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(──熱い)
焼けるような痛みを感じる腹部からは、ドロドロとした液体が溢れ出ている。
内臓から押し上げられた赤黒い“それ”は、喉の奥で暴れ、やがて嫌な苦味と酸味を残して吐き出されていく。
(──何が起きたんだ)
この状況を整理できるほどの冷静さを、奏多は持ち合わせていなかった。
ただゴポゴポと音を立てながら血を流し続ける腹部を押さえ、不規則で浅い呼吸を繰り返している。
そんな彼の姿を、目の前に立つ少女の瞳が映していた。
倒れている奏多のそばで膝をつき、小さな手で彼の頬に優しく触れた。
重いまぶたを持ち上げ、朦朧とした意識の中で少女を見上げる。
何か言葉を発しているように見えたが、途切れ途切れの意識の中ではそれを聞き取ることができない。
冷たくなっていく自身の体温を感じながら、やがて意識は暗闇に溶けていった。
「───彷徨う悲しき魂よ
ここに契を結ばん───」
暗闇の中でかすかに聞こえたその声は、どこか懐かしくて。
でもどこか切なくて。
そしてとても、綺麗な声だった──。
「喉乾いた」
学校の帰り道、奏多の隣を歩く友人は、唐突に言い出した。
その声を無視していると、今度は顔を近づけて言った。
「なぁ、喉乾いた。飲み物奢ってくれよ奏多」
「いやだよ。僕が金欠なの知ってるでしょ」
「えー?一本くらい良いだろーよ」
「一本“くらい”なら自分で買えるよね……」
「つれないこと言うなよぉ……あぁー死んでしまうー」
帰り道にある自販機の目の前で、彼はわざとらしく首を抑え、苦しむ素振りを見せた。
そんな友人──葵朔也──の姿に呆れながら、奏多は仕方なく財布を取り出した。
「……何が飲みたいの」
「やり〜。トマトジュース」
自販機にお金を投入し、トマトジュースのボタンを押す。
落ちてきた缶を拾い上げ、朔也に投げ渡した。
「さんきゅー。やっぱ持つべきものは友だよなぁ」
「次は絶対奢んないからね」
奏多の宣言を気にもとめず、彼は缶の口を開けて一気に中身を飲み干した。
そして満足げに声を上げた。
「ぷはぁ……生き返るわ〜」
「周りにいないよ、飲みたいのがトマトジュースって。いっつもそれ飲んでるけど、飽きないの?」
空き缶を握り潰し、ゴミ箱に投げ入れる友人に問うた。
「トマトは健康に良いんだぜ。馬鹿にすんなよな」
「いや、馬鹿にはしてないけどさ……」
「そういうお前は、悪趣味だよな」
ふと真顔になる友人に内心ドキリとしながら、奏多は「何が?」と問いかけた。
「それ」
奏多が首から提げているものを彼は指差し、続ける。
「外せよ、ダサいから」
それは深紅の小さな十字架のネックレスだった。
「……あぁ、これ。昔から持ってたものなんだけど、なんだか手放せなくて」
「せめて見えないところにしとけよ。ふつーに校則違反だろ」
急に正論を吐いてくる友人にむっとしながら反論する。
「いいだろこれくらい。お前だってピアス開けてるくせに。お互い様だろ!」
「俺のはカッコいいからいいんだよ。お前のネックレスはダサい」
「この……」
理不尽な物言いに納得がいかなかったが、不毛な争いが長引く前に短い着信音が遮った。
小刻みに2回振動したスマホをポケットから取り出すと、画面に姉からの通知が映し出された。
『ごめん!奏多……』と書かれた 通知をタップし、メールの内容を確認した。
『ごめん!奏多
今日はすぐに帰れそうにないわ
夕飯、私のぶんは作んなくていいから!』
そのまま親指を動かし、『了解』と打ち込み送信した。
奏多の後ろからスマホ画面を覗き込み、朔也は問うた。
「姉ちゃんまた仕事?」
「あ、うん。帰り遅くなるから夕飯いらないって」
「ふぅん。なんなら俺んち来る?飲み物奢ってもらった礼ってことで」
