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「お腹空いてないかい?ご飯を用意してあるんだ」
「ご飯、ですか」
そういえば今日は一度も……いや、ここ数日まともに『食事』と言える物を口にしていないので私にとってはとても魅力的な提案だ。でも、彼が普通の行動をするとはどうしても思えず、素直に『食べたい』という言葉が口から出てこない。
「……やっぱりそれって、メイドが作ったんですよね?」
そうでなかったとしても、お抱えの料理人だとかを呼んだか、料亭から取り寄せたとかそんなオチだろう。もしくは毒が入っているとか見た目が奇抜とか食材が虫とか珍味の山とか——。色々なパターンを考えておかないと身が持たず、私はありとあらゆる状況を想像しながら彼の返事を待った。
「まさか!ちゃんと僕が作ったんだよ。材料は持って来てもらったけどね。此処の冷蔵庫、期限切れの調味料しか入っていなかったからさ」
一番有り得ないだろうと真っ先に排除した行動だった為、やっぱり『食べたい』の言葉が私からは出てこなかった。
「さ、参考までに、何を?」
目の前にあるロイさんの顔を手で押し除けながら訊く。徐々に、気が付き難いくらいゆっくり距離を縮めてくるのは勘弁して欲しいものだ。
「漬物とホッケの開き。あとは無難にお味噌汁とかだよ」
メニューを聞いただけで空腹感が加速していくのは、日本人に生まれた性か。
「食べるよね?僕も一緒に食べるよ、一人の食事程寂しいものはないからね。——さて、先に下に行って温めてるから、すぐに降りておいで」
ベッドの側に置いてあったらしい紺色のエプロンを手に取ると、ロイさんはいそいそとそれを身に付け、『新婚の嫁か?』と言いたくなる様な足取りで私の寝室を出て行った。
「——……くっ」
ドアを閉め、ロイさんが階段を降りて行く音を横に聞きながら、頭を抱える。
「……ワイシャツ姿にエプロンは、ホント勘弁してよぉ……」
小声でそう呟くと、私は否応無しにニヤけてしまう顔を両手で隠した。
二、三度深呼吸をし、気持ちを整え『……よし!』と心の中で言いながらベッドから足を下ろす。ロイさんの提案を素直に受けるのは心底癪だが、この数日間分の空腹には勝てる気がしない。人の弱い点を見事に突かれた気がして一瞬足が止まったが、くだらない意地など捨てて私は、寝室のドアを開ける為にノブへ手を伸ばしす。—— だがその時、綺麗に掃除された寝室の中に、絶対に前は存在していなかった物がある事に今更気が付き、私はソレがある方に慌てて振り返った。
「何?これ」
こげ茶色をしたイーゼルが一つ、大きなキャンパスが乗った状態で寝室の真ん中に置かれている。『絵』なんてモノは図面やアイデア案以外では描く事の無い私はこういった専門的な物を買った事がない。だから多分ロイさんが勝手に私の家を掃除させた時に持ち込んだ品だろう。
私の立ち位置からではキャンパスの真後ろしか見えず、何が描かれているのか、そもそも何かを描いていたのかすらも判断出来ない。 イーゼルの置かれた位置からして、もし何かを描いていたのだとしたら、寝姿の私以外に特にコレといって描きそうな物はその方向には何もないのだが、人の物を勝手に覗くのは人としてどうだろうか?
(——いや待て)
もし寝顔を描いていたんだとしたら、そっちの方が人としてどうだ? 勝手に了解も無く人をモデルにしていいのか? 先に向こうが人の領分を侵したのだ、私だっていいんじゃないか?なら、 す、少しくらい勝手に見ても……。でも、そんな事をしちゃアイツと自分が同等になっちゃう気がするし…… あぁもう!!——なんて事をグダグダと色々考えているせいでキャンパスの表側を覗く事も、一階にも行けないでいると、一階の方からロイさんが私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ご飯温まったけど、まだ来られないかい?」
その声に、いつの間にか手袋を外し、キャンパスの方へと伸ばしてしまっていた私の右手がピタッと止まった。
「わ、私……何やってんだろ」
無意識に外していた手袋を慌ててはめ直すと、大声で「今行きます!」と答え、彼の置いたであろうキャンパスに何が描かれているのかと後ろ髪を引かれながらも、確認する事なく一階に降りて行った。
「さぁ沢山食べてね!」
笑顔で両手を広げ、家には無かったはずの食卓の上に、丁寧に並べられた料理を自慢げにロイさんが披露してきた。漬物の入る小鉢も魚皿にも記憶が無い。水の入るコップと箸は何となく随分昔に百均で買った様な気はするが、もう年単位で使っていなかった品なので確信は持てなかった。
「何というか……色々持ち込んだみたいですね」
「この家には生活必需品が全然無かったからね。邪魔だったらそっちで処分してもらえるかい?僕はあった方が良いと思うから回収はしないし、自分からは捨てないよ」
華美ではないものの、一枚板で作られた丈夫そうな食卓と吸い付くような質感の食器。 目利きの出来ない私でも『これは高い!』とイヤでもわかる品を前に『じゃあそうします』なんて無駄な意地は張ることが出来ず、私は黙ったまま頷いてみせるのが精一杯だった。
