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「一人だけ、心あたりがあるんだ」
そう言って真澄はノートの切れ端に小さく名前を書いた。
高嶺清香は物静かな女の子だ。全体的にふっくらとしていて小柄。丸いメガネの奥に見えるパッチリとした目が可愛い少女だ。
「どうしてそう思ったの?」
私の質問に真澄は少し悩んだ後、答えた。
「最近の高嶺の様子って、少し変じゃなかった? 何というか、落ち着きがないような・・・・・・」
そう言われると最近の清香の様子はおかしかったような気がする。私はここ数日の彼女の様子を思い浮かべる。
清香は、なんだか誰かを探しているようだった。忙しなく辺りを見渡し、ふと我に返ったように体を丸めて大人しくなる。確かに落ち着きがなかった。
清香は怖がりな子だ。由乃を脅していることがバレてしまうのを恐れていた可能性がある。
「高嶺さんと少し、話をしてみようかな」
終わりのチャイムが鳴って、生徒は各々、帰宅を始める。そのタイミングで清香に接触し由乃について話をする、はずだった。
「放課後になってしまって悪いんだが、今から警察の方がいらっしゃる。由乃の件でだ」
教室が一瞬にして静まり返る。彼女の事があってから決して明るいわけではなかったこの場所が、さらに落ち込んでいくのが手に取るようにわかった。
「クラスのみんなに話を聞きたいそうだ。頼む、協力してほしい」
淳は教卓に手を着くと、薄くなった頭頂部が見えるほどに深々と頭を下げた。クラスの人気者が亡くなった。それに加えて愛される担任がここまで頭を下げているのだ、断る理由などどこにもない。
警察の人を待とうという雰囲気が完全に出来上がってしまった教室で、一人の男が苛立ちを募らせていた。いつもならこんな無駄な時間、サボって終わりだというのに、今日はそうはいかなかった。逃げ出そうとした直前に淳に捕まってしまったのだ。時間が過ぎていくのと同時に貧乏ゆすりの数も増えていく。とうに苛立ちは限界だった。
男は立ち上がると掛けてあった鞄を手に取る。抜け出すつもりだ。彼はそのまま扉へと一直線に歩いて行く。
「待ってくれ! 昌一!」
彼の名は平良昌一。脱色された金色の髪に、左耳に二つつけられたピアスが特徴の、いわゆる不良ってやつだ。 つい最近まで少年院に入っていて、今日は久しぶりの登校だった。
「うるせぇよジジイ。なんでオマエの言うことを聞かなきゃならないんだ、冗談じゃねぇ」
完全に声変わりが終わった、ドスのきいた低い声で昌一は言った。同時に吊り上がった目で淳を睨みつけている。しかし淳は怯むことなく昌一へ近づいて行く。
「頼む、昌一。由乃の為なんだ」
「俺には関係ないね、勝手にやってろ」
吐き捨てるようにそう言うと昌一は教室を出て行った。その場に淳だけが取り残されている。彼は俯いたまま両の拳を震わせていた。
コンコン。扉を叩く小さな音がして、見覚えのある二人組が教室内に入って来た。昨日、由乃の自宅マンションにいたあの警察官だ。彼らのうち、細身の男、松浦が教卓に手を着き身を乗り出した。
「三年二組のみなさん、初めまして。松浦と申します。今日はみなさんのクラスメイト、飯島由乃さんについて聞かせてもらいにやって来ました」
やけに耳障りな猫撫で声に気分が悪くなる。昨日の彼とは全然違うその態度は、不快を通り越してもはや不気味だった。みんなもそう思ったのか、誰一人として声を発しない、異様な空気が教室を渦巻いていた。
その空気を気にも留めない様子で彼は続ける。
「今から番号順に呼んでいくので、一人一人別室でお話を聞かせてください。簡単にで構わないから緊張せずにね」
彼は口の端を上げ、ニヤッと笑う。尖った八重歯が顔を覗かせていた。