「……いや、別にいいよ。ご飯なんて自分で作れるし。昨日の残り物もあるから」
誘いを断ると、少々残念そうな顔で「ふーん」と呟いた。
「ま、なにか困ったことがあればいつでも頼れよ。同じ学校の好だし」
数分前に飲み物に集ってきた彼にしては頼もしい一言に、可笑しく思いながら奏多は「ありがとう」と口にした。
しばらく歩き交差点についたあと、奏多と朔也は解散した。
返信に既読はつかなかったが、仕事で忙しいのだろうと気にせずにスマホをしまい込んだ。
彼── 一ノ瀬 奏多 ──は姉と2人で暮らしている。
ともに施設で育ったため、両親はいない。
もしかしたら生きているのかもしれないし、この世を去っているかもしれない。
調べればすぐ分かることなのだろうが、特段気になることでもなかったため、両親についてはあまり触れることはなかった。
歳の離れた姉が施設を出たあとに奏多を養子として迎え入れるという、血縁関係があるにしては少々複雑な関係性である2人は、血の繋がった『姉弟』であり、『親子』でもある。
それもあってか、いるかいないか分からない両親に思いを馳せることがないのだろう。
社会人である姉は、両親に代わって生活費を稼いでくれている。
そのぶん帰りが遅くなってしまうのはいつものことであり、家のことはほとんど奏多に任せっきりな状態である。
そのおかげで、家事は無難にこなせるようになった。
だが、しかし。
「僕もバイトするべきだよなぁ………」
と溜息と一緒に呟く。
奏多が通っている学校は公立の“小中高一貫校”であるが、学費が安い。そのせいか、
『学費が払える家庭環境下であれば学生自身が稼ぐ必要性はない』
という謎方針の謎校則によって原則バイト禁止となっている。
特別な理由で許可されることもあるらしいけど、それは成績が良ければの話。
生憎奏多の成績はお世辞にも良いとは言えないものだった。
たとえ成績が良くとも、学費はちゃんと払っており、バイトを許される特別な理由もないため認められないのは目に見えているが。
そんな憂鬱気味な考えを頭から振り落とし、いつもの帰り道に歩を進める。
交差点を右に曲がり、家を3つほど通り過ぎる。
ふと、前方にいる1人の少女が目に留まった。
腰まで伸びた薄い灰色の髪。華奢な身体を隠すような、大きく白いワンピース。
靴は履いておらず、色白な…しかし汚れた素足がアスファルトの上に立っていた。
触れたら消えてしまいそうな儚げな少女は、何故か奏多の家の前を見つめる形で立ち止まっていたのだ。
恐る恐る近づき、なるべく怖がらせないように、少女に声をかけた。
「ねぇ、きみ……どうしたの?家に何か用かな?」
ピクッと肩を揺らした少女は、ゆっくりと彼の方に振り返った。
ほんの一瞬、世界がスローモーションになったような気がした。
それは多分、靡く髪がとても綺麗だったからだろう。
そして少女と目があった瞬間、奏多は息を呑んだ。
ルビーのような、深紅の瞳。
とても綺麗で優雅な、情熱の色。
目が離せなかった。
おさなげだが、でもどこか大人を感じさせるのはその瞳のせいなのだろうか。
しばらくして少女は小さな口を開き、呟いた。
「甘い……におい……」
「え……?」
そして少女は奏多に向かって倒れ込んできた。
「えっ、ちょっと……しっかり!!」
片腕を少女の背中に回し、もう片方の腕でスマホを取り出す。
とりあえず救急車をと画面を開き、緊急通報ボタンを押そうとしたとき。
ぐーぎゅるぎゅる……
「……ん?」
腹の虫が鳴き困惑していると、少女はまた一言呟いた。
「おなか……すいた……」
「はい、どうぞ」
奏多は、家のリビングで少し歪なオムライスを少女に振る舞った。
すると不思議そうな顔で彼とオムライスを交互に見つめた。
「食べたことないの?」
そんな子供いるのだろうか。そう思いつつ尋ねると、少女は無言でこくんと頷いた。
「……とりあえず、食べてみて!
