テラーノベル
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第1話 彼……魂、抜けてませんか?
胸から刃が引き抜かれ、男は膝をついた。
「誰か、止血を!」
駆け寄る足音と叫びが、遠く遠ざかっていく。
差し伸べられた手を掴む力は、もう残っていなかった。
霞んでいく視界の底に浮かんだのは、目の前の凄惨な戦場ではない。
最後に別れた時、まっすぐ自分を見つめていた、ただ一人の男の顔だった。
男は、血の混じった息を吐き出した。
「これで、お前と同じ場所へ行ける」
誰かが、もう一度彼を呼んだ。
その声へ答えることなく、男の息は途切れた。
*
天灯共同医療福祉院。
「彼……魂、抜けてませんか?」
静養室の前で介助職員が声を潜めると、隣の記録担当が顔を上げた。
「彼そのものが、魂なのですが」
「いや、そうなんですけど」
「言いたいことは分かりますが、本人に聞こえる場所では控えてください」
「はい……すみません」
室内では、大柄な男が窓際に座っていた。
人界での生を終え、天界へ迎えられてから、まだ日が浅い魂である。
歩けないわけではない。診察室へ行くよう伝えれば自分で立ち、食事も介助なしで取れる。話しかけられていることも理解しており、名を呼べばこちらを見る。
だが、窓際と寝台のどちらで過ごしたいか。何が食べたいか。今、してほしいことはあるか。
男自身の希望を問うた途端、反応が止まった。
「指示には応じるんです。でも、自分で選んでもらおうとすると、ああなる」
魂体にも香脈にも、重大な異常はない。
ただ、次に何をすべきか告げられるまで、動く理由を失っているように見えた。
医療処置を増やす段階ではないと判断され、調律福祉部へ連絡が入った。
*
汀生は男の正面を避け、互いの視線が無理にぶつからない位置へ座った。
「俺は汀生です。調律を担当します」
手には、小さな調律弦がある。
「何があったのか、今すぐ話さなくて大丈夫です。音を一つ、ここで鳴らしてもいいですか?」
返事はない。
汀生は、頷かれるまで弦へ触れなかった。
やがて男の顎が、わずかに下がる。
「ありがとうございます」
汀生は男の呼吸と鼓動の間を測り、そのどちらも急かさない高さを探って、弦を一度だけ弾いた。
低く澄んだ音が、窓辺の光へ溶けるように消えていく。
男は動かなかった。
汀生も二つ目の音を置かない。
ただ、音の前に止まった呼吸が、余韻の消えたあとにゆっくり吐き出されたことと、閉じていた香が一瞬だけ揺れたことを記録した。
*
それからも、汀生は男のペースに合わせて調律を続けた。
男が頷かなければ、音は鳴らさない。
呼吸が浅い日は一音だけで終え、香の揺れが大きい日は、同じ室内に座っているだけの日もあった。
汀生が持ち込むのは、音だけではなかった。
「今日は、庭を渡る風が昨日より静かですね」
「この音は少し長く残るので、一度だけにしますね」
「呼吸は変えなくて大丈夫ですよ。こちらが合わせますから」
答えを求めない言葉を、音と音の間へ静かに置いた。
男は何も返さなかった。それでも、汀生の声が聞こえていることは、呼吸のわずかな緩みや香の動きで分かった。
低い音が呼吸の底を塞ぐ日は、すぐにやめた。高い音が鼓動を急かすなら、次からは使わない。香だけが硬く逆立つ余韻も避けた。
合わない音を一つずつ手放しながら、汀生は、男の呼吸にも鼓動にも邪魔にならず、乱れた香が自らほどけていける響きを探し続けた。
目に見える変化のない日が、いくつも重なった。
何日目かを数えなくなった頃。
汀生が置いた音は、男の吐息の終わりに触れず、その次の吸気も急かさなかった。
細い余韻が鼓動の間を抜けていく。
乱れがちだった香が、初めて音を拒まず、ゆるやかに同じ方向へ流れた。
男の指が膝の上で動いた。何かを掴みかけ、ゆっくりと開く。
汀生は二つ目の音を重ねず、その響きが男の内側へ沈み切るまで待った。
「……戦場では、聞かなかった音だ」
弱々しいのではない。長く使われていなかった声が、ようやく持ち主のもとへ戻ってきたような響きだった。
汀生の指が、弦の上で止まった。
ほんの一瞬、その目が見開かれた。
だが、身を乗り出すことも、記録板へ手を伸ばすこともしなかった。
やがて、その目元がわずかに緩んだ。
「そうですか」
声は、これまでの語りかけと同じ高さだった。
汀生は、どこの戦場だったのかとも、誰と戦ったのかとも尋ねなかった。
沈黙が戻る。
だが、もう以前と同じ沈黙ではなかった。
しばらくして、男はもう一度、自分から口を開いた。
「俺は……生前、将軍だった」
コメント
1件
うわ、めっちゃいい話だった…。戦場で死んだ将軍が、魂になってからも「自分で選ぶ」ことを忘れちゃってるの、切なすぎる。汀生さんの「答えを求めない言葉」と、音で呼吸や香に寄り添う調律のやり方、めちゃくちゃ丁寧で繊細で好き。将軍がやっと「戦場では聞かなかった音だ」って口を開いた瞬間、じわっと来たわ。無理に話させず、合わない音を捨てていくプロセス、ガチで刺さった。この2人の距離感、この先どうなるんだろう…続き気になる🔥
莉久⚁⚄[低浮上]
33
#ご本人様には関係❌