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破壊的な景色が広がっている。家屋の壁が崩れ、都市を囲む城壁までもが倒れている。鎚で丹念に叩きつけられたかのように石畳が粉々に破砕し、憎悪をぶつけられたかのように石像は元の形が分からないほど破壊されていた。もはや家具に支えられた屋根だけ、という有様の建物まであった。しかし破壊は過去にあり、土埃一つ立っていない。耳鳴りだけが聞こえる静寂の街には新たに鼻を刺す腐臭が満ち、渦巻いている。
都市国家臍。沿岸部から遠く離れた平野の真ん中にある孤独な山を中心に築かれた街だった。が、今や街は死に、その魂は地上を離れ、名のみ伝わる古代都市の輪に加わった。
街の亡骸を這い進む者がいる。大きさは人間と同じくらいだが、襤褸布でできた蜥蜴のような形姿だ。砂埃に塗れるのも気にせず、しかし飛び交う羽虫が襤褸布にたかる度、襤褸布は身震いして羽虫を追い払い、そうして彷徨っている。
「誰か? 誰かいませんか?」
襤褸布蜥蜴は家屋だったものに近づいて呼びかけるが、答えるのは羽虫の苛立たし気な唸りだけだった。
襤褸布蜥蜴の目の前に、支えを失って倒れた木の扉の脇に骸があった。男か女かも分からない干乾びた老人だ。すぐ近くには山羊も斃れている。長い時間を経ているが、長くても数か月というところだ。
襤褸布蜥蜴は知る限りの祈りの言葉で冥福を祈る。
「だけどここにはまた別の祈りの言葉があるはずだよね。なぜこの人は捨て置かれているの? 神様。私はここに導かれたのだろうか。だとすれば一体誰を葬るために?」
襤褸布蜥蜴は耳を澄ますが祈り声も山羊の鳴き声も聞こえない。ただ死を嘆く風の音と魂の震えに似た羽虫の羽音だけだ。
襤褸布蜥蜴は老人に詫び、すぐ近くに倒れていた杖を借りる。杖を頼んで立ち上がると一応は人の形を成していた。
「誰かいませんか? 誰か?」
襤褸布は呼びかけながら練り歩く。しかし人々の魂もまた地上から立ち去り、奇妙な姿の旅人に答える者はいない。
「何で皆死んでるの? 戦でも起きたの? でもそんな話は聞いていないし、仮に戦が起きたのだとしても生き残りがいないなんてことある?」
市民は襤褸布蜥蜴と同様に地面に伏す者ばかりだ。しかし誰も身動き一つ取らず、干乾びている。
「これでは葬ろうにもきりがない。ねえ、誰か生きている人はいないの? 秘教の教えは失われてしまったの?」
老人ばかりではない。男も女も大人も子供も、赤子でさえも。息絶えている。
「人の目を避けてきた私には死者の土地がお似合いだって?」
襤褸布蜥蜴は誰に見咎められることもなく、崩れ行く街を這い進む。
ふと、はためく襤褸布のどこにも耳などないが、鈴の音が聞こえる。まだずっと遠くにあるが、いくつもの鈴が風に激しく揺らされ、怪しい訪問者のもとまで届いていた。
その鈴の音は街の中心である山から降り注いでいる。襤褸布蜥蜴は活力を漲らせ、鈴を求めて這い進む。
まるで山が襤褸布蜥蜴を拒むように風が強くなる。大きくはためくが吹き飛ばされはしない。杖をしっかりとつかんで地面を突く。またその襤褸布でできた足の先は捻じれていて爪のようになっており、襤褸布蜥蜴は地面を掴み、地面に食い込ませ、山にしがみつく。
山道を越え、城壁都市ノーモンとは趣の違う区域にたどり着く。石畳が敷かれた立派な参道が伸び、階段が並び、断崖に縋りつくような橋がかけられていた。しかしここでも長い年月を経て風化したかのように、石が壊れ、崩れている。あちらこちらで揺れる銀の鈴は落下防止の木製の欄干に括り付けられていた。訪問者を追い払うように鳴り響いている。
