テラーノベル
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引退する、と告げた際に聞かれた言葉は皆同じ様なものばかりだった。
『これからどうするのか?』
何度も何度も、何度も聞かれ続けるその言葉に辟易していた。考えていないと言えばまだ人生はこれからなのだからとか、もっとしっかり将来を考えろ等と偉そうな御高説を投げられる。君には関係ないと言えば折角心配しているのに等と有り難くもない感情を向けられる。それに疲れていたから何となく、そう本当に何となくその場凌ぎで夜鷹は言ったのだ。スケートを教えたい人がいるからコーチになると。
嘘から出た真、とは本当にあるらしい。あのスケート界を震撼させ今や伝説となった金メダリストの夜鷹純がその選手生命を終えてまで指導したい選手がいる、という話は瞬く間に世界を駆け巡った。正直夜鷹はその場凌ぎで口にしただけであるので、そんな選手はいないしそもそも毎シーズンコーチを変えていた自分が指導者に向いているとは到底思ってなどいない。だがしかし、漸く帰国して一息つく間も無くメディアに追われ続ける毎日を送っていた夜鷹の元に寄せられたスポンサー達やスケート連盟からの連絡は流石に無視できなかった。曰く、それ程の相手がいるのなら自分達もスポンサーとなって支えたい、連盟としても把握しておきたいのだが、等という内容に流石の夜鷹も頭を痛めた。別にあれは嘘だと言ってしまえば良いことではあるが、それはそれで今度は無責任な発言等と騒ぎになることが目に見えている。どちらに転んでも面倒な事この上ない。引退を機に始めた煙草を吹かしつつ、ふと思い立って彼は外に出た。どちらに転んでも違いがないのなら、いっその事本当にコーチになってみるのも悪くないかもしれないと考えたのだ。どうせ時間はこれから山程あるにも関わらず、やりたい事も特にないのだから。
そう考えて足を運んだスケートリンクで目ぼしい相手を探すもそう上手くはいかなかった。そもそもスケートを初めている時点で何処かしらのクラブに既に所属しているのだ。其処に引退したばかりで話題の夜鷹が入って指導する、というのは実に面倒な事になる。やはりさっさと嘘だったと認めてしまおうか、幾つかのリンクを巡ってそう結論付けるも、夜鷹は最後に赴いたリンクでとある子供に目を付けた。家族で訪れているらしいその集団は、両親や兄弟の中で一番年上であろう青年が必死に小さな幼児二人を支えて何とか氷の上で滑らない様にと固まり合っている。その塊から少し離れたところでまだ幼い少年が恐る恐るといった風情で氷の上に一人立とうとしていた。恐らく下の兄弟に掛り切りで真ん中の子供であろう彼には構う余裕がないのだろうがあの腰が引けた様子では直ぐに転ぶだろう、という夜鷹の予想通り少年は数秒も立たない内にツルリ、と氷の上で派手に転んだ。泣くか、と思ったものの予想に反して少年はリンクの縁を掴んで直ぐに立ち上がる。するとそのままジッとリンクの上を滑る他の利用者達を見つめ始めた。何を、と思った次の瞬間パッと縁を掴んでいた手を離すとそのままリンクの中央へと危なげなく進んでいく。滑りながらも視線は他の利用者に向いており、彼らがバックをすればそのまま似たようなフォームでそれを真似、くるりと回転すれば彼も同じ方向に回る。真似をしているのだ、それだけなら特段初心者に珍しいことでもない。しかし彼は眼で見た動きをそっくりそのまま再現するかの様に自分の動きに落とし込めている。それだけではない、休日ともあり比較的利用者の多いこのリンクで、彼は初心者ながら視線を漂わせつつ誰ともぶつかる事なく滑っている。高い身体能力と空間把握能力を持った少年。
「見つけた」
それは言わば猛禽類が獲物を見つけた瞬間にも近い高揚であった。アレはきっと自分の新たな人生における衝動になり得る。だから夜鷹は今だ氷の上で一人きりの彼に近づき声を掛けた。それはきっと彼にとっては平凡な日常を崩す悪魔の囁きにも近いものであるだろうが、それでも夜鷹に見つかってしまったのが彼の運の尽きだ。
「ねぇ君、スケート興味あるの」
「えっ、えっと…だ、誰ですか?」
「あぁ、知らないのか……じゃあ見てて」
「はい?」
