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食事を終えてキッチンを出る。阿部ちゃんの足元から発せられるシャラシャラと鎖が鳴る音にも、昨日の今日ですっかり耳が慣れてしまった。
部屋の様子は昨日と大きく変わっていない。けれど何となく、本当にただそういう気がするというだけではあるけど、何かが違っているのではないか、と思う。
確証は無いが、おれたちは恐らく脱出ゲームのような状況に置かれている。ヒントを集め、謎を解き、ここから出なくてはならない。
――情報を集めていくうちに、最初はよくわからなかったものの意味がわかってきたり、一見関係ないように見えるもの同士が繋がってきて、パターンや方向性が見えてくるんだよ。それから、一度見たところも後からもう一回見ると最初は気づかなかったことに気づいたり、ヒントが増えていることがあったりするから。あれ?と思うことがあったら、その違和感を大事にして。
謎解きや脱出ゲームが得意な阿部ちゃんに、どうしてそんなにすぐ答えがわかるのか聞いてみたことがある。「一番は慣れだけど」という枕詞に続けて、彼はそう教えてくれた。
つまり、昨日調べたところを今日もう一度調べ直すこと。そして集めた情報を吟味して、そこからヒントを見つけること。そうすれば、何かしら光が見えてくるかもしれない。
やるべきことがはっきりしてきて、俄然やる気が出てきた。
と、隣の阿部ちゃんの頭が小さく傾いで、おれよりも一回り小さな手がゆっくりと目をこする。
「阿部ちゃん、眠いの?」
「うん……」
おれの問いかけに答える声も眠たげだ。昨日もそうだったけど、今の彼はお腹が満たされると眠くなってしまうのだろうか。
阿部ちゃんの手を引いて、歩調を合わせながらベッドに戻ると、枕元にさっきまでは無かったはずのメッセージカードがあった。
『ここは君の愛する 箱庭』
カードからはかすかにお酒のにおいがする。
おれの愛する箱庭って何だ、と不思議に思い、それから不自然に空いた『愛する』と『箱庭』のあいだの空白に目を留めた。ひょっとすると、この空白には何か言葉が入るのだろうか。
阿部ちゃんが教えてくれたことに従えば、そのヒントもきっとどこかにあるはずだ。
うとうとし始めている阿部ちゃんをベッドに寝かせると、部屋の中を一通り見回して、まずは扉へ向かった。
相変わらずドアノブは無く、昨日と変わったことは特に何も無い。
と、ふいに、どこかから小さな音が聞こえてきた。ともすると気のせいなのかと思ってしまいかねない、小さな小さな音。
耳をそばだてると、それはどうやら鏡のほうから聞こえているようだ。鏡の前まで近づいて、さらに耳を傾ける。
トン、と鏡を叩く音と、キー、と鏡を引っかく音。
一定のリズムで、その二つが繰り返される。順番はバラバラなのか、規則性があるのかわからない。けれど、幽霊のようなかすかな、聞き逃しかねない音が、繰り返し繰り返し延々と聞こえてくる。
それはひどく不可解で奇妙なものだった。
背筋に冷たいものが走る。怪奇現象? それとも意味のある何か?