ここは誰も知らぬ神秘を求める修行者たちの石の寺社だ。秘教を実践する僧侶たちの聖地だ。
襤褸布は半日かけて石造りの寺社を巡り、生き残りを探すが人と山羊の骸に巡り合うばかりだった。
刃傷沙汰ではない。疫病か何かが流行ったのだろう。神に祈りを捧げ、あるいは下山して助けを呼びに行った者もいるかもしれないが、この高地までやってくる医者はいない。修行僧たちであればある程度は医療の知識があるかもしれないが、どれも役には立たなかった。そうして全滅したという訳だ。
しかし恐るべき疫病の進行がゆったりとしたものであれば、ともすればまだ生きている者はいるかもしれない。
襤褸布は布の足と堅い杖で廃れた山寺の奥へ奥へと進む。鈴の数はさらに増え、銀の音色が他の音を追い払い、もはや鈴を揺らす風の音すら聞こえない。襤褸布蜥蜴の心が少しばかり強張る。よくよく見ると銀の鈴は山羊の瞳のような模様が燻しによって描かれている。秘教において神々の視線と声を意味しており、どう感じるかは信仰者次第なのだ。
奥へ奥へと進むほど、寺社は虹で染めたように色彩豊かになる。太い柱や冷たい梁が縦横、そして斜めに伸びる様は往古の堅固さを示しているが今や崩壊を待つばかりだ。滅び去った修行者たちの積年の信仰を体現した建築が山に沿って伸びていたのだろうが、もはや山に還りつつある。ただ木製の建材や家具はそのままにあった。
襤褸布はその光景に首をひねる。石は数千年の間ずっと強風に曝されていたかのように風化しているが、それ以外は健在だった。麓の街も同じあり様だった。
秘教の修行者たちの骸とけたたましい鈴の音、聞こえるはずのない祈りの言葉、心の内に渦巻く疑念を後に置いて襤褸布は奥の院へと進み、到る。
その広間は石材が少ないためにまだ保たれている。秘めたる教えを描いた壁画に囲まれて、奥に鎮座している、銀地に美麗多彩な刺繍の僧衣を纏った老人はすでにこと切れている。しかしすぐそばに寄り添うように倒れ伏す若い僧はまだ息があった。
襤褸布は僧の元へ駆け寄り、干乾びつつある顔を覗き込む。
「生きてるね。何か欲しいものはある? あいにく医療の知識はないからできることは限られてる。医者を連れてくるか、医者へ連れて行くか、もしくは――」
「駄目だ。石をも蝕む知られざる病だ。感染し、干乾びて死に至る。ここで死ななくてはならない、まことに残念ながら。ああ、大丈夫。まだ数日は持つ見立てだ」
僧は咳を立てつつゆっくりと上体を起こす。眼はまだ明いているようで、しかし思うところを映さない瞳が襤褸布を見つめている。
「悪いものではなさそうだが――」
「本当!? 初めて言われたよ。まあ、仮の姿だからどう思われたって良いけど。君もほとんど干物みたいだけど、水でも持ってこようか?」
「いや、良い。水こそが障るんだ。皆、水を欲し、多くが溺れ死んだ。誘惑に耐えきれたところでいずれ干乾びて死ぬのだがな。最早この地に拙僧の他に逝き残りはおるまい」
そう言って若い僧は隣に倒れる老人に目を遣る。
「うん。私も見かけてない」そう言って襤褸布は心の中で来た道を振り返り、それとは関係なく鈴の音がここまで届いていないことに気づく。「それに下の街にもね」
「何と。誰も出入りしておらぬはずだが、外から運ばれてきたか、あるいは――」
「山羊が持ち出したのかもね。山羊も死んでた。内からか外からかは分からないけど」
「そうか。全滅か。呆気ないものだ。君は」僧は襤褸布に中身が無いことに気づく。「感染などしないのだろうが、いったい死にゆく土地に何をしに来た?」
「別に死んでると知って来たわけじゃないけど。宗教者の土地を巡ってるんだ。教えを聞き比べたくてね。死にそうなところ申し訳ないけど、できれば――」