見た目は……まぁ、あれだけど……味には自信あるんだ」
目の前に座って促すと、無言でスプーンを握りしめてオムライスを掬い、口に運んだ。
もぐもぐと口を動かし、しばらくして飲み込む動作をした少女は、顔をほころばせた。
「……おいしい」
子供らしく微笑むその姿にホッとしつつ、奏多は少女に質問をした。
「そういえば……きみ、名前は?なんて言うの?」
すると、少ししてから少女は名乗った。
「……イブ」
「イブ……可愛い名前だね」
名前と見た目からして、やっぱり海外から来たんだろうかなどと考えていると、奏多は名乗っていないことに気づいた。
「僕の名前は、奏多」
すると彼女は、奏多の名前を噛みしめるように何度も小さく呟いた。
「カ…ナタ……カナタ……」
「うん、奏多。
ねえ……きみはどこから来たの?
お家はどこか、わかる?」
2つ目の質問に、彼女は答える代わりに首を横に振った。
家族とはぐれてしまったんだろうか。
奏多は再び質問をした。
「どうして僕の家の前にいたの?
お父さんと、お母さんは?」
しかし、いつまでたってもその質問にイブが答えてくれる様子はなかった。
何回も質問されて、嫌になってしまったんだろうか。
「……何回も質問してごめんね。
答えたくないなら良いんだけど」
家族とはぐれたのなら、やはり警察に相談するしかないようだ。
もしそうなら、きっと今頃必死で探しているだろう。
なら少しでも早く合流できるように、手伝ってあげなければ。
「ねぇ、今からちょっとお出かけしようか」
交番と言って怖がらせてしまうよりいいかと思って発した言葉は、どことなく誘拐犯のようで、思わず奏多は苦笑いをこぼした。
「えっ?」
思わず聞き返すと、運良く交番にいた40代くらいの警察官が何かの書類を見ながら答えた。
「今のところ、そういうのは来てないんだよねぇ……」
まだ子供がいなくなったという通報は来ていなかったようだ。
「にしても、珍しい見た目の子供だなぁ。
海外でもそんな見ないんじゃねぇか」
髪は灰色、目の色は赤。言われてみれば確かに海外でもあまり見ないかもしれない。
日本語も話せているし、なぜ違和感を覚えなかったのだろう。
「もしや、アルビノなんじゃねぇのか」
「アルビノ?」
聞き返すと、警察官は自慢げに語り始めた。
「アルビノってのはな、生まれつき色素の薄い生き物のことを言うんだよ。
髪も肌も目の色も、全部薄い色をしてる。
そのぶん日光にめっぽう弱くてだなぁ」
「お詳しいんですね…」
反応に困っていると、警察官はニヤッと笑い、付け加えた。
「最近テレビで見たんだよ。
まぁでも、天気がいい日に外歩けてるってことは、それじゃないようだけどな」
話がだいぶ逸れてしまったことに気づき、奏多はすかさず本題に戻した。
「それよりも、この子をどうするかの話です。
今は通報が無くても、いずれ来るかもだし」
「あぁそうだった」と言わんばかりの顔をした警察官は、ここで一時的に預かる結論を出した。
「調べてはみるが、親御さんから連絡があれば一番いいんだけどなぁ」
「さてと」と呟き、イブの目の前でかがんだ警察官は満面の笑みで話しかけた。
「ごめんねぇ嬢ちゃん。
パパとママがいなくて不安だろうけど、おじさんと一緒にここで待ってようか」
だがイブは首を横に振った。
やっぱり怖いのだろうか。
「こりゃ参ったねぇ……」
そう呟いて、警察官はがくんと頭を落とした。
「駄目だよ、おまわりさんの言うこと聞かないと……」
項垂れている警察官を一瞥してから、奏多はしゃがんでイブと向き合った。
しかしイブは奏多の顔ではなく、警察官を見つめていた。
その数秒間、1度も瞬きをせずに。
「……イブ?」
しばらくすると、警察官は頭を上げて立ち上がった。
そして驚きの提案を言い放った。
「お前さんがその子の面倒を見るってのはどうだ?」
なんて人任せな。本当に警察官なのか。
そう言いたくなる衝動を、どうにか抑えた。
「僕がですか?
