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ピアノ室の窓の外に、
白く煙るような雨が降っていた。
葉の落ちた木々の枝が、
しとしとと濡れている。
古い校舎の壁を伝う雨粒の音が、
やけに耳に残った。
ケビンは、
鍵盤に指を置いたまま動けずにいた。
音を出す一歩手前、
息を吸ったままのような緊張が、
指先に張りついている。
その後ろで、スニーカーの音がふたつ、
床をこすった。
「……やっぱ、音だけじゃなくて、
君の手も好きだな」
その声にケビンは振り返った。
史記が、スポーツバッグを抱えて立っていた。
ジャージの上に傘の雫が残っていて、
髪も少し湿っていた。
だけど、その顔にはいつものように
太陽みたいな笑みが浮かんでいる。
「急に来ないでよ。びっくりする」
「ごめん、でも音聞こえたからさ。つい。
俺、雨の日のピアノ、めっちゃ好きかも」
ケビンは視線を鍵盤に戻す。
雨音、部屋の静けさ、彼の声。
全部がまるで、
ひとつの曲の中にあるようだった。
「……君といると、うるさいんだけど、
静かなんだよね」
ポツリとこぼれたその言葉に、
史記が一瞬だけきょとんとした顔をしてから、
はにかんだ。
「うるさいって、ちょっと傷つくな」
「そういう意味じゃない」
ケビンは苦笑する。
自分でも説明が難しかった。
ただ、彼といると、
自分が“音を出す前の自分”に
戻れる気がしていた。
無理に表現しなくても、
伝わらなくても、
ここにいられるような、
そんな安心感。
「でも……」
ふと、思ってしまう。
この人は、バスケ部のエース。
人に囲まれて、笑って、走って、輝いている。
自分とはまったく違う世界で生きている。
「……なんで、僕に構うの?」
そう聞いてしまった自分に、自分でも驚いた。
けれど、史記はまっすぐに答える。
「んー……なんでだろうな。
たぶんさ、君の音が、俺の“速さ”を
止めてくれるから、かも」
“速さ”。
いつも誰かの期待を背負って走ってる彼の、
その言葉に、ケビンの胸が少しだけ痛んだ。
それでも、まだ手を伸ばすのは怖かった。
この距離は、壊すにはあまりに繊細で、
でも、近づくには勇気がいる。
雨はまだ降っていた。
静かに、だけど確かに、窓を叩き続けていた。