「僕がピアノをやめた理由教えたらさ、春ちゃんが警察やめた理由教えてくれる?」
神津の言葉に俺は固まってしまう。
(俺が警察を辞めた理由?)
そもそも、神津には俺が警察だったと言うことは直接は話していないはずだ。何処から噂を聞きつけたのか調べたのは知らないが悪趣味だと思った。
「お前がピアノをやめた理由は聞いた。だから、この交渉は成立しない」
「…………」
「聞くな」
俺がそう、念を押すと神津は眉間に皺を寄せた。
神津がピアノをやめた理由は、俺と一緒にいたいからだと前に聞いた。それを真に受けているわけではないが、彼がピアノをやめた理由と俺が警察を辞めた理由は全く別物だと思っている。それに、話したくない。
二年前のことを掘り返したくはない。
「あれ本気で信じてるの?」
「俺は、別にお前がピアノをやめた理由を知りたいわけじゃない。十年――十年お前が海外で何してたかなんて俺にはどうでもいい」
あの空白の十年間、お前を思わない日はなかった。
会えない恋人、遠距離恋愛。
その全てが苦しかった。
なのに、二年前いきなり帰ってきて、突出した特技であり才能であるピアノをやめてきたこいつの気持ちなんて分からないし、知りたくもない。俺がどんな思いで十年も待っていたか神津は知らないだろうから。
「春ちゃん」
「あの十年が勝手に埋まると思うなよ。俺は、俺は……」
二年前に警察を辞めた。その年に神津が帰ってきた。あまりに出来すぎた偶然に運命すら感じてしまった。
十年越しの再会を素直に喜べればよかったのに――
「……ごめん」
「謝るな」
そんな顔で謝られると、何も言えなくなる。怒る気も失せて俺は神津の手を知らぬ間に掴んでいた。それに気づいた神津はにへらっと笑う。ぎこちない笑顔に、胸が締め付けられて俺はいたたまれない気持ちになる。
十年、一度のメールだけで、その後は連絡も電話も一切取っていない、そんな関係だった。それは果たして恋人と言えるのだろうか。この二年間、十年を埋めるように恋人らしい事をしようと努めた。それでもあの大きな空白が埋まることもなく、恋人の定義を知らない愛し方を知らない俺たちはずるずると今の関係を続けている。
幼馴染みで、相棒で、恋人で。
全ての境界が曖昧な俺たちは、結局何がしたいのだろうか。これが、恋人のまねごとなら、そこに愛がないのなら、この関係を続ける意味がない。ただの幼馴染みに戻ればいい話なのだ。それでも、俺が彼を手放せないのは俺の十年を埋めて欲しかったから。
俺が神津を……恭を求め依存しているから。
「春ちゃんにも、色々あるんだもんね……ごめんね、聞いて」
「……別に」
お前だって色々あったんだろ。と聞き返してやればよかったのに、意地を張って俺は彼に何も言えずにいた。神津だけが悪いように視線を逸らしてしまう。
恋人という枠に入っているだけで安心している自分がいる。彼があたかも自分のものかのように、神津だけは俺を手放さないだろうと自信があって。
恋人だから、キスもその先だってする。
それはまねごとかも知れないけれど、愛を確かめる手段がそれしかないのであって。
でもその全て神津から与えられるものだった。神津からキスをする、誘ってくる。俺は常に受け身なのだ。神津を好きな自覚があっても俺は自ら行動に出れない。臆病者だ。
「ごめんね、初デートなのに雰囲気悪くしちゃって」
「……恭」
「あっ、そうだ。初デート記念にってプレゼント買ってきたんだった」
と、神津は思い出したように言うとポケットから何かを取りだした。
「手帳?」
「うーん、本当は指輪とかがよかったんだけど、春ちゃんきっと重いとか言うから」
「いや、んなのわかんねえだろうが」
「絶対言うもん。だからね、これなら受け取って貰えるかなって。これお揃いのデザインなんだよ」
そう言って神津はもう一冊手帳を取りだした。神津のは翠色で、俺のは黒色。お互いの好きな色だった。
手帳はコンパクトなサイズだが生地はしっかりしており触り心地もなめらかだった。申し訳ない程度にカレンダーがついている。そして、カード類を挟めるポケットがついていた。警察時代の手帳より少し大きめのそれに、少し懐かしさと嫌な過去を思い出しつつも神津からのプレゼントということで嬉しさの方が勝っていた。
「ありがと……」
「よかった。受け取って貰えて」
「そ、そりゃ、お前からのプレゼントだし、受け取らねえって言う選択肢はないだろうし……だから」
「うん?」
「すげえ、嬉しい……」
素直に感謝を伝えると神津は珍しいものでも見るかのような表情を浮べていた。
「何だよ」
「春ちゃんがデレた」
「はあ?」
何を言い出すのかと思えば、そんなことかと俺は神津を睨み付けてやる。デレたつもりはないといってやると、デレたでしょ。と笑って返された。その笑顔が眩しくて俺は目を細める。無邪気に笑う彼を見ていたら他の事なんてどうでもよくなった。
「うーん、初デート楽しかったけど何か失敗しちゃったな」
「大概お前のせいだがな」
「ひっどいな~でも、今度またリベンジさせてよ。今度はちゃんとデートプラン立ててくるからさ。遊園地とか水族館とかいって、夜景の見えるお店でご飯食べて、良いホテル取って……」
「どうした?」
急に饒舌になった神津に違和感を覚えて、彼の顔を覗き込むと、彼は困ったような笑みを浮かべて俺の頬に手を添えた。冷たい手が気持ちよくて俺は無意識に擦り寄るようにすると、神津の瞳が一瞬揺れる。
「春ちゃん」
「んっ」
ちゅっと軽いリップ音が聞こえたかと思うと、唇に柔らかい感触が触れた。
「だから春ちゃんも今度デートするときはそんなスーツじゃなくて、もっと可愛い服着てよ」
と、神津は微笑んだ。
「可愛い服は着ねえよ。格好いい服なら着る」
「え~春ちゃんは何着ても可愛いんだよ」
「可愛い言うな。つか、お前がいきなりデートするとか連れ出したんだろうが」
俺がそう反発してやれば、嬉しそうに神津は笑っていた。何がそんなに面白いのか。
そんな風に少しの間言い合っていると、神津が俺に手を差し出してきた。
「初デートは失敗って事で。それじゃあ、春ちゃん帰ろっか」
そう言って、神津は俺の同意を得ず俺の手を引いて歩き出した。
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