「美味しいかい?」と 笑顔でロイさんが問う。
「……まぁ、たぶん」
ずっと冷凍食品や宅配の弁当しか食べてなかったからか舌まで馬鹿になっているみたいだ。味付けが薄いとは感じても、美味しいという感覚には今一歩足りない。『健康になりそうな味だ』が、今の正直な感想だった。
「んー残念。料理にも自信があったんだけど。これはじっくり慣らしていくしかないね」
そう言って、ロイさんが苦笑いをする。常日頃と無駄に高い鼻を折ってやれた事に一瞬嬉しく感じたが、彼が本気で居座る気でいる事も読み取れてしまい複雑な気分にもなった。
「料理なんか出来たんですね。お抱えの料理人に作ってもらうのが当たり前で、そんな事出来ないものだと思ってました」
つい嫌味ったらしい声色になってしまう。そんな自分がイヤで、言ってしまった後で少し気持ちが落ち込んだ。
「友人達に料理好きが多いからね、僕も出来ないと恥ずかしいだろう?無駄なスキルじゃないし、何よりも料理は奥が深いから楽しいんだ」
「へぇ……」
「僕にちょっとは興味を持てたかい?」
頬杖をつきながらロイさんが訊いてくる。その問いのせいで口にしていた味噌汁を盛大に噴出しそうになったが、私は無理矢理堪えて、なんとか失態を曝す事を避ける事が出来た。でも、むせ返ってしまうのだけはどうにも出来ず、椅子を少しずらして床に向かい何度も大きな咳を出す。誇らしげな顔で「図星だった?」とロイさんが言いながら私の方へ水の入るコップを差し出してくれた。
「あ、ある、はずが!」
咳の混じる状態ながらも反論する。
「残念」
そう言うが、残念がっているようには全く見えなかった。
「そういえば、さっきの顔にのっていたの……何?」
「あぁ、あれ?パックだよ。知らないかい?美容液が染み込んだシート状のやつさ」
「それは知ってるけど、何であんなものが顔の上に?って話をしてるんです」
「肌荒れしていたからね、気になって」
『アンタって案外細かい男だったんだ、知らなかった』
そう言いそうになったが、自分が無頓着過ぎるだけだろうとも思えたので、その言葉は口に出さなかった。
「じゃあアレ、部屋にあったイーゼルはやっぱりロイさんが?まだ絵なんか描いていたんですね。私を描いていた……なんて事は、お互いに気色悪いんで無いと思いますけど、実際の所はどうなんです?」
訊きながら私は、魚皿にのるホッケに箸を伸ばして背骨をゆっくり取り除いた。
「あれは確かに僕のだけど。僕が絵を描いていた事と、最近はやめてた事なんてよく知ってるね?」
「そ、そりゃ、アンタは雪乃のお兄さんですし、それぐらいは……」
「僕は知らないな。親友でも、友人のお兄さんの近況や趣味なんて。雪乃は僕の愚痴を誰かに言う事はあっても、兄の趣味や、それを止めた事なんて自分から周囲に話すタイプでもないし。なんでそんなに詳しいんだい?」
「そ、それは何かの本で見たの、かも……」
何気なく訊いた事だったのに、ここまで突っ込まれるとは思っていなかったせいか言葉がたどたどしくなる。触れられたくない話でもあるせいか、額から気持ちの悪い汗が噴き出てきた。
そんな私の様子を見て「そっか、そうなんだ」と、何か意味を含んだような笑みをロイさんが浮かべる。
「あ、そういえば絵の題材を教えていなかったね。イーゼルに乗せたままになっていた絵は想像通り芙弓ちゃんの絵だよ。しかも超レアな、寝顔のね!」
「了承もなくそんなもん描くな!!それと、二十五の女相手に『ちゃん』はやめろ、『ちゃん』は!」
バンッと箸をテーブルに叩きつける様に置き、私は叫んだ。やった後で『マナー違反じゃん!』とまた凹む。
「そんなに怒らなくてもいいのに。でも、確かに年下とはいえ、大人になった女性相手にちょっと失礼だったかもしれないね」
腕を組み、目を閉じながらロイさんが頷く。
「じゃあ——」
急にロイさんの表情が真面目なものに変わり、長い腕を私の方へ伸ばしながら安定感のある低い声で囁いた。
「……芙弓」
テレビ越しでしか聴いた事のなかった声に胸の奥を鷲掴みにされ、声を失い硬直していると、伸ばされていた彼の手がそっと私の頬に触れた。
「でも、こんな場所にお魚をつけていたら、『ちゃん』付けの方がまだお似合いかもね」
真面目な表情が一気に子供っぽい笑顔に戻り、声色までいつもの軽い感じになる。少しだけ私の頬についていたらしいほっけの身を指で取ると、ロイさんはそれを自分の口に運び、再び真剣な様相に表情を変えて見せ付けるような視線を私に向けながら指を軽く舐めた。
コロコロと変わるロイさんの表情を見せつけられ、動揺を隠せない。
(今自分の目の前に居るのは、誰!?)
絶対に誰か違う人——いや、『一番よく知っている人物』が目の前に居たはずなのに、人形浄瑠璃の様な彼の代わり身の速さについていけない。まぁ、実際はあんな怖いモノではないのが救いではあるが。
「『ちゃん』はやめろって言ったけど、名前で呼んでいいとは言ってないんだけど……」
無理矢理出した声は、恥ずかしいくらいに震えていた。
「そこは気が付いちゃいけない!」と言い、 今度はいつもの子供っぽい笑顔を向けられる。
「いや、凄く大事ですから!」
そんな軽いノリに、今はちょっと救われた気がした。