しばらくして、私の名前が呼ばれる。呼んだのは声の大きな警察官、石嶺だった。彼は私の顔を見ると、一瞬笑顔を歪ませた。
「もしかして君、昨日マンションにいた?」
私が小さく頷くと、彼は額に大粒の汗を浮かばせる。昨日の説教を思い出しているのだろうか、どんどん顔が青ざめていった。
やがて私たちは普段は使わない空き教室についた。扉に取り付けられた窓から、松浦の姿が見える。
石嶺が扉を開けた。廊下の窓からの西日で、埃が舞い上がっているのがよくわかった。私は石嶺に促されるまま埃の中を進む。
室内はまるで三者面談のような形になっていた。石嶺と松浦が二人並んで座っている。それに向かい合う形で私も座る。松浦は相変わらずヘラヘラと笑っていたが、その目は笑っていなかった。
「それじゃあ、菊川さん。飯島由乃さんとの関係について聞かせてもらってもいいかな?」
あの不気味な声で松浦は私に尋ねる。まるで蛇にねっとりと睨みつけられているかのような心地がして、なんだか恐ろしかった。
「・・・・・・飯島さんとは友達です。席が隣で、よく勉強を教えてもらってました」
私の言葉を石嶺が即座にメモする。ペンが紙をなぞる音がやけに大きく聞こえて、放課後の部活生がたてる喧騒が遠い遠いものに感じた。
「飯島さんが、何かに悩んでいる、という話を聞いた事があるかな?」
「・・・・・・わかりません。あ、飯島さんはあの進学校に受験する予定だったので、それについて悩んでたかもしれないです」
松浦はそれを聞くと、隣の石嶺に耳打ちをした。石嶺は目を見開き、首をブンブンと横に振る。しかし松浦はそれを気にせずにこう言った。
「飯島由乃を脅していた人物に心あたりは?」
あの不気味な声ではなく、初めて会った時の掠れた声だった。いつのまにかニヒルな笑みは消えていて、悪を許さない一人の男の姿がそこにあった。
心あたりなんてない。そう言おうと口を開いたとき、今朝の会話を思い出した。
『一人だけ、心あたりがあるんだ』
そう言って彼はノートの切れ端に高嶺清香の名前を書いた。その事を思い出したのだ。私はもう一度口を開いて言葉を紡ぐ。
「・・・・・・心あたりは、ありません」
高嶺清香が怪しいというのは、あくまで私たちの推測だ。ここで彼女の名前を出すのは、彼女の名誉を傷つける行為に等しいと考えたのだ。
少しの間が空いて、松浦は息を吐く。再び言葉を発したときには既に、あの不気味な猫撫で声に戻っていた。
「それじゃあ質問は終わりにします。もう帰って大丈夫だからね」
私は礼を言って立ち上がる。教室の扉を開けると放課後の喧騒が私を優しく出迎えた。張り詰めた空気がほぐれて溶けていく。長い旅路の末に故郷に帰り着く冒険者のような安心感に私は包まれていた。
今日はもう帰ろう。私は昇降口へと歩き出す。
「ここです、ありがとうございます」
最後の一人との面談が終わる頃には、既に日は暮れていて、子供だけで帰らすには不安な時刻だった。一人の少女を無事に家に送り届けると、男は後輩の運転する車に乗り込む。
仕事で使う真っ黒の新車は、シートがフカフカで、考え事をするには最適だった。カーステレオからは数十年前の古臭い邦楽が流れていて、後輩がそれをノリノリで口ずさんでいる。男は黙ってその音楽をラジオに切り替えた。
「ちょっと先輩! 勝手に変えないでくださいよ」
ラジオでは女性パーソナリティーが唯崎町のニュースを淡々と読み上げている。始めはブーブー文句を垂れていた後輩だったが、とある事件の話になった途端に黙りこくった。
『先日、唯崎中学校三年の飯島由乃さんが、自宅マンションから飛び降り、亡くなりました』
つい昨日発覚した事件だと言うのに、もうメディアはこの痛ましい事実を包み隠さず報道している。その仕事の速さに感心するとともに、せっかく伏せておいた事件の概要を暴露するデリカシーのなさに辟易した。