夜鷹の事を知っていれば話は早かったのだが。まぁそれでも良い、寧ろ何も知らない方が余計な先入観などなく純粋に夜鷹のスケートに染める事が出来るかもしれない。困惑する少年を置いて、夜鷹はその場で舞う。次第にリンクの上の人々が「アレって…!」「何でここに!?」等と夜鷹に気付いて騒ぎ出し自然とその場に足を止めた。しかし本格的に夜鷹が演技を始めるとそそくさとリンクの端に寄ってその姿をジッと見つめる。次第に喧騒は鎮まり辺りには沈黙が落ちた。音楽はない、されど夜鷹純の演技を持ってすれば然程問題はなかった。きっとあの少年はスケートというものに触れたのは今日が初めてなのだろう。随分と運のない子供だと思う、今日この日にこの場を訪れなければきっと平凡ながらも幸せな日々を送れただろうに。それでも逃す気はないので、夜鷹は跳ぶ、滑る、踊る。指先まで見せつけるように、彼の脳裏に刻み込みその網膜を灼く程の衝動を与えるように、演技のために鍛え上げたジャッジアピールを少年に向けて送る。
さぁ、“夜鷹純僕のスケート”に狂え
明浦路司、という名の哀れな少年は予想通りスケートに魅了された。流石にスケート初心者の彼を、自分が指導したい選手だと紹介すれば相手方からは大層驚かれたし中には何を考えているのかと憤る者もいたがまぁそれは良い。一先ず自分の発言の責任は取ったので。
困惑する彼の両親もオリンピアンである夜鷹の存在を知れば一転して歓迎した様子であったし、環境を整える為に司の身を預かる事にもあっさりと同意した。普通幼い子供と離れて暮らすことをそう易々と受け入れるものなのだろうか、夜鷹は特段幼少期を親と過ごした記憶がないので分からないけれど。しかし司も特にそれに悲観した様子もないので気にしない事にした。
夜鷹は司のコーチになった、とはいえ指導の仕方なんて夜鷹には分からない。そもそも夜鷹本人がコーチというものから何かを得た記憶があまりないのだから。今更ジャンプの方法とか演技のポイントなんて言語化出来る気もしない、というか夜鷹は考えを口にする事自体が苦手である。そんなコーチとしては致命的とも言える問題を抱えたまま始まった指導だが、夜鷹と同じ眼を持った司には余り関係なかったらしい。
「見た?」
「はい!」
「やって」
「はい!」
夜鷹が練習中に発する言葉など基本的にこの二言だけである。例えジャンプに失敗しても司は自分で問題点に気付いて勝手に修正していくので本当に掛ける言葉など特段必要ない。演技指導に関しても司が演じるプログラムを一度夜鷹が演じれば、それを見て勝手に司は学習していく。何ともまぁ手間の掛からず自分に似た選手だなと夜鷹は独りごちた。きっともう少し大きくなれば彼は夜鷹の手本さえ必要としなくなるのかも知れない、そうなれば辿る道は夜鷹と同じだ。
「コーチ、出来ました!」
「うん」
司の成長速度は異常だ。それは夜鷹でさえそう思うのだから、同年代の選手達からすれば正に悪夢だろう。既にバッチテストを7級まで取り終えて大会で金メダルを獲得し続けている司は夜鷹がコーチをしていることもあり注目の的だ。既に夜鷹純の再来だという声まで出ている。
彼は何になりたいのだろうか、ふとそんなどうでも良い考えが浮かんだ。司の人生は夜鷹が捻じ曲げた。しかし本当の彼は何になりたかったのだろうか、これだけの才能があるならばきっとどの道でも彼は安定した人生を歩めたに違いない。いつか、遠い未来でこの子はスケートの世界に足を踏み入れたことを後悔するのだろうか。氷の世界への衝動は一度灼かれると中々抜け出せないものだ。例えリンクを離れてもあの目を惹きつける白銀の世界は其処に煌めいている、それに囚われた筆頭が夜鷹純なのだから。
「ねぇ司」
「何ですか?」
「スケートは好き?」
「えぇ?当たり前じゃないですか!俺、スケートやってる瞬間本当に生きてて良かったって思うんです!」
分かるよ、肺を凍てつかせる空気も何時もより早く鼓動する心臓も肌を撫でる冷たい風も、全てが僕も大好きだ。恐らくこの子にとってスケートは既に生きる為の礎の一つになってしまっている。それがどうしようもなく悲しくて、それでいて嬉しいのだから本当に自分はどうしようもない。ねぇ司、せめて僕だけは君と同じように氷の世界でしか生きられない人間で居続けるから、だから君もこのまま僕と同じになってくれ。
「俺をスケートに出会わせてくれて、ありがとうございます」
「……どういたしまして」
自覚はないのだろうが随分と彼は焦っていたのだろう。普段の淡々とした口調も何処へやら、此方が電話に出るなり挨拶も省略していきなり発せられたその言葉に不覚にも慎一郎は息を呑んで驚いた。
『司が食事を取らない』
「えっ?」
『サプリさえも取ろうとしない、どうすれば良い?』