試しに鏡をノックしてみた。けれど反応はなく、小さな音の繰り返しは止まない。
しかたなく、それ以上考えるのはやめていったん鏡から離れた。そうして距離を取ると、気にしようとしなければ案外音は気にならないのだった。
次に本棚を調べることにした。昨日よりも本の数が増えている気がする。よくよく見てみると、昨日は無かったはずの本が二冊あった。
一冊は『モールス信号の本』。中を見てみると、子ども向けのモールス信号の本で、五十音に対応したものと数字に対応したものが書かれている。そして、数字に対応したものに大きく赤で丸がつけられている。これも何か意味があるのだろうけど、今のところパッと思い当たるものは無い。
そういえば、阿部ちゃんはブログでモールス信号を使っていたことがある。しかもモールス信号そのままではなく別の言葉に置き換えて、一見それとわからないように仕込んでいた。気づいたファンの人たちのひらめきもすごいけど、そもそもそれを思いつく阿部ちゃんがすごい。頭がいいってこういうことなんだな、と阿部ちゃんを見ていて思う。知識が豊富なだけでなく、それをいろんな形で使いこなし、アイドルとしての表現に繋げている。ファンや周りの人たちを喜ばせ楽しませるために、持てる力の限りを尽くす。あざとい言動だって、阿部ちゃんの生来の魅力の活かし方であり、それをきっかけにメンバーやファンが反応して盛り上がるのだから、他の人には真似できない彼にとっての無二の武器だ。あと、自分があざとい言動をするとおれが喜ぶということもわかってやっている節はあると思う、きっとたぶん。
もう一冊は『にんぎょうひめ』と題された本だ。人魚姫ではなく、にんぎょうひめ。昨日あったのは『人魚のひいさま』で、いわゆる人魚姫の物語だった。もしかしてそれらも何か関係があるのだろうか。
開いてみると、手書きの柔らかいタッチの絵で描かれた絵本のようになっていた。これも子ども向けだろうか、文章はすべてひらがなで書かれていて、ところどころ黒いクレヨンで乱暴に塗りつぶされている。
にんぎょうひめはいつもさみしかったのです。
だれかにあいされたかったのです。
どうしてもあいされたくって。
だれかのあいがほしくって。
■■でもいいからあいしてほしくって。
そんなにんぎょうひめのねがいを、
■■がかな■てくれました。
ここは■■。
しあわせな、だれかに■■されたかった、
そんなだれかのつくった、
■■も■■もそんざいしない、
■■にならなくていい、
■■のための■■なのです。
その内容に、どこか薄ら寒い感覚を覚えた。
にんぎょうひめ。にんぎょひめ。
語呂が似ているから言葉遊びのようなものかと思った。けれど、それだけではない。
人形。この状況で、その単語を聞いて、思い当たるもの。
――阿部ちゃん。
人形になってしまった彼と、何か関係があるのではないか?
『蓮がここに連れてきたんでしょ?』
昨日この部屋で目が覚めたとき、彼は確かにそう言った。
それが本当なら、この部屋は、この状況は、全部おれが作り出したものだということになる。
けれど、今の阿部ちゃんを鑑みると――彼が持っていたはずの知識も知的好奇心も失くし、子どもに返ったような幼い言動で、食事や睡眠といった生理的欲求のみに従っているような姿を見ると、とても本来の阿部ちゃんと同一人物とは思えない。
であれば、彼の言うことをただ鵜呑みにしてはいけない気がする。本来の阿部ちゃんと違うところが、何かヒントになるのかもしれない。それが何かということまではまだわからないけれど。
ベッドで静かに寝息を立てる阿部ちゃんのもとへ近づく。真っ白なシーツに埋もれて眠る姿は、いつもの阿部ちゃんと何ら変わりない。長い睫毛、通った鼻筋、小さな口にぽってりとした下唇。彼を形づくるすべてが愛おしくて、いつまでも見つめていられる。
でも。
そういえば、今になって気づいたのだ。
この部屋で目覚めてからというもの、阿部ちゃんにキスやそれ以上のことをしたいという欲求がわかないことに。
抱きしめたい。触れたい。そういう気持ちは素直に生じる。けれど、それで満ち足りてしまう。いつものおれなら、寝起きにゼロ距離で彼の顔を見てキスしたくならないことなんて無いのに。
今までそういう日が無かったわけではない。けれど、自分の中での欲求の鎮まり方があまりに静かで、こんなにも穏やかな状態が続くのかと自分でも不思議に思うくらいだ。
すう、とあえかな寝息を漏らす阿部ちゃんの頭をそっと撫でると、その唇がかすかに緩んだ。それを見たら、きっとこれでいいのだと思えた。
コメント
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うー 謎が謎を呼ぶ いろいろヒントはあるのだろうが結びつかない どう展開していくのか 楽しみです。 続き待ってます♪