テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その日、講義が長引いた。外へ出る頃には夕陽が沈みかけ、街の屋根の端が朱色に縁どられていた。
大学の正門を出ると、自然と足がいつもの方向へ向いていた。
澄菓庵――。
気づけば、俺の帰り道の一部になっていた。
理由は、和菓子が美味いから。
……いや、本当はそれだけじゃない。
胸の奥に澄乃の声が残っていて、あの柔らかな空間がいつの間にか心の避難所になっていた。
今日も行けば、どこか安心できる気がする。
講義の疲れはまだ残っているのに、足取りは軽かった。
◆
観光通りに足を踏み入れると、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
夕方のこの時間帯は、観光客も地元客も減り、薄暗い通りに灯る木製看板の光が美しい。
澄菓庵の白い暖簾が夕陽で淡く染まっていた。
「今日も……営業中、か」
引き戸の前で、深呼吸をひとつ。
俺は指先で戸を引いた。
――カラン。
控えめな鈴の音が響く。
しかし、中にいたのは――
「…………え?」
澄乃じゃなかった。
代わりに、濃紺のセーラー服を着た女の子が、店番の椅子に座って本を読んでいた。
艶のある黒髪を肩で結び、睫毛が長い。
しかし雰囲気は姉とはまるで違い、年相応の明るさと親しみやすさがあった。
俺は一瞬、固まった。
女の子。
しかも、話したことのないタイプ。
こういうの……本当に苦手なんだよな。
動けずにいる俺に気づかず、少女はしばらく本に目を落としていた。
やがて、ページを閉じながらふぅ、と小さな息を吐いた。
その瞬間、
「――っ!ご、ごめんなさい!!い、いらっしゃいませ!!」
勢いよく立ち上がり、深々とお辞儀をした。
元気だ……。
というか、なんかすごく良い子そうだ……。
俺はなんとか声を絞り出した。
「あ、あの……焼き菓子を、ひとつ……」
「は、はいっ!!ど、どれにしますかっ?」
質問の勢いに押される。
優しそうなのに、めちゃくちゃ緊張してるのが分かる。
俺も緊張してるから、変に空気が似てる。
結局、俺は無難にどら焼きを指差した。
「こ、こちらですね!ありがとうございます!」
少女は慣れない手つきでレジを操作し、手のひらに置いた小銭がカタカタと震えていた。
……そんなに緊張しなくても。
小銭を受け取りながら、俺は心の中で苦笑した。
そして、どら焼きを袋に入れ終えた時。
少女は一瞬だけ迷い、ぽつりと口を開いた。
「……あの、もしかして……姉に用があったりしましたか……? 」
「――っ!」
思わず息が詰まった。
なんで分かるんだ。
今日は澄乃に会えるかな、と思っていたのは確かだ。
だが、それを初対面の子に見抜かれるなんて思わなかった。
「えっ、あ、その……」
声が裏返り、焦りで手が滑りそうになる。
少女はハッとしたように口元を押さえた。
「す、すみません!今の忘れてください、つい……!」
やばい。落ち込んでる。
俺は慌てて手を振った。
「い、いや! 全然気にしてないというか……。 むしろ、ご姉妹揃って……なんか、心を見抜くのうまいんだなって……感心しただけで……!」
「あ……」
少女は、少し照れたように笑った。
「私はそこまで得意じゃないです。なんとなく、です。 でも、姉は本当にすごいんです。洞察力も鋭くて……だから、謎とかも解いちゃうんですよ」
噂は本当なんだ――。
朔は思わず息を呑んだ。
さりげない日常会話のように話したけれど、内容は驚くほど核心を突いている。
◆
その時。
奥の暖簾がふわりと揺れ、見慣れたアーモンド色の瞳が現れた。
「天音、店番ありが――あっ!」
澄乃は俺を見つけると、目を丸くし、すぐに柔らかい笑顔を向けた。
「いつも来てくださってる大学生さんですよね! いつもありがとうございます」
「いえ……どら焼き、美味いんで……。 講義帰りにちょうど良くて……」
俺がそう言うと、横から少女――天音が小声で、
「大学帰りに和菓子……しぶ……」
「こらっ!」
澄乃が軽くたしなめ、天音は慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……!」
俺は苦笑した。
「いえ、本当に気にしてないんで……」
澄乃は天音に優しく声を掛けた。
「ありがと、天音。和菓子の追加分できたから、交代するね」
「うん。じゃあ、夜ご飯つくっておくね〜」
「お願いね〜」
姉妹の会話はあまりにも自然で、温かかった。
少しだけ羨ましくなる。
俺にはない雰囲気だったから。
◆
帰ろうとした――その時だった。
引き戸が再び開き、男性客が入ってきた。
澄乃は慣れた声で「いらっしゃいませ」と言う。
客は黙って和菓子を選び、紙幣を差し出した。
澄乃は受け取り、箱に詰めようとした――その瞬間。
澄乃のアーモンド色の瞳が、すっと鋭さを帯びた。
俺は息を飲む。
空気が、わずかに変わった。
そして澄乃は、ごく自然に口を開いた。
「……お客様。何か、悩み事を抱えていらっしゃいますか?」
客は驚き、顔を上げた。
俺も、天音も、一瞬動けなくなった。
――ああ。本当に噂通りだ。
澄乃はまるで、相手の心の奥を見ているようだった。
その光景を、俺はただ息を呑んで見つめていた。
◆
それが、俺が本当の意味で “この店の不思議さ” を知った日のこと。
この日から、澄菓庵の日常は、静かに俺の人生を変えはじめることになる。
まだ、この時の俺は気づいていなかったけれど。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!