純粋な後輩は守れなかった命を想い、車を運転しているというのに俯きがちだ。ちゃんと前見ろよ、と呟いて肩を軽く小突くと、後輩はハッとして前を向く。警官がこんな調子で大丈夫なのかよ、なんて思いながら男は窓を開けた。師走のキンと刺すような冷風が頬を吹き抜けると、男は小さく身震いをしながら煙草を一本取り出した。
「寒いんで窓閉めてくださいよ! それに車の中で煙草吸わないでください! この前署長に怒られたばっかりですよね!」
すっかり元気を取り戻した後輩は、大きな体を震わせてそう言った。そんな彼を一瞥すると、男は煙草に火をつける。
「ちょっと妹の事を思い出してさ。これ吸ってると落ち着くんだよ」
妹は、飯島由乃のように真面目な少女だった。それが理由で彼女は命を落としてしまった。あんなヤンキー相手に正義感を燃やさなければ、妹は手首を切る必要なんてなかったはずなのに。
吐き出した息は夜景に攫われ溶けていった。もう妹のような若い命を奪う奴らを許す気はない。男は煙草を咥えなおすとメモ帳を取り出す。飯島由乃の件で生徒に行った事情聴取のメモだった。
「先輩、本当に学生の中に犯人がいるって考えてるんですか?」
手に取ったメモには四名の生徒の名が記されている。男は刑事らしい鋭い目つきでそれぞれの名前を睨みつけた。
一人目は平良昌一。何度も補導経験があり、つい先日もバイクの窃盗で処分をくらっている男。特筆すべきは、その報告者が”飯島由乃”である事だ。
二人目、東條和美。事情聴取時の飯島由乃に対する態度が一人だけ変だった。何だか、負の感情を飯島由乃に対して抱いているようで、彼女の訃報を悲しんでいないどころか清々した様子に見えた。目をつけて置く必要があるだろう。
三人目は高嶺清香。全て鵜呑みにするわけではないが、クラスメイトから信用の厚い栄真澄が語調を強めて怪しいと語っていた。話をしてみて怪しい様子はなかったが、注意して見よう。
そして最後、男の目つきは更に鋭くなっていく。何かを言いかけて辞めた彼女はきっと、何かを知っている。
「生徒の中に絶対犯人がいる、なんて考えてはいないが、必ずヒントがあるはずだ。決して見逃さない。飯島由乃のために」
菊川紗世。彼女の名前は幾重もの丸に囲まれていた。
日の落ちた町に、ぽつりぽつりと明かりが灯っている。カレーライスの匂いが風にのって運ばれてきて、今日はうちもカレーがいいな、なんて母の手を握った子供が笑うのが聞こえる。この町には幸せな時間が流れていて、人々はみな、その温もりを噛み締めているのだろう。それを卑劣な犯罪者に奪わせる気はない。
男はとっくに吸い終わった煙草を灰皿に押し付けると大きく息を吐く。嫌いな煙草の味を忘れてしまわないように唇を軽く舐めてから唾を飲み込んだ。
窓を抜けて煙は夜空へと昇る。町を守る正義の味方を乗せた車は、白煙を残して闇へと溶けていった。
松浦との面談を終えての帰り道だった。見覚えのある男が路地裏に消えて行くのが見えたのだ。何だか気になって私はその背中を追って行く。少し歩いて行くと、開けた場所に出た。そこは寂れた公園のようで古い遊具にはスプレーで感じの悪い落書きが残されていた。
男はブランコに腰掛けると徐にスマホを取り出した。慣れた手つきで誰かに電話を掛けている。
「おい奴隷、いつもの公園。すぐに来い。五分以内だからな」
ブランコに腰掛ける男、平良昌一は”奴隷”を呼んだようだった。遠くからでも一目でわかる金髪で、気になるのかその前髪を指でクルクルと弄っている。
昌一が髪を整えるのに飽きた頃、ようやく奴隷は姿を現した。
「やっと来たかよ、もう五分過ぎてるじゃねぇか」
昌一の奴隷、向井文也はご主人様から熱い歓迎を受けた。勢いよく放たれた拳を止めきれず文也は後ろに二、三歩下がってうずくまる。鳩尾の少し下辺りを押さえて彼はゼーハーと荒い呼吸を整えようと必死だった。
