヒキョーな策でも考えるんだろ」
「ええ。生き残るために」
間。
ガイロはゆっくりと、拳を鳴らした。
「……でもな」
声の温度が変わる。
「そんな勝ち方で、胸張れんのか?」
サイラスはわずかに目を細めた。
「勝てば、張れます」
即答だった。
その迷いのなさに、ガイロは一瞬だけ黙る。
――そして、笑った。
「いいじゃねえか」
一歩、前に出る。
「俺はな」
低く、獣のように言う。
「帝国の連中に――
このガイロ様を怒らせたことを、
骨の髄まで後悔させてやる」
振り返りもせず、続ける。
「だからよ、軍師」
「猫の子一匹、通さねえ」
サイラスが軽く息をついた。
「おねがいいたします」
ガイロが振り向く。
「だから安心して、そのヒキョーな頭、使いやがれ」
サイラスは一礼した。
「はい」
ガイロが口角を上げる。
「逃げて勝つなんておしゃれだな」
「それがお前の戦い方だ」
一瞬、風が止まった。
サイラスは、静かに答える。
「戦えぬ軍師、戦場を操ってみせましょう」
「……そちの鎧、ずいぶんと重そうじゃの」
皇帝は、椅子に腰掛けたまま、何気なく言った。
ゼイオンは片膝をつく。
「は。戦場では何が起こるか分かりませぬゆえ」
わずかに間を置き、
「この鎧が拾う命もございます」
皇帝は、目を細めた。
「慎重じゃの」
指先で肘掛けを軽く叩く。
「その鎧――少々くたびれておるように見えるが」
「長く戦場に立っておりますゆえ」
ゼイオンは顔を上げない。
「それでもなお、砕けることはございませぬ」
沈黙。
やがて皇帝は、かすかに笑った。
「よい」
「似合っておるぞ」
その一言は、賞賛にも、試しにも聞こえた。
ゼイオンは、深く頭を垂れる。
「――光栄にございます」
皇帝は視線を外し、ぽつりと言った。
「重きものを背負う者ほど、よく戦う」
「じゃがな」
わずかに口角が上がる。
「そちは、その重さに押し潰されるな」
静寂が落ちる。
ゼイオンは、ゆっくりと立ち上がった。
「その時は」
短く言う。
「潰れる前に、敵をすべて潰してみせましょう」
皇帝は、初めてはっきりと笑った。
「……頼もしいのう、ゼイオン」
ヴァルドは帝国軍の先鋒を務める将軍。
北部統一戦争の折、
先帝アルドリック・ヴァンガルドから
「そちの戦いはまるで狼のようじゃの」
と評されたことを終生の誉れとしており、
以後は狼を模した兜鎧を身に着けている。
出陣の際には黒狼の旗を掲げ、
その勇壮な姿は帝国の少年たちの憧れの的となっている。
武名だけでなく人気も高く、
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帝国でも広く知られた将軍の一人である。
王国軍前衛を担うのは第一師団長、ガイロ。
その守りは王国随一と称され、人は彼を「鉄壁ガイロ」と呼ぶ。
「兵が安心して戦えるのは、不動たる旗があるからだ」
彼はそう言い、戦場において決して退かない。
一歩も動かぬその姿こそが、兵たちにとっての拠り所であった。
かつてヤギュウ影の軍団が王都を襲った折、
多くが動揺する中、ただ一人その場に踏みとどまり、王都を守り続けた。
ガイロは、王国における忠義の象徴である。
そして
両軍は激突する
戦場は、風が強かった。
乾いた土煙が、両軍の間を流れていく。
やがて――黒が現れる。
黒狼の旗。
それを先頭に、帝国軍が進んできた。
乱れのない足並み、低くうねるような前進。
その先頭に立つ男の兜は、狼を象っている。
ヴァルド。
その姿を見て、王国側の兵にざわめきが走る。
「……来たぞ、“黒狼”だ」
恐れとも、興奮ともつかぬ声。
だが――
そのざわめきは、ある一点で止まる。
前に立つ男が、動かないからだ。
第一師団長、ガイロ。
大地に根を張ったかのように、ただ立っている。
旗も揺れぬ。
鎧も鳴らぬ。
ただ、そこに在る。
「やっぱりあの狼将軍だったな」
誰に聞かせるでもなく、ガイロは呟いた。
その一言で、王国軍の空気が変わる。
ざわめきが消え、呼吸が整う。
対するヴァルドは、わずかに歩みを緩めた。
狼の兜が、正面の一点を見据える。
(……なるほど)
声には出さぬ。
だが、その存在感だけで理解する。
あれは、崩れぬ。
崩れぬものは――噛み砕くしかない。
ヴァルドは、静かに剣を抜いた。
それに応じるように、ガイロもまた剣を構える。
一歩も動かぬまま。
風が、止む。
黒狼の旗が、大きくはためいた。
その瞬間――
