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静かな午後
窓から差し込む柔らかな日差しが、岬くんの部屋のソファを優しく照らしていた。
ふたりで肩を寄せ合うように並んで座り、ノートパソコンの画面を覗き込む。
先ほど観終えた映画の余韻が、だらんと気の抜けたような
それでいて心地よい空気となって部屋を満たしていた。
テーブルには、食べかけのお菓子の袋がいくつも並び、甘い香りが微かに漂う。
マグカップからは、温かいハーブの香りがほのかに残り
湯気はもう消えていたけれど、その温もりだけが指先に伝わってくるようだった。
「なんか、今日ネットで話題になってる面白いやつでも見てみよっか」
岬くんがふと、いつものように気まぐれな口調でそう言って
ブラウザのタブを新しく開いたときだった。
画面の中央、真っ白な検索窓の下に、ごく自然な形で現れた履歴のリスト。
そこに何の気なしに目をやった僕の視界に、いくつもの単語が飛び込んできた───。
⸻
・パニック障害の人が避けた方がいい物質
・パニック障害に効く飲み物
・恋人 パニック障害 接し方
・恋人 パニック障害 デート
・パニック障害 落ち着かせ方
・パニック障害 治し方
⸻
その瞬間、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、胸の奥がきゅっと締めつけられるような気がした。
呼吸が一瞬止まり、心臓が大きく跳ねる。
画面を見つめたまま、信じられない気持ちで、思わず声が出た。
「……え、みさきくん、これって……?」
僕の声に、岬くんは一瞬
はっとしたように目を見開いて、その顔に焦りの色がさっと広がった。
「あっ、いや、これは……その…な、なんでもないよ!」
そう言いながら、急いでタブを閉じようとする岬くんの手が
ほんの少し、震えていたのが僕にははっきりと見えた。
隠そうとするその姿に、嘘をつきたくない
でも知られるのは恥ずかしくてどうしようもない
そんな複雑な岬くんの気持ちがにじんで見えて、逆に僕の胸はぎゅうっと締めつけられた。
それは、痛みというよりも、愛おしさにも似た、温かくて苦しい感情だった。
「……みさきくん、ずっと僕のこと、調べてくれてたんだね」
僕がそう問いかけると、岬くんは視線を泳がせながら、小さく頷いた。
「…ま、まあね」
「……いつも、なんでそんなに僕のことわかるんだろうって思ってた」
僕の言葉が途切れると、部屋には静寂が訪れた。
これまでの日々が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
どんな時も、僕の些細な変化にも気づいて、ちゃんと僕の調子に合わせてくれていた岬くん。
人混みで不安そうな顔をすれば、さりげなく僕の手を引いてくれたり
静かな場所に誘導してくれたり。
「こうやって、僕が少しでも楽に過ごせるように、陰で知ろうとしてくれてたんだね…」
僕はゆっくりと顔を上げ、彼の横顔を見つめた。
何気ない、でも確かな安心をいつも僕に与えてくれていた彼。
さりげなく水筒に入れてくれていた、僕の好きなミントティーの優しい香り。
賑やかな場所を避けて、いつも静かな店を選んでくれていたランチ。
朝の光が優しい方向から射すように、彼の行動のひとつひとつが
僕への深い気遣いに満ちていたのだと、今になってはっきりと理解できた。
「……ありがとう」
ポツリと漏らした僕の言葉に、岬くんが少し驚いたようにこちらを見た。
その瞳には、戸惑いと、そして微かな安堵の色が浮かんでいた。
「僕、すごく嬉しいよ。……ありがとう、岬くん」
岬くんはしばらく黙っていたけれど、やがて照れくさそうに
でもどこかホッとしたように笑って、大きく息を吐いた。
「……なんかさ、かっこ悪くない?全部スマートにできてるって思わせたかったのに、検索履歴でバレるとか……」