司、純くんがコーチをして面倒を見ているという選手。コーチによく似たスケートで数多の大会で金のみを取り続けている夜鷹純の再来。初めに夜鷹がコーチになると聞いた際に慎一郎は大層驚いた。正直彼が誰かを指示しているという場面はどう頭を捻っても想像が付かなかったので。しかし機会があって見学させてもらった司と夜鷹の練習を見るに彼等の間には言葉は必要ないらしいと分かった。終ぞ最後まで完全に理解することはできなかった親友に、漸くたった一人の同族ができたということは親友として寂しくもあったけれど、孤独な彼の側に誰かがいるということがそれ以上に嬉しかった。まぁでもあの純くんが子供の面倒を見れるのかという不安はずっと根底にあったのだけれど。それにしても食事嫌いの純くんとは異なり、差し入れに対しても律儀にお礼を言ってから美味しそうに満面の笑みで食べていたあの少年が?と首を傾げてふと思い至る事があった。
「もしかして、今って司くん成長期なんじゃない?」
『そうだよ、成長痛で毎日呻いてる』
「だからかもね」
『どういうこと?』
「これ以上大きくなりたくなくて食事を制限しているってこと」
それは慎一郎にも覚えがあった。毎日骨が軋むような痛みと、思うように使えなくなっていく体が苦しくて煩わしくて怖くて。そうして食事を取らなければこのまま成長しないのではないか、等という結論に至ってしまったのだ。今となればその考えが間違いであったと気付けるが、全てに追い込まれて思考が限界のあの状況ではそんな考えになってしまったのも仕方がないと思う。慎一郎のその言葉に電話口の向こうは暫く沈黙して、そうして普段の彼からは想像もできないほど小さくて戸惑った声が聞こえた。
『……どうすればいい』
「純くんはどうすれば良いと思う?」
『分からない、でも何とかして司に食事を取らせたい』
「うん、正直この問題は体というよりは心の問題だから明確な解決策は人によって違うと思うんだ。だから司くんの為に何をするべきなのかは、彼に一番近い純くんじゃないと分からないと僕は思うよ」
『僕、が』
そうして再び長い沈黙が落ちる。慎一郎は根気強く電話の向こうから再び声が発せられるのを待った。時間にして数分か、そうして夜鷹は分かった、と一言発して電話を切った。暗闇に戻った画面を暫く見つめて慎一郎は知らず張り詰めていた息をふっと吐き出した。どうか願わくば、あの二人にとって良い結果になって欲しいと思いながら。
料理なんて夜鷹はしない。家に皿の一つさえ無かったし、そもそも冷蔵庫を買ったのだって司が家に来てからで今でも基本的に夜鷹は使っていない。中に詰め込まれたのは司の為の専属の管理栄養士が作った作り置きの食事だけだ。それも最近は一口も口をつけられていないけれど。だから、突如として目の前に現れた湯気を立てているパンケーキを前に司が困惑する気持ちも分かる。いや困惑しているのはそれが少し焦げてしまったからだろうか。
「あの、コーチこれは?」
「パンケーキ」
それは分かる、と目線だけで司に告げられた。練習でも言葉を尽くさない代わりに何だか最近は言わなくともお互いの言いたいことが伝わるようになってきてしまった気がする。まぁしかしこればかりは言葉にしないと伝わらないだろうと脳内で何というべきか考えつつ重い口を開いた。
「最近、司が食事を取らないからどうしたら食べるかと考えて」
「……すみません」
「謝らなくて良い、君がドーナツが好きだと言っていたから本当はそれを作ろうかと思ったんだけど……難しかった」
「それで、パンケーキを?」
「そう」
「そもそも、何で手作り?」
始めは買って帰ろうと思った。別に夜鷹は手作りだろうと既製品だろうと其処に含まれる栄養素に違いなんてないのだから構わないと思っている。それでもあれは何時だったか、エイヴァが張り切って作ったというお菓子を実に幸せそうな顔で食べていた慎一郎の顔を思い出してふと思い立ってしまったのだ。まぁだがどうにも自分には料理のセンスはあまり無かったらしいけれど。
「食べて」
「でも、」
「僕も食べるから」
「………えっ!?コーチが!?」
「君が怯えているのは“夜鷹純”になれなくなる事でしょう。僕は君と同じ食事をした上で夜鷹純で居続ける、それなら何も問題はないだろう」
「え?えぇ?そう、なの…かな?」
「ほら、食べて」
