テラーノベル
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ある時代。
ある場所。
そこは、生まれた家ひとつで人の一生が決まるような世界だった。
金を持つ者は、暖かな家で腹を満たし。
持たない者は、今日を生きるために何かを捨てる。
そんな時代。
勇斗は、まだ少年と呼ばれる年齢だった。
両親の顔は、もうよく覚えていない。
気づいた頃には一人だった。
家もない。
金もない。
明日の食事もない。
だから、生きるために盗みを覚えた。
最初は怖かった。
店先に並べられた果物を一つ取っただけで、心臓が壊れそうなほど鳴った。
悪いことだと知っていたから。
けれど、何も食べられないまま迎える夜のほうが、もっと怖かった。
眠れば空腹を忘れられる。
そう思って目を閉じても、腹の痛みで眠れない。
次の日には、勇斗はまた盗んだ。
そうして何度も繰り返しているうちに。
逃げることだけは、誰よりも上手くなった。
「待て!」
背後から怒鳴り声が響く。
勇斗は振り返らない。
腕の中には、たった今盗んだパンが一つ。
「このガキ!」
大人の足音が迫ってくる。
それでも勇斗は走った。
捕まるものか。
細い路地へ飛び込み、積まれていた木箱を飛び越える。
右へ曲がり。
次は左。
この街なら、どこへ入れば大人が追ってこられないのか全部知っている。
身体の大きな大人たちには通れない隙間を抜け、そのまま大通りへ飛び出した。
「……っ」
危うく人にぶつかりそうになり、身体を捻る。
それでも止まらない。
まだ後ろから声が聞こえていた。
「待ちやがれ!」
無理だよ。
勇斗は心の中で呟いた。
今日の飯なんだから。
返せるわけないだろ。
パンを胸に抱き、さらに速度を上げる。
空腹を満たす。
今の勇斗にとって、それ以上に大切なことなんてなかった。
盗みは悪い。
そんなことくらい知っている。
けれど。
悪いことをしなければ生きられない人間に、正しく生きろと言うのなら。
まず、腹いっぱい食わせてくれ。
そう思っていた。
以前。
街の中央で、身なりのいい男が演説しているのを聞いたことがある。
人は皆、神のもとに平等なのだと。
笑いそうになった。
だったら。
あそこで腹がはち切れそうなほど太っている男と。
三日まともに食べていない自分の。
何が平等なんだ。
神様が本当にそんなことを言ったのなら。
ずいぶん適当な神様だと思う。
路地を抜けたところで、ようやく後ろから声が聞こえなくなった。
撒いた。
勇斗は足を緩めると、荒くなった息を整えた。
今日も生きられる。
それだけでよかった。
パンを少しちぎろうとして。
勇斗の手が止まった。
大通りの向こう。
人だかりができていた。
「……?」
別に珍しいことではない。
商人の馬車でも来たのだろう。
普段なら気にも留めない。
それなのに。
なぜか、その日は目を向けた。
数人の男に囲まれ、若い人間たちが歩かされている。
勇斗はすぐに分かった。
売られてきた人間だ。
この街では珍しくない。
借金の代わりに売られる者。
家族を食わせるため、自ら身を売る者。
遠い土地から連れてこられる者。
どれも。
勇斗には関係のない話だった。
可哀想だと思ったところで何もできない。
自分一人、生きていくので精一杯なのだから。
だから勇斗は。
手に持っていたパンへ視線を戻した。
そのときだった。
風が吹いた。
長い列の中。
一人の少年の髪が揺れる。
勇斗は顔を上げた。
「……」
綺麗な人だと思った。
勇斗と同じくらいの、まだ少年と呼べる年頃だった。
華奢な身体。
白い肌。
俯いた顔。
両手には、逃げられないよう縄が巻かれている。
他の人間と同じ。
ただ、それだけのはずだった。
なのに。
勇斗はなぜか、その少年から目を離せなかった。
俯いていた少年が、ゆっくり顔を上げる。
その瞬間。
目が合った。
「……っ」
勇斗は息を止めた。
少年は泣いていた。
声を上げているわけではない。
助けてくれと叫んでいるわけでもない。
ただ。
頬に一筋だけ。
涙が流れていた。
それでも歩いている。
男に腕を引かれれば、逆らわずに前へ進む。
その姿を見ていると。
なぜか胸の奥がざわついた。
知らない奴だ。
勇斗は自分に言い聞かせる。
関係ない。
この街には、ああいう人間なんていくらでもいる。
自分に助けられるはずもない。
そもそも。
自分だって、盗んだパン一つで今日を生きようとしている人間だ。
それなのに。
少年が勇斗を見ていた。
助けを求めるわけでもなく。
ただ静かに。
勇斗を。
「……なんだよ」
思わず小さく呟いた。
やがて。
男に腕を引かれ、少年が前を向く。
遠ざかっていく。
勇斗はその背中を見つめていた。
行けよ。
頭ではそう思う。
せっかく追手を撒いた。
早くいつもの場所へ戻って、パンを食べればいい。
腹が減っている。
それなのに。
足が動かなかった。
「……くそ」
勇斗はパンを服の中へ押し込んだ。
そして。
一定の距離を空けて、行列のあとを歩き始めた。
自分でも理由は分からない。
助けるつもりなんてなかった。
そんな力もない。
ただ。
どこへ連れていかれるのか。
それだけ。
それだけ見たら帰ろうと思った。
行列は街の中心を抜ける。
勇斗が普段近づくことのない区域へ入っていった。
道が綺麗になる。
建物が大きくなる。
行き交う人間の服まで変わっていく。
同じ街なのに。
勇斗の暮らす場所とは、まるで別の国だった。
やがて。
行列が一軒の屋敷の前で止まった。
「……」
高い塀に囲まれた、大きな屋敷。
勇斗は少し離れた建物の陰から見ていた。
門が開く。
一人。
また一人。
中へ入っていく。
あの少年も。
門をくぐる直前。
一度だけ。
少年が振り返った。
勇斗のいる場所が見えたわけではないと思う。
それでも。
勇斗には。
もう一度、目が合ったような気がした。
門が閉まる。
少年の姿が消えた。
「……」
勇斗はしばらくそこに立っていた。
やがて腹が鳴る。
その音で。
ようやく我に返った。
「何やってんだ、俺」
服の中からパンを取り出す。
少し潰れていた。
勇斗はそれを一口かじる。
美味い。
腹が減っていたのだから、当たり前だった。
いつもなら。
盗んだパンを食べられるだけで幸せだった。
なのに。
今日は。
さっき見た涙が、何度も頭に浮かんだ。
「……知らねえよ」
誰に言うでもなく呟く。
名前も知らない。
どこから来たのかも知らない。
これからどうなるのかも。
勇斗には関係ない。
そう。
知らない奴だった。
だから、本当なら。
それで終わるはずだった。
#ご本人様には関係ありません
コメント
1件
読ませていただきました……。冒頭の「生まれた家で一生が決まる」という一文から、もうこの世界の空気がひしひしと伝わってきて、胸が締めつけられました。勇斗の盗みの理由が「腹いっぱい食わせてくれ」という等身大の叫びで、決して美化されていないところに、リアリティと切なさがありました。そしてラスト、売られていく少年と目が合う場面……あの一瞬の静けさの中で、勇斗の心が動く予感がして、続きがすごく気になります。nananaさん、繊細で美しい世界観をありがとうございます。次話も楽しみにしています🌷