テラーノベル
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館が閉じられることは、思っていたよりも静かに決まった。
北島龍也の逮捕から数週間後、正式に「解体」の通知が下りた。
文化的価値も、保存の必要性も認められない――
そう判断された理由を、誰も深くは聞かなかった。
重機が入る前、私たちは最後の片づけをした。
赤い花は、すべて処分された。
押し花も、乾燥標本も、絵画も。
あの色だけが異様に残る空間は、少しずつ、普通の瓦礫に戻っていった。
夜は、もう暗くならない。
消灯の時間も、巡回も、意味を失った。
それでも、
建物が完全に壊される日まで、
私たちは「執事」としてそこにいた。
⸻
執事たちは、それぞれの道を選んでいった。
長く勤めていた人の中には、
貯めた給料で海外へ行く者もいた。
「前から行きたかったんだ」
そう言って笑った顔は、少しだけ若く見えた。
別の人は、
昔諦めた夢を、もう一度追いかけると言って辞めていった。
料理人を目指す者。
服飾の学校に入り直す者。
まるで、この屋敷にいた時間を“助走”だったかのように。
また、
何も語らず、別の屋敷やホテルへ移った人もいる。
「仕事は仕事だからな」
そう言い残して。
誰も、過去を詳しく振り返ろうとはしなかった。
それが、この館で身についた癖だったのかもしれない。
⸻
解体が始まる前日。
私は、空になった玄関ホールに立っていた。
靴の跡も、声も、もう残っていない。
そのとき、背後から声をかけられた。
「……花音」
執事長だった。
いつも通りの姿勢。
いつも通りの声。
でも、その肩は、少しだけ下がって見えた。
「これからのことだが」
彼は、一枚の名刺を差し出した。
「知り合いの屋敷だ。
規模は小さいが、条件は悪くない」
「執事の仕事を、続けるなら……という話だ」
私は、すぐには受け取れなかった。
「急ぐ必要はない」
執事長は、そう言って続けた。
「ここでのことが、簡単に整理できるとは思っていない」
一拍、間を置く。
「だが……君は、よくやった」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
「君が来なければ、
ここは、もっと長く“夜”のままだった」
私は、名刺を受け取った。
指先が、わずかに震えていた。
「……ありがとうございます」
そう答えながら、
本当にそれでいいのか、まだ分からなかった。
⸻
執事の仕事は、嫌いではない。
整えること。
支えること。
誰かの日常を、裏側から守ること。
でも――
あの屋敷で学んだことは、
「守る」だけでは足りない、という事実だった。
見ないふりをしないこと。
おかしいと思ったら、立ち止まること。
それができなければ、
また同じ夜が、どこかで生まれてしまう。
(私は、どうしたいんだろう)
名刺を見つめながら、考える。
新しい場所へ行くこと。
一度、全部から離れること。
それとも――
この経験を抱えたまま、もう一度、同じ仕事を選ぶこと。
答えは、まだ出ない。
でも、ひとつだけ分かっている。
もう、
「何も知らなかった自分」には、戻れない。
遠くで、重機の音が鳴り始めた。
あの館が、
本当に壊されていく音だった。
私は、深く息を吸い、
ゆっくりと、外へ歩き出した。
朝の光は、眩しいほどに普通で。
それが、少しだけ――
救いのように感じられた。
結局、私は執事長の提案を断った。
名刺は、きちんと両手で返した。
迷いがなかったと言えば嘘になる。
けれど、あの屋敷で終わらせなければならない感情が、まだ胸に残っていた。
「……そうか」
執事長は、それ以上引き止めなかった。
「君なら、そう言うと思っていた」
責めるでも、残念がるでもなく、
ただ事実として受け止める声音だった。
屋敷を出る日、
私は最低限の荷物だけを持って、玄関に立った。
振り返ると、そこにはもう、
かつての重苦しさはなかった。
夜を支配していた沈黙も、
息を潜めていた恐怖も、
赤い花の気配も――
すでに、この場所からは剥がれ落ちている。
重たい空気は、確かに存在していた。
でも今は、それが嘘のように薄れていく。
扉を開けると、外の空気が流れ込んだ。
冷たくて、乾いていて、
それなのに、不思議と軽い。
一歩、外へ出る。
もう一歩。
足を進めるたびに、
胸にまとわりついていた何かが、少しずつ離れていくのが分かった。
振り返らなかった。
振り返る必要が、もうなかった。
怪しさも、
恐怖も、
疑いも。
すべてが、あの屋敷の中に留まり、
私は、そこから離れていった。
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