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朝の空気は、まだ少し冷たかった。
登校時間だというのに、人通りはまばらで、遠くから聞こえる車の音だけがやけに大きく感じられる。
肉食戸グルは、腹部をぎゅっと押さえながら通学路を歩いていた。
空腹――それも、ただの「お腹がすいた」なんて生易しいものじゃない。
体の奥から、命そのものを削るような感覚が、一定のリズムで訴えかけてくる。
制服のポケットに手を突っ込むと、そこには小さなビニール袋。
中身は、昨夜から何度もかじっているトマトだった。
グルは立ち止まり、ゆっくりとそれを口に運ぶ。
酸味が舌に広がる。
確かに「食べている」はずなのに、体はまるで認めようとしない。
「……っ」
喉が鳴る。
視界の端が、わずかに暗く揺れた。
(あと……半日)
それが、今の自分の限界だった。
本来“必要なもの”を口にしなければ、今日の夜までもたない。
分かっている。分かっているからこそ、足取りが重くなる。
(それでも……)
誰かを犠牲にしてまで、生きたくはない。
その思いだけで、グルはここまで耐えてきた。
そのときだった。
「おはよう!」
背後から、いつもと変わらない、少し高めの声が飛んでくる。
心臓が、びくりと跳ねた。
振り返らなくても分かる。
この時間、この場所で、こんなふうに声をかけてくるのは一人しかいない。
水山ひとせだった。
グルは慌てて背筋を伸ばし、表情を作る。
うまく笑えているかどうかは、自分でも分からなかった。
「ああ……おはよう……」
声が、ほんの少しだけ掠れてしまう。
ひとせは気にした様子もなく、隣に並んで歩き出した。
肩にかかる朝日が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「また朝ごはん食べてないでしょ」
図星だった。
グルは視線を前に向けたまま、曖昧に答える。
「……まあ、そんなとこ」
「だと思った」
ひとせは小さく笑った。
その笑顔が、グルの胸を締めつける。
(あと七日)
彼女の寿命が、残りわずかだということを、グルは知っている。
そして彼女もまた、グルが何者なのかを知っている。
それでも、こうして並んで歩いている。
いつもと同じ朝みたいに。
「ね、グル」
ひとせが、何気ない声で言った。
「今日も一緒に帰ろうね」
その一言が、
今のグルには、あまりにも重かった。
「ああ……」
うなずきながら、彼は思う。
(俺は……どこまで耐えられるんだ)
朝の通学路は、何も変わらない。
けれど、グルの体と心だけが、確実に限界へ近づいていた。
それでも彼は歩く。
隣にいる彼女の存在を、失いたくない一心で。
昼休みの屋上は、思ったより静かだった。
チャイムの音も、校舎のざわめきも、重たい扉一枚隔てただけで、ずいぶん遠くに感じられる。
肉食戸グルは、フェンス際の日陰に寝転がっていた。
コンクリートの冷たさが、制服越しに背中へ伝わってくる。
目は閉じている。
けれど、眠っているわけじゃなかった。
空腹は、もう痛みに近い。
朝よりも、さらに深く、確実に体を蝕んでいる。
呼吸をするたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(……まだ、もつ)
そう言い聞かせるしかなかった。
昼を越えれば、あと数時間。
それだけ耐えればいい――そんな計算を、何度も頭の中で繰り返す。
屋上の扉が、きい、と小さく鳴った。
グルは反射的に眉をひそめる。
誰か来る予定なんて、なかったはずだ。
「……グル?」
聞き慣れた声。
目を開けると、逆光の中に水山ひとせが立っていた。
弁当袋を抱えて、少し困ったようにこちらを見下ろしている。
「こんなとこで寝てたら、風邪ひくよ」
「……静かだからさ」
グルはそう答えて、また目を閉じようとした。
正直、今は誰とも話す余裕がなかった。
少しの沈黙。
それから、ひとせが屋上の床を指さして言った。
「ねえ」
その声は、いつもより少しだけ小さい。
「私も……横で寝ていい?」
グルは、ゆっくりと目を開けた。
驚いたようにひとせを見る。
「……いいぞ」
断る理由なんて、なかった。
ひとせは「ありがと」と微笑って、
グルの隣にそっと腰を下ろし、同じ向きに寝転がった。