「生憎だが、僧正はお亡くなりになった。私は修業の身で教えられない」
襤褸布は力が抜けたようにその場で背を低める。
「知ってることだけで良いよ。何にも知らないわけじゃないでしょ?」
「未熟者の教えなど授かるくらいならば、知らない方がましというものだ」
「それは私が判断すればいいことだよ」
「悪いが――」
「じゃあ取引しよう」襤褸布は僧が言葉を返さない内に言葉を足す。「何でも言って。何にも持ってないけど時間だけは有り余ってるんだ」
「死にゆく私に望みなど。ただ、せめて人々を弔ってやりたかったと思うばかりだ。しかし最早指先を動かすのも億劫だ」
「弔いか。うん。大切なことだよね。どんな信仰も、神の教えも疎かにしたりはしない。うーん。でも、国を丸ごと、君が死ぬまでにか……。できなくはないけど……。いや、決めた。それで、ここではどういう風に葬るの?」
「……火葬の後、骨を墓に埋める。何を考えている? 止めはしないがしばらくは誰も寄り付かぬ土地になる。一人でやるとなると何年かかることか」
襤褸布は少し思案気に若い僧と老いて死んだ僧を見比べるように見つめる。
「私が何者か、知らないんだよね?」
「うん? うむ。知らぬ。何か気に障ったか?」
「ううん」襤褸布は努めて明るく話す。「君の願いを果たそう。私の名は葬る者。生まれた由も知らないけれど、こと死者を葬る魔術に長けている。君の望みは偶然かもしれないけれど、ここに至ってことがことだ。神様のお導きなのかもしれない」
若い僧はできる限り背筋を伸ばし、首を垂れる。「拙僧の名は年輪。名付け親よりいただいた名は返し、僧正より賜った実り名だ。しかし街の人口を知っているのか?」
「シュドね。よろしく。人数なんて関係ないよ。都市国家ノーモンを丸ごと火葬して埋葬すればいい。その方が速いし、言っちゃなんだけど君が死ぬ前に終わらせて、教えを授かりたいからね」とペジケラは臆面もなく答える。
「そのような魔術が……。私を動かす魔術も使えるのか?」
「それは使えるというか何というか」襤褸布は若い僧の手を取って持ち上げる。
「や、やめてくれ。強い痛みがあるのだ」
「それに関しては我慢してもらうしかないね」
襤褸布を纏ったシュドが一人山道を降りている。頬には雲形の札が貼られており、札には蝋燭を持った鶏の戯画が描かれている。
杖にしがみつき、歯を食いしばり、涎を垂らして痛みに堪えている。
「最期の最期にこれほどの痛みに耐えねばならんとは」とシュドが心の内で呻くと、
「ごめんね。体は動かせるけど痛みは防げないんだ」とペジケラがシュドの心の隣で答える。「でもシュドが動ける内にここに来れて良かったよ。良くはないだろうけど」
「ああ、良い、という気持ちにはなれん」とシュドは同意する。「それで? 其方は何用で参ったのだ?」
ペジケラとシュドは一つの体で山道を下りながら、苛む痛みと降り積もる悲しみを掃き捨てるために会話を重ねる。
「んー? まあ、自分を知るためかな。昔会った魔術師に言われたんだ。お前のような魔法は見たことない。神の御業に違いないってね。だからまあ、他にしたいこともないし、できることは不吉な力だし、何もしないのもなんだし、神殿や寺社を巡ろうかなってね。もしかしたら創造主に出会えるかもしれないと思って。だからここに来たのはある意味偶然である意味必然だね。でも生きている間に君に出会えたのは良い偶然だよ。神に仕える寛大な神官様だからといって、修業に勤しむ不屈の御坊様だからといって、誰もが私を歓迎したわけではないからね」
山に響く鈴の音が一層強まるが心の内のシュドの声はペジケラによく聞こえた。