「進め」
「来い」
二つの意思が、ぶつかる。
戦が、始まった。
ヴァルドは、静かに手を上げた。
重装歩兵が前へ出る。
鉄の塊が、大地を踏みしめるたびに鈍い振動が走る。
盾が並び、槍が揃う。
ゆっくりと、確実に、王国軍へと圧をかけていく。
――だが、それだけではない。
次の瞬間。
ヴァルドは、自らの馬腹を蹴った。
「突撃!」
黒狼の旗が翻る。
「将軍に続け!」
二十騎ほどの騎兵が、雷のように後に続く。
重く進む歩兵の中央を裂くように、
黒き一点が、一直線に駆け抜けた。
その速さは、まるで獲物に飛びかかる狼のごとく。
敵陣へ――
「前列、しゃがめ!」
号令と同時に、前列の兵が一斉に身を落とす。
「こらえろ!」
「耐えろ!」
迫るのは、黒き奔流。
騎馬が駆け抜け、すぐ後ろから重装歩兵がぶつかってくる。
衝撃が、盾越しに叩きつけられる。
土が抉れ、列が軋む。
それでも――崩れない。
ガイロは、ただ一点を見つめていた。
波が、わずかに乱れる瞬間。
踏み込みが揃わぬ、一拍。
「……いまだ!」
その声は、短く鋭い。
「叩け!」
次の瞬間。
しゃがんでいた兵たちが、一斉に立ち上がる。
鎗が、上段から振り下ろされる。
鈍い音。
叫び。
足をすくわれた重装歩兵が、前のめりに倒れ込む。
一人が倒れ、
二人が絡まり、
やがて列が崩れる。
黒き狼の旗はゆらぎ始めた。
ヴァルドは、崩れかけた前線を見て、口の端をわずかに上げた。
「やるな」
即座に、声を張る。
「兵を入れ替えろ! 前列後退、後列前進!」
「直ちに戦列を組み替えろ!」
乱れた重装歩兵が、波のように入れ替わる。
押し切るのではなく、整え直す。
黒狼は、噛み直す。
――――
「追うな!」
ガイロの声が飛ぶ。
「倒れている者を起こせ!」
「密集隊形を崩すな!」
前へ出ようとした兵が、足を止める。
勝機に見えた一瞬を、あえて捨てる。
崩れかけた敵を追えば、こちらの形も崩れる。
ガイロは、それを許さない。
鉄壁は、崩さぬことに意味がある。
再び、盾が揃う。
槍が整う。
戦線は、呼吸を取り戻す。
――――
パーパス丘。
濃い霧が、戦場を覆っていた。
「……何も見えないね」
サイラスは、眼下を見下ろしながら呟く。
「でも、始まった」
音だけが届く。
鉄のぶつかる音。
叫び。
それで十分だった。
霧の向こうで、
見えない一手が、動き出す。
――将グラント。
前線の喧騒から一歩引いた位置で、彼は目を細めていた。
見えているわけではない。
濃い霧が、すべてを覆っている。
だが――
(流れは、読める)
ヴァルドがぶつかり、
ガイロが受け、
均衡が生まれている。
その均衡こそが、狙い目だった。
ゼイオンが評価したのは、この一点。
戦場を“面”で捉える力。
そして――
カルデル城。
あのとき、自分は遅れた。
速さに対応できず、戦機を逃した。
(同じ過ちは、繰り返さない)
「各隊、左右へ展開」
静かな声が、確実に伝わる。
弓兵たちが、霧の中で左右へ広がっていく。
正面ではなく、面を覆う配置。
「ヴァルドを支援する」
「合図を待て」
引き絞られる弦。
矢羽が、わずかに震える。
――その時。
風が、止んだ。
グラントの目が、わずかに動く。
(今だ)
「撃て!」
次の瞬間。
無数の矢が、霧の中へ放たれる。
「丘を丸裸にしてやる!」
空が、黒く染まった。
雨のように降り注ぐ矢が、
見えぬ戦場すべてを貫く。
それは支援ではない。
戦場そのものを、塗り潰す一撃だった。
青野ヶ原の中央に位置する、標高三百メートルほどの小高い丘である。
なだらかな斜面を持ちながら、その頂からは戦場の全域を見渡すことができた。
王国軍軍師サイラスは、この丘を本陣に定め
将帥旗を掲げた
理由は単純ではない。
ただ見渡せるから――それだけではない。
この丘には、歴史があった。
かつて、聖雄王が再起を図った折、
敗残の兵を率いてこの丘に立ち、戦線を立て直したと伝えられている。
敗北寸前からの逆転。
その起点が、この場所だった。
「縁起担ぎってわけじゃないけどね」
サイラスは、霧に覆われた青野ヶ原を見下ろしながら言う。
「高い場所は、情報が集まる」
目は見えなくとも、音が届く。
風が流れを教える。
そして――
「ここは“流れが変わる場所”だ」
遠くで、矢の放たれる音がした。
グラントの弓隊。
サイラスは、わずかに目を細める。
「……来たね」
その声に、焦りはない。
むしろ、待っていたようだった。