距離は、ほんの腕一本分。
それなのに、やけに近く感じる。
風が吹いて、フェンスがかすかに鳴る。
雲が流れて、青空がゆっくりと形を変えていく。
ひとせは仰向けのまま、目を閉じた。
「……ここ、気持ちいいね」
「ああ」
それだけの会話。
それだけで、胸が苦しくなる。
グルは、横にいる彼女の存在を意識しすぎないように、
必死で空を見つめていた。
(近い……)
彼女の体温。
規則正しい呼吸。
生きている証そのものが、すぐ隣にある。
それを守りたいと、心から思う。
同時に、それを“必要としてしまう自分”が、恐ろしかった。
「ね、グル」
目を閉じたまま、ひとせが言う。
「こうしてるとさ……
なんか、時間が止まったみたいだね」
「……ああ」
本当は止まってなんかいない。
むしろ、確実に減っていっている。
彼女の時間も。
自分の時間も。
それでも今だけは、
同じ空を見て、同じ風を感じて、
同じ昼休みを過ごしている。
屋上で、二人並んで横になっているだけの、
何でもない昼の時間。
その何でもなさが、
グルには、どうしようもなく大切だった。
そして、残酷なほどに、
永遠には続かないと分かっていた。
屋上の風が、少しだけ強くなった。
フェンスが低く鳴り、雲の影が二人の上をゆっくりと通り過ぎていく。
しばらく、言葉はなかった。
ただ並んで寝転がって、同じ空を見ている。
それだけなのに、グルの胸は落ち着かなかった。
空腹と、隣にいる彼女の存在が、静かにせめぎ合っている。
先に口を開いたのは、ひとせだった。
「ねえ……」
目を閉じたまま、ほんの少しだけ間を置いてから、彼女は続ける。
「なんでグルは……
グールなのに、人を食べないの?」
その問いは、責めるようでも、試すようでもなかった。
ただ、知りたい、という声音だった。
グルはすぐに答えられなかった。
空を見上げたまま、喉が小さく鳴る。
頭の奥に、ずっと押し込めていた記憶が、
ゆっくりと浮かび上がってくる。
「……昔さ」
ようやく、口を開く。
「僕は……悪いことをした人の肉だけを、食べてた」
ひとせは何も言わず、ただ聞いている。
「そうすれば、正しいって……
自分に言い聞かせられると思ったから」
グルは、拳を握りしめた。
「でも……分からなかったんだ」
声が、少し震える。
「それが、おいしいのかどうかも。
自分が……何をしたいのかも」
食べるたびに、何かが削れていった。
空腹は満たされても、心は満たされなかった。
「そんな時に……母さんが、病気でさ」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「もう、長くないって分かってた。
ベッドの横で、僕の手を握って……」
グルは、目を閉じた。
「母さんが言ったんだ」
――グルは、人を食べない優しい人間になって。
その声は、今でもはっきり思い出せる。
「それを聞いた時……
ああ、これだって思った」
グルは、ゆっくりと息を吐いた。
「だから僕は……
人を食べないで、生きようって決めた」
理由は、それだけだ。
正義でも、立派な覚悟でもない。
ただ、大切な人の最後の願いだったから。
「……それだけ」
そう言って、言葉を終えた。
屋上には、再び静けさが戻る。
風の音と、遠くの校舎の気配だけが、時間を刻んでいた。
しばらくして、ひとせが小さく息を吸う。
「……そっか」
その声は、とても優しかった。
ひとせは、目を閉じたまま、少しだけグルのほうを向く。
「やっぱり、グルだね」
「……何がだよ」
「優しいところ」
その一言が、胸に深く突き刺さる。
優しいからこそ、苦しい。
優しいからこそ、生きづらい。
それでも――
彼女は、それを否定しなかった。
「ね」
ひとせが、ぽつりと言う。
「そのままでいてよ」
グルは、答えられなかった。
空腹が、限界に近づいているのを、はっきりと感じていたから。
それでも、彼は動かない。
隣で眠るように横たわる彼女を、
守るように、ただ空を見つめ続けていた。
昼の空は、あまりにも穏やかだった。
しばらく、二人とも言葉を発さなかった。
風が吹くたび、制服の袖がわずかに触れ合う。
ひとせは、空を見上げたまま、ぽつりと口を開いた。
「ねぇ……」
その声は、いつもより少しだけ低くて、静かだった。
「私の寿命、あと七日しか持たないんだけど」
