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第8話 正しさに背を向けて
最初に見たときは、もっと小さかった気がする。
手のひらに乗せても、少し触れただけで逃げようとしていたのに。
「…なんか、おっきくなったな」
ケージの中を覗き込みながら、ぽつりと呟く。
久遠の大学の同期から預かったっていう、ハムスター。
子どもが産まれすぎたとかで引き取ったらしい。
このハムスターの世話をする環境にも、どこか慣れてきていて。
「……お、きた」
指を近づけると、寄ってくる。
逃げるどころか、もはや自分から触れにくるのが愛らしい。
「慣れるもんだな、こういうのも」
それがハムスターの話なのか、それ以外のことなのか、自分でもよくわからなかった。
ふと、部屋を見渡す。
相変わらず無駄がない。
必要なものだけがちゃんとある久遠の家。
日付を意識するものも、一つもない。
「まあ、久遠だしな」
スケジュールなんて、スマホで全部管理してそうだし。
カレンダーをわざわざ部屋に置く必要なんて、彼にはないのかもしれない。
それで勝手に納得して、視線を外す。
あれからどれくらい経ったかなんて、別に気にしてないし。
いいか。
キッチンの方から、水の音がする。
「凪、そっちの皿取って」
「はいはい」
振り返って、近くにあった皿を渡す。
ちょうどいいタイミングで受け取られる。
言葉にしなくてもなんとなく噛み合う感じが、やけに自然だった。
「もう普通にここで暮らしてんなー、俺」
ぽつりと漏らす。
久遠は何も返さない。
それすらも、いつも通りだった。
食器を片付け終わる頃。
「凪、俺そろそろ出るわ」
「ん、今日はやいね」
「時間見てくれる?」
「自分で見ろよな」
そう言いながらもスマホを取り出す。
画面をつけて、時間を確認する。
そのまま指が止まった。
視線が、別の所に落ちる。
画面上の日付。
一瞬、理解が遅れる。
「……あれ」
思ってたより、進んでいる。
こんなに経ってたんだ。
あれからバイトも行ってないし、もちろん家にも帰ってない。
喉の奥に、妙な引っかかりが残る。
「…なあ、さすがにそろそろ自分とこ戻るわ」
時間の確認なんて忘れ、顔を上げる。
久遠は、動きを止めていた。
「なんで」
短く返ってくる。
「なんでって、普通に」
少しだけ、苛立つ。
「ずっと久遠の家にいんのも変だし」
「別に変じゃない」
間を置かずに返される。
「いや変だって」
思わず被せる。
「実家だけど自分の家あるし、母さんがいないとはいえ⎯⎯」
「いないから言ってんだけど」
言葉がぶつかる。
空気が、一瞬で張り詰める。
「……は?」
「帰っても誰もいないし、バイトも暫く休むって言ってある。今出てどうすんの」
淡々としてるくせに、どこか詰めるような言い方。
「どうすんのって…普通に一人で生活するけど」
「今それができる状態?」
思わず言葉が詰まる。
一拍遅れて、ムカつきが来る。
「…は、なにそれ」
「そのままの意味だけど」
「いや俺普通に動けてるし」
「…あの日、倒れたのに?」
反論できない。
あの時のことは何も覚えていないのに、
図星を突かれたみたいで余計に苛立つ。
久遠は少しだけ視線を逸らした。
「…だからその」
珍しく久遠が言い淀む。
「おばさんも、いないし」
繋ぐように、言葉を選んで。
「今はちゃんと休んだ方がいいって話」
どこか噛み合ってない。
でも、それ以上を言わせないようにするみたいに。
「無理して今出る意味ないだろ」
「別に、無理してるわけじゃない」
小さく吐き捨てる。
沈黙が、妙に重い。
「……まあわかったけど」
諦めたみたいに言う。
納得したわけじゃない。
ただ、これ以上話す気がなくなっただけだ。
久遠はそのまま鍵を手に取る。
「…じゃあ、いってくる」
少しだけ間を置いて。
「うん」
返す声も、どこか素っ気なくなる。
ドアが閉まる。
鍵の音が、やけに大きく響いた。
さっきまでの空気が嘘みたいに静かだ。
「はあ」
小さく息を吐く。
なんか、変な感じ。
別に喧嘩したわけじゃないのに、少しだけ気分が悪い。
考えるのも面倒で、視線をケージに向ける。
中でちょこちょこと動いている。
指を近づけると、すぐに寄ってきた。
「お前はいいよなあ。悩みとかないだろ」
くす、と笑う。
そのまま手に乗せる。
軽くて、温かい。
「そもそも、外の世界知らないんだもんな」
思ったままを口にする。
外に出さなくてもいい。
この中で、全部完結してる。
餌も、水もあって。
危ないものなんてなくて。
それで、生きていける。
好奇心で、床にそっと下ろしてみる。
迷うみたいに少し歩いて。
一瞬止まってから、
またケージの方へ戻っていった。
「あ、戻るんだ」
ぼんやり見つめる。
「まあ、そっちの方が安全か」
自分で言って、自分で納得してしまう。
喉が渇いて、キッチンに向かう。
冷蔵庫を開ける。
中はいつも通り整っていた。
無駄がなくて、綺麗で。
「一人暮らしにしては整いすぎだろ」
思わず呟いた。
視線を動かす。
並んでる飲み物。
ストックされてる食材。
ふと、違和感が引っかかった。
「なんか」
一つ手に取る。
「俺の好きなもんばっかじゃん」
味が濃すぎないやつ。
軽く食べられて、お腹にたまるやつ。
前に、何気なく言った気がする好み。
「…なんでこんな、俺のための場所みたいなんだよ」
さっきの会話が、頭をよぎる。
あの言い方。
あの距離感。
あの、焦燥感に駆られたような久遠の顔。
「いやいや」
小さく首を振る。
「たまたまだよな。自意識過剰かよ」
それ以上考えるのをやめて、冷蔵庫を閉める。
部屋に戻ると、ハムスターがまた動いていた。
手を差し出すと、何の躊躇もなく乗ってくる。
「ほんと素直だな」
指先で軽く撫でる。
逃げようともしない。
ここにいれば大丈夫だと、ちっとも疑っていないみたいに。
ぼんやりと見つめる。
ちゃんと餌もあって。
暖かくて。
守られてる居場所があって。
それで。
それでいいのかもしれない。
⎯⎯⎯いや。
小さく、息を吐く。
手のひらの上で動く体を見ながら。
「俺も、それでいいのか?」