恥ずかしそうに頬をかく岬くんの姿が、僕にはたまらなく愛おしかった。
「かっこ悪くないよ!むしろ……一番かっこいいって思った」
僕の声は、小さく震えていた。
熱いものがこみ上げてきて、目がじわっと熱くなる。
こんなにも、自分のことを真剣に、そして深く考えてくれてたんだ──
その事実が、僕の胸をいっぱいにしていた。
それは、今まで感じたことのない、温かくて確かな幸福感だった。
「……俺、朝陽くんの前ではちゃんと“頼れる彼氏”でいたかったんだよ。無理させたくないって思ってたし、朝陽くんが『自分は重い』って思わなくてすむように、全部自然にやれてるように見せたかった」
岬くんの言葉は、僕の心の奥底にあった不安を、まるで優しく撫でるように溶かしていく。
「……隠すつもりはなかったけど…書店でパニック障害の本も買ったけど、こんなに調べてるのかって知られるのが恥ずかしかったんだよね。ほんとに、ただそれだけ」
「……ううん。ありがとう、って気持ちしかないよ」
いつのまにか、ソファの上で僕の隣に置かれていた岬くんの手と、僕の手が自然に触れていた。
その温かさに、僕はそっと指を絡ませ
ぎゅっと握り返す。
言葉はもう必要なかった。
この温もりだけで、全てが伝わる気がした。
「だからこれからも……いろいろ教えてほしい。もっと知っていきたいんだ、朝陽くんのこと」
「うん、教える…けど、僕がパニック障害持ってるせいで、テーマパークとか、人が多いところあんまり長居できないし」
岬くんの言葉に、僕はずっと抱えていた小さな不安を打ち明けた。
「僕、みさきくんのお荷物みたいになってないといいなって、思ってたんだけど……こんなに優しく受け入れてくれるの、気遣ってくれるの、みさきくんぐらいだよ」
「もう、そんなふうに思ってたの?俺が朝陽くんのこと荷物なんて思うわけないでしょ?」
岬くんの指先がそっと僕の髪を撫でる。
その触れ方はどこまでもやさしくて、僕の心の奥底に染み込んでいた不安や寂しさが
まるで春の雪のようにゆっくりと溶けていくようだった。
「俺は朝陽くんの病気、欠点として見たことないよ」
「えっ」
岬くんは、僕の頬をそっと見つめてから、ふわりと微笑んだ。
その瞳の奥には、揺るぎない愛情と理解が宿っていた。
「それも含めて“朝陽くん”だから」
「全部知りたいし、ちゃんと知ったうえで、一緒にいたいって思ってる。無理しなくていいし、できないことがあるなら、他の方法を探せばいいだけ」
僕の目をまっすぐに見つめて、岬くんは静かに
そして力強く続けた。
その言葉一つ一つが、僕の心に深く刻み込まれていく。
「ほら……朝陽くんが人混みでしんどそうにしてるとき、ぎゅって袖掴んでくれたり、声かけてくれたりするじゃん?あれ、正直ちょっと嬉しいんだよね」
「えっ、でもあれ、助け求めてるだけで……」
僕が戸惑うと、岬くんはふっと笑った。
「そう。でも“俺のこと信頼してくれてる”ってことじゃん。それが、俺はすごく嬉しい。守らせてくれるのって、信じてくれてる証拠だと思うから」
「…みさきくん……」
僕の喉から絞り出すような声に、岬くんはさらに優しく微笑んだ。
「朝陽くんがそばにいてくれるだけで、俺は嬉しいんだよ。だから──」
岬くんは僕の手を、そっと自分の胸元に引き寄せる。
彼の心臓の鼓動が、手のひらを通して微かに伝わってくるようだった。
「これからも、困ったときは遠慮せずに頼って?俺の隣にいるのがしんどくならないように、ちゃんと考えるから。……ね?」
その言葉に、胸がじわっと熱くなる。
目頭がさらに熱くなり、視界が滲んだ。
言葉にならない感情が溢れそうで、僕はただ、うなずくことしかできなかった。
岬の指が、僕の指の間に自然に絡まっていく。
彼の優しいぬくもりが、ゆっくりと、僕の不安を溶かしていくようだった。