「あいらちゃーん。パパでちゅよー」
まさか、あの課長が。
「かわいいでちゅねー。おなかいっぱいでちゅかー」
……まさか、あの、強面の、ハイパーサイボーグの課長が。
「げっぷ。げっぷちまちょーね。はい! パパのところにおいでー」
……楽しいので、いつもそのままにしている。慣れた手つきで愛良を抱っこする課長。赤子を扱うさまがすっかり板についている。鼻歌を歌いながらリビングを歩き回る課長。……すごく、ご機嫌だ。課長も、愛良も……。
課長は、わたしの産後、一ヶ月休暇を取得した。育児をするためである。
双方の両親は近距離ではあるが、うちの母は働いているし、義理両親宅からはちょっと距離があるし……。
それでも、初孫は可愛いらしく。週末ごとにやってきて、洗濯とか……掃除、手料理の持参とか、いろいろとやってくれる。すごく助かる。
懸念していた課長の家事育児っぷりであるが……頑張っている。
最低限、野菜炒めや味噌汁さえ作れればよかったとは思っているが。かつ――母乳育児をしているので、根菜など、母乳の出がよくなるものを。お陰で豚汁はスタメン確定。わたしのおなかとこころを満たしてくれる。
エプロン姿の課長は萌え萌えだ。黒いエプロンをさらりと巻いて、携帯片手に必死に料理をする姿……。
育児についても、沐浴は一発でマスターした。ある程度任せられる。トイレにも行ける。ひとりでゆったりお風呂にも入れる……! といっても、湯船にはまだ漬かれないのでシャワーだけだけれど。それでも、お気に入りの香りのスクラブでからだを洗ったりと、リフレッシュさせて頂いている。――このイクメンぶりといったら!
……にしても、イクメンって差別用語じゃないだろうか。母親は育児をして当たり前だというのに、どうして、男性の側だけ褒められるのだろう……まあ、男性の育児参加を推奨する風潮に、水を差したくはないが……なのでムーブメント自体は好意的に受け止めようではないか。
母乳は、わたししか出せないので、必然、わたしの側が育児をする時間が多くなるのだが。――課長は、宅にいるあいだは、懸命に赤子の世話を焼いてくれる。自宅で仕事をすることもあるのだが、泣けばすぐ駆け付けて……言葉をかけてくれる。
おむつ。おっぱい。室温。……が完璧なはずなのに、赤ちゃんは火のついたやかんのように泣きまくる。こんなにも泣くなんて……と参ってしまうくらいに、泣く。
そんなときに、課長は笑って励ましてくれるのだ。――ここはおれがやるから、あっちですこし休んでな。――なんて。
お言葉にあまえ、寝室で横になる。調子はずれの、課長の子守歌が聞こえてきて、わたしのおだやかな入眠を促してくれた。
* * *
一ヶ月後には、課長は仕事に復帰した。……でも、八時にはあがってくれるし、朝は早起きしてわたしたちのご飯を作ってくれる。簡単なものだけれど、味噌汁やご飯……。風呂洗いや洗濯ものなど。地味に、ごみ出しもしてくれるし。
夜は一緒に寝て、なにも出来ないまでも、愛良やわたしに声をかけたり、……わたしのために飲み物を取りに行ってくれたり……いろいろとしてくれる。一緒にいるだけで救われている。産後はいろいろあると聞くが、わたしに関しては、課長に対する不平不満は一切……なかった。
性交渉は、勿論、ない。……というか、それどころじゃ、ない。
生きるために必要なエネルギーをすべて赤ちゃんに向けている状態で。だから……そんな余裕などなく。
自分がまるで、別人になったかのようだった。赤子を産み落とした瞬間、母親という生き物に生まれ変わったかのようで。――切なく。苦しく。
課長とめくるめく行為を繰り広げた日々が、どこか遠く感じられる。……あれは、まるで、別世界の出来事。そう、異世界で起きている出来事のように、遠い遠い日々。
この四月には職場に復帰をするので残りの期間は大切で。瞬く間に過ぎていくことだろう。この――幸せな日々も。
子どもが出来ないのかと悩んだ時期もあった。先に出産した高嶺が妬ましく思えたこともあった。けれど……それも、もう、昔のこと……。
いまは、過去の憐憫や怨念に酔いしれるのではなく、与えられた幸せをただ……享受したい。
愛良を、抱っこした。ずっしりと重たくなってきて……腰が痛いくらいだ。我が子の成長が、愛おしい。
母親を識別できるようになったらしく、この子は嬉しそうに笑う。もみじのように小さなおててに指を伸ばし……そのぬくもりを感じる。
藁ぶき屋根のような香りの頭をくんくん。この香りも……いずれ、消え去ってしまうものだから。残されたひとときを大切にしたい……。
母親としての自覚なんて、まだまだ備わってはいないけれど、大丈夫。支えてくれるひとがいる。表で裏で……顔も知らない誰かがわたしたちを支えてくれている……だから、生きていける。
「大丈夫……大丈夫」
あたたかな我が子を胸に抱きながら、まだ見ない未来へと夢を馳せる。幸せな未来が、天井知らずの雲のように……広がっていた。
*
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