ファラミアは彼女が泊まれるように宿から一部屋、療院の外に用意してくれました。
それは上等な一室でしてまた食事も上等なもので、彼女が肉を好まないのを聞いていたのか、ほとんどが野菜などの菜物でした。
シリウルは彼女自身の館から持ち出してきた猛禽類用の餌を持って、窓辺に降りて羽を休んでいるスールロスに餌付けしました。
彼女は森を出る前に、彼女の森の管轄の責任者であるロリアンの奥方に手紙を送っていました。彼女は急用であれば森を留守にすることが許されているのですが、本来ならばあまり良いことではありません。
ですのでシリウルは長くゴンドールにいるつもりはありませんでした。
彼女はいつでも出られるように荷造りを済ませると、いつボロミアに別れを告げようかと悩んで、重いため息を落としました。
翌朝、彼女が療院を訪問すると人が溢れかえっていました。
ボロミアの帰還を耳にしたの者たちが、彼の姿をもう一度目に収めようと見に来ていたのです。シリウルは人を掻き分けて進み、やっと中に入れました。中は比較的人は少なく探し人は直ぐに見つかりました。
ボロミアはまたファラミアと談笑していて、彼らを見に来た者たちを特に気にしていませんでした。そんな彼らを迷惑そうに院長が見ているのをみつけて、シリウルは苦笑いを浮かべました。
ファラミアが最初に彼女が来ているのを見つけると、直ぐに彼に伝えてボロミアもまた彼女に視線を送りました。
「ボロミア、あなたを見に来た者たちで外は溢れかえっています。何か対応なされないと、院長が迷惑がっています」
シリウルがそう言うとボロミアは彼女に椅子を持ってきて、座らせてから答えました。
「どうせ、生きていればまた見られるだろう。それに、今答えればもっと人で溢れかえるぞ」
「でも、」
「これほど人が居るのを見たことないあなたにはさぞ大変だっただろう。労いに一杯いかがかな」
そう言うと彼が持っていたコップを彼女に押し付けました。シリウルは妙に強引な彼を訝しげに見つめました。ただそういう時は何を言っても聞いてくれないのを知っていたので、仕方なく口を付けましたが直ぐに咳き込んで吐き出してしまいました。
「ッボロミア!お酒ではないですか、病人がどこからこんな物を持っていらしたのです!ましてや私に飲ませようとするなんて」
「言ったでは無いか、ただの労いだ」
「あなたの労いには悪意しか感じません」
シリウルは珍しく怒って、彼に投げるようにしてコップを返して去ってしまうと、慌てて彼は両手で受け止めました。まだ酒の味がする口の中に不快感を示すと、何方かが手巾を差し出してくれました。
「ごめんなさい、騒ぎ立てしまって。あなたの手巾をお借りします」
「いえ、良いのですわ。殿方なんていつもたちの悪い悪戯ばかりされるのです。良い反応をされると遊び相手にされますわ」
淑やかな振る舞いのレディが、そのような事を申されるとは思わずシリウルは驚きました。
「私はローハンのエオウィンと申します。あなた様は?」
「アノリアンから来た者のシリウルと申します、ローハンの姫君」
「知っていらしたのですね」
「あなたが療院にいらっしゃる事を巷で聞きました」
そう言うと納得したのか、彼女は微笑みました。シリウルから目を逸らすと、ずんずんと勢い良く向かっていき、たちの悪い悪戯をした張本人のボロミアにキッパリ言いつけました。
「彼女が困っていらっしゃるではないですか、あまり出過ぎたことは成されぬよう。お酒も回収します」
そして彼の手から先程のコップを奪い、それから机に置いてあった酒の瓶らしき物も奪い取ってしまうと、姫君は院長のいる方にかけていきました。
「はは、勇ましい姫君だな」
そのあまりの猛々しさにボロミアはそう零したのでした。
ただローハンの姫君のお怒りを買ったことで、ファラミアにも叱られたボロミアは流石に反省した様子でした。さすがに可哀想に思えたシリウルは、侍従の者に手巾を預けローハンの姫君に返すように言いつけると彼の元に戻りました。
「何日ほどここに居ろと言われたのですか?」
「二日は寝ていろと言われた」
「あなたのそれは寝ている格好なので?」
シリウルが敵意を隠そうともせす言うと、ボロミアは呆気に取られました。
「空いているベットはここから遠いのだ、だが私一人だととてもつまらなくてならない。あなたが寝台の傍らで詩でも読んでくれないか?」
シリウルが返答に困ってファラミアに目を向けると、彼は直ぐに気付いて代わりに話してくれました。
「兄上、レディは困っていらっしゃるようだ。あまり意地悪はいけませんよ」
「お前が口を出すことではない」
ボロミアが冷たく返すと、座っていた寝台を起き上がってシリウルの傍らに立ちました。
「お前もゆっくり休むように」
一言吐き捨てるとシリウルを引っ張って行ってしまいました。その後ろ姿を見てファラミアは気づかれないようにそっと笑いを零しました。
「あなたのお傍にいたら、ちゃんと休んで下さるので?」