「理由は簡単だよ」
サイラスは、丘の縁に立ったまま言う。
「ここ、湿地帯なんだ」
「見えないだろうけどね」
霧の下に広がる地を、まるで見えているかのように指し示す。
「重い鎧を着たまま突っ込めば、足を取られる」
「転べば終わりだ」
だから、と続ける。
「まともな指揮官なら、通れる道を選ぶ」
指先が、細い筋をなぞる。
「この丘に登るルートは、実質いくつかしかない」
沈黙。
「つまり――」
サイラスは、目を細めた。
「敵は、自分から“そこ”に集まる」
風が、わずかに流れる。
「で、その“そこ”に」
弦の音が重なった。
「矢の雨が降る」
逃げ場は、ない。
矢が、霧の中へ吸い込まれていく。
だが――
戻ってくる気配が、違う。
悲鳴の質。
崩れる音の位置。
グラントの顔色が、変わった。
「……やられた」
低く、吐き捨てる。
「敵は、こちらの侵入経路をすべて読んでいる」
副官が息を呑む。
「矢は――通路に誘い込まれている」
撃ったはずの矢が、
“撃たされている”ことに気づく。
グラントは即座に声を張った。
「盾隊、前へ!」
「散開するな! 密を保て!」
重い盾が前面に並び、
矢を受け止めながら進み出る。
「一歩一歩、橋頭保を確保しろ!」
焦らない。
崩れない。
進める場所を、自分で作る。
「踏み固めろ」
湿地に足を取られぬよう、
前の兵が倒れた場所すら踏み台にして進む。
遅い。
だが――確実だ。
グラントは、霧の奥を見据えた。
(いい罠だ)
(だが、持ちこたえられるかな)
戦場は、再び動き出す。
「……って、向こうの将も思うよね」
サイラスは、霧の向こうを見たまま言った。
「盾を持たせて、矢の雨の中を進ませる」
淡々とした口調。
「でもさ」
わずかに間を置く。
「それ、歩く側はどう思うかな」
ユンナは答えない。
サイラスは続ける。
「頭上からはずっと矢が降ってくる」
「足元はぬかるんでる」
「前は見えない」
指を折るように、一つずつ並べる。
「その状態で、一歩一歩、前に出ろって言われる」
ほんのわずか、口元が歪んだ。
「想像以上に怖いよ」
遠くで、何かが崩れる音。
「でさ」
視線はそのまま。
「そこに、どこからともなく刀兵が出てきたら?」
ユンナが息を呑む。
「もう白兵戦どころじゃないよね」
混乱。
恐怖。
味方同士の衝突。
「それは勇気とはちょっと違う話だと思う」
サイラスは、向こうの山を見ていた。
青野ヶ原北端の丘陵に位置する、標高四百メートルの高地。
北から戦場全体を一望でき、
南東には、かすかに王都の影すら望める。
その頂に、帝国本陣はあった。
ゼイオンは、皇帝の傍らに立ち、眼下を見下ろしている。
「始まりましたな」
「カルヴァにも探らせましたが
軍が王都に抜ける道はほかになさそうです」
「ここで彼らを打ち負かします」
静かな声。
霧に覆われた青野ヶ原では、すでに戦が動いている。
「霧は、味方にも敵にも等しく働きます」
「ですが、霧は、すぐに開けましょう」
報告が次々と届く。
第二陣、展開。
弓隊、発射。
前線、接触。
ゼイオンは一つひとつに目を通し、
間を置かず指示を返す。
「左翼、半刻持たせろ」
「グラントには焦るなと」
「ヴァルドには、それでよいと伝えよ」
すべてが、予定の内にあるかのように。
やがて、視線が一点に止まる。
霧の向こう、わずかに浮かぶ影。
パーパス丘。
「あの丘が――」
わずかに、口元が動く。
「奴の選んだ墓場です」
断言だった。
疑いは、微塵もない。
その言葉は、戦の行く末すら決めているかのようだった。
退却の報告が、次々と届く。
左翼、後退。
中央、混乱。
弓隊、一部壊滅。
グラントは、わずかに顔色を変えた。
(……崩れている)
一瞬、思考が乱れる。
だが――
「落ち着け」
自らに言い聞かせるように、低く呟く。
もう一度。
「落ち着け」
地図に視線を落とす。
霧の下の地形。
進軍路。
湿地。
すべてを、頭の中でなぞり直す。
(どこかに、穴があるはずだ)
指を走らせる。
だが――
「……ダメだ」
静かに、首を振る。
「穴がない」
この盤面は、すでに作られている。
ここで無理に進めば、崩壊する。
グラントは、目を閉じた。
一拍。
そして、決断する。
「本陣のゼイオン殿に報告を」
「前線を下げる」
矢の届かぬ位置まで、戦線を引き直す。
敗北ではない。
――立て直しだ。
グラントは、再び目を開いた。
その判断に、迷いはなかった。