昌一は文也の髪を掴むと強引に彼を立たせる。その顔には妖怪じみた恐ろしい笑みが浮かんでいて、隠れて見ているこっちも冷や汗をかいてしまうほどだ。
文也は細い目をキュッと閉じて耐え忍んでいる。その目尻には涙の粒が膨らんでいた。可哀想だが、私には何もしてあげる事ができない。私は心が痛むのを無視して彼らに背を向けた。
大通りに出ると、私は胸のざわめきを抑えられなくなり振り返る。複雑な路地の向こう側はとっくに見えなくなっていて、そこにいるはずの二人の姿も当然見えなかった。いつからこんなふうになってしまったのだろう、私は少し昔の事を思い出す。
始まりは暑い夏の日の事だった。
あの夏は楽しかった。中学校生活最後の夏休みという事もあって、友達とお泊まりをしたり、みんなで海に行ったりしたものだ。イベントもあらかた終了し、登校日。夏休みだというのに学校に来ないといけないその日は、みんな憂鬱で、貴重な時間を奪われた鬱憤を募らせていた。彼もその一人だった。
昌一は夏休みの間に、もともと良くなかった素行が更に酷くなっていた。やれ万引きをした、やれ喧嘩をした、やれ金を盗んだ、彼の悪名はこの町中に轟いて収まる事を知らなかった。
そんな彼が教室に現れる時、運悪く文也は一番扉に近い位置に立っていた。久々に会った友人と他愛無い話をして笑っていた、それだけだった。 しかし、それが彼の逆鱗に触れてしまった。彼の目の前で笑顔を見せた文也に、昌一は自身を侮辱されたように感じたようだ。不意に放たれた拳が、恵比寿様の様な文也の丸い顔を吹き飛ばす。コンクリート造りの冷たい床に文也は尻餅をつき、呆然とした表情で昌一を見上げる。その目尻にはじわじわと涙が溢れ出していた。それを見た昌一は笑っていた。まるで悪魔のように下卑た笑みを浮かべて、彼は左耳のピアスを揺らす。
昌一は王様だった。逆らえばきっと、病院送りでは済まされないだろう。そんな男の奴隷と関わるのは自殺行為以外の何でもなかった。その日、クラスから向井文也という男は消えた。誰も彼を人として扱わなくなったのだ。その代わりにそこにいたのは、じきに死にゆく蝉の白く濁る眼のように、ただ絶望を写す虚ろな目をした昌一のオモチャだった。
ふくよかな頬はいつの間にかこけていて、いつもニコニコとしていた細い目の下には濃い隈がこびりついていた。そんな彼にも、ある日転機が訪れる。
「向井くん、もう大丈夫だから」
そう言って彼の手を取ったのは、みんなの人気者、飯島由乃だった。
彼女は昌一がこれまで行ってきた犯罪の証拠を集めて、警察に提出したのだ。当然、彼は少年院へと送られて約四ヶ月の保護処分が決定した。
あの日の文也の顔には、長年土の中で燻っていた命が羽化するように、闇を拭い去る希望が燦燦と輝いていた。
大通りを二、三歩進んで、私は何かに弾かれたかのように路地裏を振り返る。今、私は何を思い出した?
平良昌一は、少年院への入所歴がある。そしてその原因は、飯島由乃の通報。
ばら撒かれたピースが音を立てて合致する。彼なら、あの悪魔なら、由乃を殺せる。
瞬間、ゲホゲホと大きく咳き込んだ。息をする事すら忘れてしまっていた。それほどまでにその事実は強烈で、私は息を整えるのに必死だった。
何だか急に恐ろしくなってきて私はギョロギョロと目玉を四方八方に揺れ動かす。今にもそこの路地裏からあの悪魔が現れて、私を襲うのではないかという恐怖が後から後から湧き上がり、せっかく整えた呼吸が再度乱れていくのが手に取るようにわかった。
落ち着くまで待つのがもどかしくて私は夕暮れの大通りを駆けて行く。貪る酸素は肺を突き刺し、キンと鋭い痛みがはしる。吐き出した息は白く、茜色の町に溶けて消えていった。