グルの呼吸が、一瞬止まる。
その事実は、もう知っている。
知っているはずなのに、改めて言葉にされると、胸の奥が強く締めつけられた。
ひとせは続ける。
「……正確に言うとね。
もう、あと二日しかないんだ」
空は変わらず青い。
昼休みは、いつもと同じように進んでいる。
それなのに、その言葉だけが、世界から音を奪った。
グルは、すぐに何も言えなかった。
喉がひりつき、空腹とは違う痛みが胸に広がる。
ひとせは、ようやくグルのほうを向いた。
無理に笑っているわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、覚悟を決めた目をしていた。
「だからさ」
彼女は、少し照れたように、でもまっすぐ言う。
「私が生きてる間ぐらいは……
一緒にいてよ」
お願い、というよりも、約束を求める声だった。
グルの指先が、わずかに震える。
頭の中で、いくつもの思いがぶつかり合う。
――一緒にいたい。
――離れたくない。
――でも、自分は。
残り半日。
このまま何も口にしなければ、自分は彼女より先に――。
グルは、ゆっくりと息を吸った。
「ああ……」
言葉を選ぶように、間を置いてから、続ける。
「ぼくが……生きてたらな」
その声は、ひどく弱々しかった。
ひとせは、一瞬だけ目を見開き、
それから、困ったように小さく笑った。
「もう」
そう言って、天井代わりの空を見上げる。
「そんな顔しないでよ」
ひとせは、静かに言う。
「グルはさ。
生きてるじゃん。今、ここに」
グルは、何も返せなかった。
“生きている”という言葉が、今の自分には重すぎたから。
ひとせは、そっと目を閉じる。
「私ね」
眠る前みたいな声で、続ける。
「最後の時間、
一番大事な人の隣にいたいだけなんだ」
屋上のチャイムが、遠くで鳴った。
昼休みの終わりを告げる音。
でも二人は、すぐには起き上がらなかった。
残された時間が、
確実に減っていくことを、
お互いに分かっていたから。
それでも、今だけは。
同じ空の下で、同じ時間を生きていた。
明後日。
空は、皮肉なほど澄みきっていた。
二人は制服のまま、駅の改札を抜けた。
休日の昼間だというのに、ひとせは「これがいい」と言って、着替えなかった。
「だってさ」
切符を買いながら、彼女は笑う。
「私たちが一番一緒にいた姿でしょ。制服って」
グルは、それに何も返せなかった。
喉の奥が、ずっと重たい。
体調は、正直ぎりぎりだった。
ひとせの“最後の日”に倒れるわけにはいかない。
その一心で、前日の夜にトマトを無理やり詰め込んできた。
だから二人は、できるだけ外食店の少ない道を選んで歩いた。
香りが漂ってきそうな通りは、自然と避ける。
「ごめんね」
ひとせが、ふと立ち止まって言った。
「私のせいで、行く場所も制限させちゃって」
「違う」
グルは、即座に否定した。
「一緒にいられれば、それでいい」
ひとせは一瞬驚いた顔をして、
それから、少し照れたように笑った。
「……そっか」
そうして辿り着いたのが、遊園地だった。
観覧車は、遠くからでもよく見えた。
ゆっくりと、規則正しく回り続けている。
「ね、グル」
ひとせは、少し子どもみたいな声で言う。
「これ、ずっと乗りたかったんだ」
「知ってる」
グルはうなずく。
「前に、写真見せてくれた」
「覚えてたんだ」
「当たり前だろ」
列に並ぶ時間は、短かった。
二人分のゴンドラが、静かに止まる。
係員に促されて乗り込むと、扉が閉まり、
小さな揺れとともに、地面が遠ざかっていった。
最初は、どちらも黙っていた。
少しずつ高くなっていく景色。
街が小さくなり、人の声が薄れていく。
「きれいだね」
ひとせが、窓の外を見ながら言う。
「ああ」
グルも同じ方向を見る。
この高さなら、匂いも、雑音も届かない。
ただ、風と光だけがある。
「ね」
ひとせが、そっとグルのほうを向いた。
「制服で来てよかった」
「どうして?」
「最後の思い出がさ」
彼女は、指先で窓をなぞりながら言う。
「“特別な一日”じゃなくて、
“いつもの私たち”で残るから」
グルの胸が、強く締めつけられた。
「ひとせ……」
「大丈夫」
彼女は、先回りするように言った。
「泣かないで。今日は」
ゴンドラは、頂上に近づいていく。
一瞬、世界が止まったように感じる高さ。