ボロミアに連れられながらそう問うと、彼は振り向かずに答えました。
「あなたの技量次第だ」
そう一言零すと、それから彼は二階の窓が開いた一室に来るまで何も言いませんでした。
部屋に着くと確かに言いつけ通りに寝台に深く身体を落としました。座れそうな場所がなかったのでシリウルは寝台に腰掛けると、そっと腰を引き寄せられました。
「……いつにも増して強引に思えますが、何かあったのですか?」
シリウルが不機嫌そうな彼を見て問うと、目をギラつかせてこう返しました。
「何もない」
何もなさそうな人はそんな顔をしない、と直ぐに言い返してやりたかったのですが抑えて彼女は備え付けの机の本棚から一冊取りました。
その本は童話のようで彼女が読んだことの無い物でした。ボロミアそっちのけでシリウルが読み進めていると、彼に強く肩を引かれて彼の上に倒れてしまいました。
その拍子に本が落ち、かたん、と音がなりました。どういうつもりかと問うように彼に視線を向けると、ボロミアは飄々とした顔で彼女の頬を撫で始めました。シリウルは彼の胸に手を付いていて、背中には彼の逞しい腕があってどうにも身動きが取れません。
「シリウル」
下を向いていた彼女は、名前を呼ばれてゆっくり顔を上げました。ボロミアはさっきとはうって変わって、静かで清廉な表情を浮かべていました。
シリウルは彼の瞳の中に前に見た熱と同じものが巣食っているのが見えて、身構えました。
ゆっくり彼の手が顔を伝い、首の後ろまで行くとそっと項を摩って引き寄せられ、深く味わうように唇が重なりました。
ー
二日後、ボロミアは言いつけ通りちゃんと休んでくれまして、院長が感心するほど目覚ましい回復をみせました。
彼が駄々を捏ねたのをよく知っている一同は苦笑いを零しましたが、その中の誰もが彼の回復を喜んでいました。
療院からある程度なら動いていい許可が出され、ボロミアはシリウルにミナス・ティリスを一通り案内すると申し出ました。
第六層を暫く歩き回っていると、彼女が厩舎に寄りたいと言ったので、ボロミアはその通りに致しました。厩舎では最初に連れてきた彼らの馬が丁重に扱われていました。
シリウルは彼女が乗っていた黒い毛並みの馬をタルウェと呼んで撫で、再会を喜びました。
「あなたの茶色の馬はまだ名付けておりませんし、私にはこの子が居るので差し上げます」
ボロミアは驚いて彼女を見つめました。シリウルがくれると言った茶色い馬はとても良い馬だったからです。それにとても若く、まだまだ働けるでしょう。
「それはいけない、あなたは今までも散々私に与えて下さった。これ以上は私は受け取れない」
そうボロミアが言うと、シリウルは可笑しそうに笑って返しました。
「だって、この子あなたの事が大好きなんですよ!私が連れ出したとして着いて来てくれるか分からないくらいに、あなたを気に入ったみたい」
そう言われてそういえば、この馬はずっとボロミアの事をよく気遣ってくれていたのに気づきました。
彼がそっと馬を撫でると、嬉しそうに鳴く姿に、ボロミアもまたその馬に愛着を覚えている事に気づきました。
「確かに、そうかもしれない。だがまたあなたから貰うと私の面目が立たない。だからどうしても、あなたがそうしたいと言うなら今度私が送るものは何があっても、拒否しないで欲しい」
そう言われたシリウルは、その語気の強さに困り顔になってしまいました。でも確かに思い起こせば馬を除いても彼に山ほど与えていて、他人の目から見れば貢がれているように思えるほどでした。ですから彼女は仕方なく頷いて、彼の贈り物がなにか、楽しみにすることにしました。
長い階段を登り終えて第七層に着くと、シリウルはその壮麗さに言葉を失いました。
眼前に広がる地面はでっぱり一つない程綺麗に仕上げられていて、賓客用の宿舎の前には見事な噴水と庭が作られており、そこもまた彼女が見たこともないような美しさだったのです。
ミナス・ティリスは全体が石造りなのですが、それもまた彼女には新鮮でした。そうしてぐるぐる見回して身体を動かしているシリウルがとても愛らしく見えて、ボロミアは微笑ましく思いました。そして枯れた白の木を見たシリウルは囚われたように一心に見つめました。ボロミアは彼女が何故そんなに枯れた木に注意を注ぐのが分からず、彼女にこう問いました。
「何故そこまでそれに拘るので?」
ボロミアはこの木の色々を父から聞かされてはいたものの、ある程度誇りに思えど特に興味が持てなかったので、とても不思議に思いました。シリウルはどこから話せばいいか、迷うようにして口を開いたり閉じたりすると、長く息を吐いて語り始めました。
「ヌーメノールの没落の話は知っていましょう。この木の親はニムロスと言って、更にその親はガラシリオンと呼ばれていました。そしてガラシリオンは模して作られた元の木があり、エルフ達が行く浄福の土地、アマンにあるヴァリノールの二つの木の片方テルペリオンなのです。テルペリオンは闇の手によって今や失われ、私達はこうした実生でしかその片鱗を見ることが叶いません」