でも僕、高校生ですし……姉も仕事が忙しくてよく家をあけるので……それはちょっと……」
なんとか断ろうとするが、目の前の警察官は一歩も譲ってはくれない。
「頼むよー
親御さんが見つかるまでの間、な??
それにほら、イブちゃんはこんな状態だろう?
見つかったらすぐ連絡するから」
「頼むよ」と何度も押され、結局折れるしか無かった。
「うーん……これからどうしよう」
リビングのソファーに座り込み、これからのことを考えた。
両親が見つかるまでの間、ここで一緒に暮らさないといけない。
となると、イブに着せる服も買わなければならないし、ご飯も3人分作らなければならない。
姉にも事情を説明しなければならないけど、今電話したところで仕事の邪魔をしてしまうだけだろう。これは後回しにしよう。
そもそもどうしてあの警察官はあんなことを言い出したのか。
子供の意思関係なく警察が保護するのが、可哀想だけど普通なのではないか。
そう。今この状況は、言うまでもなく普通ではありえないのである。
「んー……明日も学校あるしなぁ」
そう呟くと、イブはこっちをじっと見つめて首を傾げた。
「ガッコウ……?」
奏多はイブにわかるように説明した。
「うん。
学校はお勉強をするところなんだけどね。
僕は明日、そこに行かないといけないんだ」
するとイブは一瞬だけ目を輝かせて「いっしょにいく」と言い出した。
「ごめんね、イブは行っちゃいけないところだから。
姉ちゃんに相談して、できるだけイブを独りにしないようにはするんだけど……明日はお留守番しててね」
そう宥めると、イブは少し切ない顔を見せた。
それはそうだろう。右も左も分からないところに独りでいたんだから。
寂しくないはずはない。
たまらず彼はイブを抱きしめた。
「ごめんね……」
明日はできる限り情報を集めて、すぐに帰ってこよう。
そう決意した。
イブを自分の部屋に寝かせ、奏多はリビングのソファーで眠りについていた。
ふっ、と生理現象で目が覚める。スマホを確認すると、時刻はまだ深夜を指していた。
トイレに向かうため廊下に出ると、微かな物音が2階から聞こえる。
階段を上がると、奏多の部屋だけドアが開いていることに気がついた。
恐る恐る部屋を覗くと、窓が開いているのかカーテンがゆらゆらと風に揺れていた。
イブは灰色の髪を靡かせながら、開いた窓から外を眺めていた。
「イブ?どうしたの?」
声をかけると、数秒の沈黙の後、イブはこちらを振り返らずに呟いた。
「──気をつけたほうがいいよ」
先程とは違う少し大人びた口振りに驚きつつ、奏多はその言葉の意味を考えた。
「気をつけたほうがいいって……何を?」
「良くないものが、近づいてるから」
良くないもの。
それがどんな意味を含んでいるのか、奏多には全く分からなかった。
イブに歩み寄ろうと一歩踏み出すと同時に、ネックレスが首からするりと落ちた。
「あっ……」
落とした深紅の十字架は、一粒の雫へと姿を変えて床に弾け、魔法のように消えていった。
そのときの奏多はまだ分かっていなかった。
平凡で平穏な日々が、徐々に崩れ始めているということを。
そして─────────
第一章『始まり』 つづく