テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
22
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
旅行から戻って数ヶ月――。
私たちの日常は、静かに、でも確実に変わっていた。朝、目覚めると近江龍彦からの「おはよう」のメッセージが届いている。シンプルな言葉なのに、胸が温かくなる。私は赤いネイルで返事を打ちながら、隣のベッドでまだ眠る雪絵の寝顔を見る。
姉の表情は、以前より柔らかくなった。棘が、少しずつ抜け落ちているようだった。
ペントハウスでの朝食は、3人ですることが増えた。近江が早起きしてコーヒーを淹れ、私がトーストを焼き、雪絵がオムレツを焼く。
テーブルの上にはいつも、白い薔薇と赤い薔薇の小さな花瓶が置かれている。
近江が「これ、紅子と雪絵さんに似合うと思って」と持ってきてくれたものだ。雪絵は最初、近江の存在にまだ警戒していた。会話の端々で、鋭い質問を投げかけることもあった。でも、近江はいつも真っ直ぐに答え、決して逃げなかった。
ある日、雪絵がぽつりと漏らした。「私……男の人、信じられなかったのに」近江は静かに聞き、ただ頷いた。
それが、雪絵の心を溶かした。今、雪絵のSNSにも変化が起きている。以前はクールで無機質な白のコーディネートばかりだったのに、最近は淡いピンクや柔らかいベージュを着るようになった。フォロワーからは「YUKIEさん、優しくなった?」とコメントが来る。姉はそれを見て、照れくさそうに笑う。
私の投稿は、相変わらず近江との日々で彩られている。カフェで並んで座る写真、夜景をバックにしたシルエット、彼が私の髪に触れる瞬間を捉えたショット。
キャプションはいつもシンプルに――「今日も、幸せ」雪絵は時折、私の投稿にコメントする。
『綺麗だね、紅子』
『幸せだね』
ある休日の午後、私たちは3人でリビングにいた。
近江がソファで本を読み、私は彼の膝に頭を預け、雪絵は窓辺で白い薔薇に水をやる。静かな時間が流れる。雪絵がふと振り返り、言った。
「紅子……私、初めて思ったの。男の人を、憎まなくてもいいのかなって」
私は近江の手を握り、姉に微笑んだ。
「うん。私たち、もう棘を立てなくても、守られるようになった」
近江が本を閉じ、私たちを見て優しく笑った。
「これからも、ずっと一緒にいよう。家族みたいに」
雪絵が小さく頷いた。その瞳に、涙が光ったのを、私は見逃さなかった。穏やかな陽光に揺れるレースのカーテン。私と雪絵の時間は幸せに満たされていた。
――裏切りは、もう来ない。
私たちは、初めて信じることを選び、初めて、幸せを受け入れた。窓の外、街は穏やかに輝いていた。
けれどその涙がふたたび棘となり、牙を剥くにはそう時間はかからなかった。