そう言って細かく切り分けたパンケーキの一片をフォークで刺して司の口元に寄せる。すると散々逡巡した後に漸く恐る恐る口を開いたので其処に突っ込んだ。釈然としない顔で咀嚼する司に次いで、同じフォークで成る可く小さな欠片を選んで夜鷹も口に入れた。正直パンケーキなんて記憶にない程久しぶりに食べたし、焦げによる苦味と適当に入れた砂糖の甘さが舌に纏わりついて不愉快だ。それでも夜鷹が一口食べれば司も同じだけ口を開くので何とか喉に流し込んだ。
「あのコーチ、無理しないでくださいね」
「うん」
「ちょっと顔色悪くないですか」
「…別に」
「ほら!手が震えてますって!もう止めましょうよ!!」
「……嫌だ」
「俺今度からちゃんと食べますから!」
慌てた様子で司が渡す水を、食事への拒否反応で震える体を叱咤しながら何とか受け取って飲み込む。こんな姿、選手であった頃の自分が見れば何故其処まで苦労してこの子供の面倒を見るのかと怪訝な目をしていただろう。夜鷹だって何故ここまでして司に食事を取らせたいのかなんて分からないけれど、でも自分のせいで人生を狂わせたのだからせめて最後まで責任を持つべきではあるだろう。それにしても夜鷹も夜鷹で大概司に人生を狂わされている気もするのは何故だろうか。深いため息を吐く夜鷹の背を気遣わしげに摩る司の手の温かさが何だか酷く気になった。
ルーチン、とでもいうのだろうか。司は本番前になると必ず夜鷹の前髪を上げて其処にある白髪をジッと見つめる。彼曰く、それがジャンプを降りる為の道標になるらしい。
「そういえばコーチも本番前になると俺の頬の黒子、撫でますよね」
何でですか?と純粋な瞳で尋ねられた時、初めてその行為を自覚した。何故、何故なのだろうか。ただやけに目を引くそれを己の目に焼き付けていればリンクの上で縦横無尽に駆け抜ける君を見失わない気がして、あぁこれでは司とそう変わらないなと我ながら何だか可笑しくて呆れた。司の快進撃は止まることは無かった、そうして気付けば何時ぞやの自分と同じ世界の頂を決めるこのオリンピックまでたどり着いてしまった。自分と完全に同じ道を辿ってきた司はこの先どうするのだろうか、僕と同じ氷の上でしか生きられない生き物として地上で苦しむことになるのだろうか。
「コーチ?」
「司、君は本当は何になりたかったの」
「えっ?」
「僕は君の人生を狂わせた、君だってもう分かっているだろう」
世間一般は夜鷹純に拾われた幸運な選手、無敗の天才、だなんて持て囃しているけれど其処に至るまでに司が本来ならしなくても良い苦労を山程してきたことは夜鷹だって理解している。お世辞にも保護者のような存在にはなれなかった夜鷹のせいで彼はその歳の割には随分と大人びた性格になってしまったし、この世界に足を踏み入れたせいで本当なら味わうことのなかった痛みや苦しみを何度も経験してきた。司の平穏な人生を狂わせたのは自分だ、それがどうしようもなく苦しくて、それでいて何故か誇らしい。そう思ってしまう自分に反吐が出る。
「さぁ、でも多分あの時コーチに拾われなくても俺は夜鷹純に狂ってましたよ?」
「何でそう言えるの」
「それ程あれは、俺の人生を変える出会いだったので」
「…可哀想」
「あははっ!コーチのせいなのに?」
「うん」
「……ねぇコーチ、一つ言っておきたい事があります」
「何」
「俺は今日、貴方を狂わせます」
祈るようなその声は本番前の高揚感に包まれた賑やかな会場の中で何故か酷く夜鷹の耳に届いた。司の瞳を見て夜鷹は思わず息を呑む。太陽だ、と思った。爛々と輝くその瞳の奥に燃え盛るのは何億光年かかったって燃え尽きることの無い熱烈な炎で、普段の温かな陽だまりのような司の瞳とは程遠い。これだけの炎を全て使えば、それはどのような演技になるのだろうか。無意識に己の身が震えるのにさえ気付かず夜鷹はその口端を釣り上げた。
「君が、僕を?」
「はい、貴方が何時までも刑を待つ罪人のような顔をしているから俺も考えたんです」
「……そう」
「これが俺の人生を狂わせた貴方への復讐です」
会場のアナウンスが司の声を呼ぶ、それに司の瞳がパッと再び温かな色を取り戻した。リンクの縁を掴んでいた手を離して舞台へと上がる司の背に夜鷹は初めて声をかけた。
「見てるよ」
「……はい!!」
あの司との出会いが運命だったとは思わないけれど、それでも人生を狂わせた少年によって何時しか自分もその生き方を変えられ、そうして遂に今日その心までも変えられようとしている。それはなんて悪夢だろうかと思わず声を上げて笑った。
「行っておいで、僕のオムファタール」
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