「うむ。そう思ってもらえたことは有り難いが、買い被りかもしれん。このような状況でなければ、あるいは……」
「追い払ったり?」
「いや、そうありたくはないが。拙僧も修業の身、未熟な愚僧だ。様々な観念に囚われている」
「そういえば、ここで死ななくてはならないと言っていたね。それに、真に残念ながら、とも」
シュドは心の内でも呻く。痛みが魂をも弱らせているのだ。
「いざ死が迫れば、思い返すのは故郷ばかりだ。元は南港町市の出身でな。遊び惚けて堕落しきったために父にこの寺社へ放り込まれた馬鹿者だ。初めは信心など欠片も無く、いつか故郷に逃げ帰るつもりだったが、僧正様に諭され、いつの間にやら心を改め、修業に勤しんでいた。しかしこうして病に侵され、己の心身がいくらも強くなっていないことを思い知らされた。母の声が、あるいは父の顔さえ恋しいよ。済まぬが、ペジケラ殿、もう一つ頼んでも良いだろうか」
城壁都市ノーモンを構成する堅固だった石材も今や砂に還り、一部の人々は埋もれつつある。シュドは干乾びた足と杖を何とか動かし、病に穿たれた城壁を越え、街道をたどって街を離れる。
シュドは倒れ込み、何とか札を襤褸布に貼り付けた。すると再びペジケラは襤褸布の体で顕れる。
「さて、国を丸ごととなると私も本気にならなくてはならない。嫌だけど」
見る見るうちにペジケラは捩じれた長い黒髪の娘の姿に変わる。しかし藻に染めたような緑の肌は露わで、乳房も臍も背後にあり、胴が前後逆さまになっている。足は三本の鶏の脚、右手には火のついた蝋燭。左手には火のついていない蝋燭。また二つの眼窩には火花を散らす炎が揺らめいていた。
シュドがペジケラを見つめている。ペジケラは照れ臭そうに微笑む。
「醜いでしょ。神様が創ったとは思えない」
「少なくとも我が神の教えでは万物を創り給うたのは神だ。しかし神は其方の体を醜く創ったのではない。其方の体を醜いと感じる心を創ったのだ。だから我々は神と向き合うため、最も身近な被造物である己の心と向き合うのだ。その向こうに神は御座すと信じて」
ペジケラはその言葉を検討するように空を見上げ、答える。「正直なところ色々な人に色々な神様の色々な考えを聞いてきたから、どれを信じていいものか分かんないね。でも君の話は気に入ったよ。今までで一番神様を身近に感じたからさ。さあ、聞きたいことは沢山ある。始めるよ」
「頼む」とシュドが力なく言った。
ペジケラは身動き一つせず、呪文の一つも唱えることなく己の本質的な魔術を行使する。
城壁が囲う孤独な山の至る所に横臥する人々の一人一人が、爆ぜる音の聞こえない不思議な炎に包まれる。その山のどこにいても、もはや石の家屋の風化した砂の中に埋もれた者でも、水の中に沈んだ者さえも燃え上がる。火花は次々に燃え移り、やがて街と山が丸ごと炎上する。そして炎は白い煙となって立ち昇った。煙は病に苦しんだ魂を労わるようにゆっくりと天へと連れて行く。そして、病の苦しみから解放された人々の肉体が全て骨になると、孤山が芯から崩れ、大量の土が人も国も病も全て飲み込んで、その体のやって来た場所へと連れ帰った。こうして世捨て人も世俗人も全て火葬に付されたのち埋葬されたのだった。
「さあ、まずは秘教における冥福の祈り方でも教えてもらうかな?」襤褸布に戻ったペジケラはシュドに尋ねる。
しかし答える言葉はなかった。蹲り、背を曲げて丸めた肉体の内にはもう何者もいない。
「間に合わなかったか。だとすれば神様は一体何をお望みなんだろう?」
ペジケラはシュドの遺体に札を貼り、襤褸布を纏ってすっと立ち上がる。
「ともかく君の最後の頼みだ。ミディロ市はどっちかな?」