ひとせは、ゆっくりと息を吸った。
「ね、グル」
「……なんだ」
「私ね」
彼女は、真っ直ぐ彼を見る。
「この二日間、すごく幸せだった」
言葉を選ぶ様子はなかった。
それが、もう答えなんだと分かる。
「だから」
ひとせは、少しだけ笑った。
「これで十分」
グルは、拳を握りしめる。
空腹なんて、もうどうでもよかった。
失いたくないものが、目の前にある。
「……俺は」
声が、震える。
「ひとせがいなくなったら……」
「うん」
「どうしたらいいか、分からない」
ひとせは、しばらく黙ってから、言った。
「生きて」
それは、命令でもお願いでもない。
当たり前のことを言うみたいな、静かな声だった。
「私の分まで、とかじゃなくていい」
彼女は、首を横に振る。
「ただ、グルがグルのままで、生きて」
観覧車は、ゆっくりと下降を始める。
地面が、また近づいてくる。
終わりが、近づいている。
グルは、視線を逸らしたまま、小さく答えた。
「……ああ」
約束できるほど、強くはなかった。
でも、否定することも、できなかった。
ゴンドラが止まり、扉が開く。
それでも、二人は一瞬だけ、動かなかった。
この時間が、
もう二度と戻らないと、
はっきり分かっていたから。
ひとせは、先に立ち上がり、振り返って言った。
「行こ」
「どこに?」
「次の思い出」
そう言って笑う彼女は、
最後の日だなんて、嘘みたいに、普通だった。
グルは、その背中を見つめながら、
必死に、今を刻み込もうとしていた。
忘れないために。
そして、生きてしまうために。
夕方の校舎は、驚くほど静かだった。
休日の学校は、まるで時間に置き去りにされたみたいで、
二人の足音だけが、長い廊下に響いていた。
制服のまま、階段を上る。
一段一段が、少しずつ重くなる。
屋上の扉の前で、ひとせが立ち止まった。
金属の取っ手に手をかけて、少しだけ深呼吸をする。
「……ここだね」
「ああ」
扉を押すと、いつもの屋上が広がった。
フェンス、コンクリートの床、少し傾いたベンチ。
特別なものなんて、何一つない。
でも――
二人にとっては、何度も時間を過ごした場所だった。
ひとせは、屋上に一歩踏み出して、空を見上げた。
夕焼けが、ゆっくりと街を染めていく。
「どうせならさ」
彼女は、振り返らずに言った。
「いつも一緒にいた、ここにいたいなって」
その声は、穏やかで、迷いがなかった。
「……そうだな」
グルは、胸の奥がぎゅっと痛むのを感じながら、うなずいた。
二人は、昼休みによく並んで寝転がっていた場所へ向かい、
同じように、肩を並べて座った。
風が、制服の裾を揺らす。
フェンス越しに見える街は、相変わらず忙しそうだった。
「ね、グル」
「なんだ?」
「覚えてる?」
ひとせは、少し笑って言う。
「最初にここでお昼寝した日」
「ああ……
お前、勝手に隣に寝てきた」
「勝手じゃないし。ちゃんと聞いたし」
他愛ない会話。
それが、やけに愛おしい。
「私ね」
ひとせは、屋上の床に手をついて、体を預ける。
「怖くないんだ」
グルは、息をのむ。
「……嘘つくな」
「ほんとだよ」
彼女は、空を見たまま言う。
「だって、最後にいるのがグルだもん」
その言葉が、胸に深く沈んだ。
グルは、しばらく黙ってから、絞り出すように言った。
「……俺は、怖い」
「うん」
「お前がいなくなるのも、
自分が生きてしまうのも」
ひとせは、少しだけ体を寄せた。
肩が、軽く触れる。
「それでいいんだよ」
「よくない」
「いいの」
彼女は、きっぱりと言った。
「グルはさ、優しすぎるんだもん」
風が吹いて、夕焼けが少し濃くなる。
「ね」
ひとせは、ゆっくりとグルを見る。
「約束して」
「……何を」
「私がいなくなっても、
この屋上を嫌いにならないこと」
グルの喉が、きゅっと鳴る。
「ここにはさ」
ひとせは、指で床を軽く叩いた。
「ちゃんと、楽しかった時間が残ってるんだから」
グルは、しばらく黙っていた。
そして、小さくうなずく。
「……努力はする」
ひとせは、それで満足したように微笑んだ。
「それで十分」
夕日が、地平線に近づいていく。
空の色が、ゆっくりと変わる。
ひとせは、そっと目を閉じた。
「ねえ、グル」
「……なんだ」
「今日まで、一緒にいてくれてありがとう」
その言葉は、別れの挨拶みたいで、