ボロミアはそこまでの話は知らなかったのでとても驚きました。そして彼女に一言こう告げました。
「では大切にしなければ」
シリウルはその言葉を聞いて堪えきれないというように笑いました。
特に興味がなさそうだったのを彼女も察していたのです。貴重さを彼女に語られたからこそ出てきた言葉なのでしょう。成年の彼の純粋な一面に、シリウルはとても心惹かれてはいたのですが、これ程のものとは思っていなかったのです。
ボロミアは不機嫌そうに顔を顰めており、それがまた彼女の笑いを深くしてしまうのでした。
ただひとしきり笑い終わると、更に機嫌が悪くなっていましたので慌てて彼女はご機嫌取りを始めました。
ー
シリウルはボロミアと過ごすにつれ、さらに離れがたくなっていました。
最初は送り届けるまでは居ようと思い、そして前は彼が癒されるまで、今は……と何か理由を付けては残ってしまっていました。
彼女が送った手紙の返信では、あまり長くはならないようにとの寛大なお言葉を頂いていたのですが、このままでは一生帰れなくなってしまいそうで、シリウルは悩みました。
悩むシリウルに慰めるようにスールロスが頬ずりをしてくれて、彼女の心は少し暖まりました。
窓辺には程よく風が吹いていて、彼女の髪をそっと揺らしました。
まだ外は暗く、少し霧が出ていまてあまり遠くまでは見えません。
いつかは帰路を辿らなければならない、わかっていながらその事から目を逸らしてしまいます。
一週間、一週間は一緒に居てそれからは何があっても帰ってしまおう、そう守れなさそうな結論を下して彼女は寝に移りました。
また暖かく、人の出入り豊かな雰囲気が戻ってきたゴンドールに戦勝したアラゴルンの隊がコルマルレンの野に西軍が着くという情報が届きました。
そして多くの者が彼らを迎えに行きたいと思い、町中に人々は旅の支度をしていました。ボロミアはその様子を見てうずうずしておりまして、明らかに行きたそうにしていました。
そんな彼も様子を哀れに思って、療院の院長が無理をしなければ行っていいと許可を出して下さり、大喜びでシリウルに同行を頼みました。彼女は快く受け、二人でまた旅に出る準備を始めました。
ボロミアはファラミアも一緒に来るように誘いましたが、気が進まないとして断られてしまいました。
ボロミアはどこに気が進まない事があるのかと不思議に思いましたが、ファラミアの考えが全く読めなかったので放って置きました。
旅に出る者はみなそれぞれ同じ言場所を目指しながら別に動いておりまして、ボロミアが統率すべきではないかと皆が思っておりました。
ですがボロミアはその役を受けず、またシリウルと二人で旅をする道を選びました。
彼の選択にシリウルは戸惑いましたが、この二人でいれば旅の途中で帰ることも出来ますし、コルマルレンの野まで送り届けてからそうする事も容易だったからです。
だから彼女は何も言わずに、彼と共に城を出ることにしました。
「セルイル、またよろしくな」
そう彼がシリウルがあげた茶色の馬を呼んでいたので、彼が名前を付けたことが分かりました。
ボロミアが約束を守って、ちゃんと受け取ってくれたのがここから分かりましたのでシリウルは喜びました。
城を出ると、前方に同じようにして旅に出た者たちが居て、行列のようになっていました。
ボロミアが人を避けて馬を先に駆けさせたので、彼女もそうすると直ぐに人の多い地帯からは脱出出来ました。
「……なんだか久しぶりですね、こうするのも」
「ああ、いいものだな」
「あなたが付けられた名前、とても素敵です。セルイルは幸せ者ですね」
「そうさせてやりたいな」
そう言うと、そっとセルイルの首元を撫でてやりました。
夜営をしている時に、シリウルは一応彼の傷の様子を見たいと告げました。
ボロミアは快く受けてくれまして、速やかに服を脱いでくれました。彼の傷は確かに閉じており、シリウルは安心して息を吐きました。
「……最初は、あなたにこうして裸を晒すのがとても恥ずかしかった」
静かにそう零すと、彼は苦笑いを浮かべました。
「そうでしたか?」
「ずっとそうだったさ、あなたがあまりにも平然とされるのでもはや慣れてしまったがな」
「すみません、あまりそういうことには疎くて」
「いや分かってる、そうだろうとは思っていた」
「綺麗な方だな、とは思っていたのですが」
「……綺麗?」
「ええ……あなたの身体についたこの傷の一つ一つが、誰かを守った証ですから」
「そんな事は思ってもみなかった。むしろ見苦しいとばかり、」
「そんな事はありません、あなたは美しいですわ、私が今まで見た中で誰よりも」
「……同じ言葉をあなたに返そう」
「私に?」
「あなたは誰よりも美しい、私の何にも替え難い宝だ」
「ありがとう、ございます」
シリウルは照れながらお礼を言うと、ボロミアは満足そうに笑みを深めました。
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