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白山小梅
12
#借金
◇ ◇ ◇ ◇
先ほど終わった遺体の解剖について、細かな情報が書かれたホワイトボードの内容を書類に記入していく。静かな部屋の中に響くのはペンが滑る音だけで、この時間が何よりも好きだった。
二十四歳、女性、職業は飲食店従業員、死亡場所は自宅マンションのリビング、死亡時刻は昨夜の深夜一時から三時の間で、死因は刺されたことによる出血性ショック死。栗色の髪に、どこか幼さを感じる顔立ちが、どことなく七香に雰囲気が似ているような気がして、心臓が大きな音を立てた。
最初に遺体が運ばれてきた時、一瞬七香のように見えて背筋が凍ったが、別人とわかり安堵した。今朝も会っているのだから、彼女のわけはない。それでも想像しただけでぞっとした。
その時背後に人の気配を感じて振り返ると、白衣を着た男性が立っていた。
「菱川くん、お疲れ様」
「|倉持《くらもち》教授、お疲れ様です」
短い黒髪に、銀縁メガネ。優しそうに微笑む姿は、昔から何も変わっていない。
「ご遺体が早く見つかって良かったけど……犯人に繋がる証拠は少ないみたいだよ」
「胃の内容物も鑑定に回しておきました。第一発見者は職場の方だったそうですが、早く捕まるといいですね」
穏やかな倉持とは対照的に、どこか冷たい空気感の昴は、医学部で少し浮いていた。しかし倉持教授と数少ない友人のおかげで、なんとか卒業出来たのだ。そして今回、日本に戻るきっかけをくれたのも倉持だった。
「それにしても、君が戻って来てくれて嬉しいよ。もう君は日本には戻らない気がしていたからね」
「……そうですね、僕もそんな気持ちでアメリカに行きましたから」
あの頃の昴には、日本を飛び出したい気持ちでいっぱいだった。早紀に『私以外とも関係を持てばいいのに』と言われたことで未来に希望を持てなくなり、意気消沈した。
『早紀さんは、もう俺との関係はいらないってこと?』
『そんなわけないじゃない。あなたのことは大切よ。でも私一人っていうのは、少し重いのよ。もう少し自由で気楽な関係でも良いと思ったの』
それからは自暴自棄になり、わざと誘いが来そうな店に入り浸っては、欲に流されるように女性と体の関係を結んだ。後腐れなく別れられるよう、名前も聞かずに。
それでも心は空虚になるだけで、満たされることはなかった。むしろ早紀さんだけを想っている時の方が満たされる。でもそれは彼女が望むことではないとわかっていたから、それならばいっそのこと、日本を飛び出して早紀とも距離を置こうと考えたのだ。
しかしその頃、早紀も海外への事業展開を考えていたらしく、仕事のついでに会いに来てくれることも増え、こういう形もありだと考え始めていた。
そしてたまたま日本に帰国をした時、七香と再会をしたのだ。彼女と話していると、早紀との時間では感じることのなかった楽しさと安心感を覚える。不思議と忘れかけていた感覚が戻ってくるような感じがした。
時々自分という人間がこの世に存在しないような、誰の目にも映っていないのではと思う瞬間があり、そういう時は自分自身にも生きるための熱が入らず、存在意義を見つけられずにいた。
承認欲求は別に強くないし、誰かに求められたいとも思ったことはない。でも満足のいく一日を過ごせたこともなかった。それは早紀に対しても同じで、彼女と過ごした後は空虚感に襲われたのだ。
それが七香を抱いたあの日、初めて満たされた気がした。どうしようもないほどのクズである自分を優しく包み込んでくれる温かさ、初めて会った時から変わらない態度、あれほどまでの安心感を得たことは今まで一度もなかった。
まるで精神安定剤みたいだーーこのままずっと彼女のそばにいたいと思ったが、そんなわけにはいかないことはわかっている。七香も一人の人間で、自分の思い通りになんていかない。
でももし別の誰かが彼女の隣に立つ権利を得てしまったら、俺はまた空虚な世界に一人きりになるだろうーーだから七香を繋ぎ止めておくために、メッセージを欠かさなかった。日本に早く帰れるように勉強に取り組んだ。
これは自分勝手な独りよがり。彼女を縛り付けることになるとわかっていても、自分自身のために手放せないと思った。
「あの頃はまさか法医学の道に進むとは思わなかったけどね。君が大学院で書いた論文を読んで驚いたよ。だから是非戻って来てほしいと思っていたんだ。それが叶って、本当に良かったよ」
それが事実かどうかはわからないが、尊敬する恩師に声をかけてもらえたことが何よりも嬉しかった。
「ご両親は大丈夫なのかい? 確か大きな病院を経営されていたよね」
「次期院長は兄ですから。それに約束通り医師免許は取りましたからね。あとは好きにして良いと言われています。いつかは連れ戻されるかもしれませんが」
「その時は言ってくれよ。君のお父さんに私が直談判するからね」
倉持が胸を叩いたのを見て、昴は思わず吹き出してしまう。
「あはは。ありがとうございます。それは頼もしいですね」
すると倉持は驚いたように目を見開いてから、昴に向かって微笑んだ。
「君は昔よりも笑うようになったね。アメリカが性に合っていたのかな」
「さぁどうですかね……」
研修が多すぎて辛かった記憶もあるが、余計なことを考える暇はなく、昴にとっては充実した時間を過ごせたことは確かだった。
「あっ、教授、そろそろ講義の準備をした方がいいんじゃないですか?」
「あぁ、そうだね。じゃあ後はよろしくお願いするよ」
「わかりました」
倉持が部屋からいなくなり、再び静寂が戻って来る。昔は部屋の白い色味が寂しく感じたが、今は穏やかな色に見えた。
「今日の夕飯はなんだろうな……」
ポツリと呟き、慌ててあたりに人がいないか確認する。こんな恥ずかしいことを口にするなんてーーそう思いながらも、帰ることが楽しみになっている自分に気付いた。