でも、どこか日常の延長でもあった。
「……こちらこそ」
グルは、声を震わせながら答える。
二人は、同じ屋上で、同じ空を見ていた。
何も起こらない時間が、静かに流れていく。
それが、
ひとせの望んだ“最後の場所”だった。
そして、
グルにとって、一生忘れられない屋上になった。
夕焼けが、屋上を赤く染めていた。
その中で、グルの体が、突然くずれる。
「……っ」
膝をつき、片手で喉元を押さえる。
呼吸が、うまくできない。
視界が、ぐらりと揺れた。
「グル!?」
ひとせが慌てて駆け寄る。
グルは、歯を食いしばりながら、絞り出すように言った。
「……おれ……
しばらく、人間の……その……」
言葉にするだけで、吐き気が込み上げる。
「食べてなかったから……
……やばい……」
それは、ずっと先延ばしにしてきた現実だった。
耐えられると思っていた。
でも、体はもう限界を迎えていた。
ひとせは、グルの前にしゃがみ込む。
その表情は、驚くほど落ち着いていた。
しばらくの沈黙のあと、
彼女は小さく、でもはっきりと言った。
「………いいよ……」
グルは、はっとして顔を上げる。
「……え?」
耳を疑った。
「……なんて……言った……?」
ひとせは、少しだけ息を整えてから、
まっすぐグルを見る。
「私を……食べていいよ……」
一瞬、世界が止まった。
「は!?」
グルの声が、裏返る。
「そんなこと……
できるわけないだろ!!」
涙が、勝手にあふれ出る。
「ふざけるなよ……!
そんな……そんなこと……!」
頭を振り、何度も否定する。
「お前は……
俺が守るって……!」
でも、ひとせは、首を横に振った。
「違うよ」
その声は、とても優しかった。
「私ね……
もう、残り時間が少ない」
夕焼けの中で、彼女は微笑む。
「だから……
どうせ眠るなら」
一歩、グルに近づいて、続ける。
「グルの中がいい」
グルの呼吸が、乱れる。
「……一緒に生きていきたいの」
それは、自己犠牲の言葉じゃなかった。
“選んだ”声だった。
「形は変わっても……
私、グルのそばにいたい」
グルは、両手で顔を覆った。
「……そんなの……
優しすぎるだろ……」
嗚咽が、止まらない。
「俺は……
そんな優しさ……
受け取れない……!」
ひとせは、そっとグルの手を握った。
冷たい指先が、確かにそこにある。
「グル」
名前を呼ぶ声は、穏やかだった。
「これはね……
お願いじゃない」
静かに、でも強く言う。
「私の、最後の選択」
風が吹き、夕日が沈みかける。
「あなたが生きることが、
私の“生きた証”になるなら……」
ひとせは、少し照れたように笑った。
「それ以上、
うれしいことないよ」
屋上には、二人の呼吸の音だけが残った。
それは、
愛でも、別れでも、
言葉にできない“境界”の瞬間だった。
空が、音もなく暗くなった。
ぽつり、と
屋上のコンクリートに、最初の雫が落ちる。
それは、合図みたいだった。
グルは、震える手を強く握りしめ、
何度も、何度も首を横に振った。
それでも――
ひとせの目は、最後まで迷っていなかった。
雨は、次第に強くなっていく。
夕焼けを消し去るように、
空と地面の境目を曖昧にしていった。
その時間が、
どれくらい続いたのかは、分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
そこにあったのは、
暴力でも、欲でもなかった。
選ばれた別れだった。
雨がすべてを包み込み、
音も、匂いも、涙も、
世界から切り離していく。
やがて、屋上には
一人分の足音だけが残った。
グルは、膝をついたまま、
雨に打たれながら、空を見上げる。
胸の奥に、
今まで感じたことのない“重さ”があった。
それは、空腹が満たされた感覚ではない。
生き延びた安堵でもない。
確かに、誰かがここにいたという感覚。
失われたのに、
消えてしまったのに、
なぜか、離れていない。
グルは、心の中で、静かにつぶやいた。
(……別れの味って)
雨が、頬を伝う。
それが雨なのか、涙なのか、もう分からない。
(こんなに……
悲しいんだな……)
屋上に降る雨は、
何も責めず、
何も赦さず、
ただ、すべてを受け止めていた。
それは、
ひとせが望んだ、
静かな終わり方だった。
そして同時に――
グルが、
生き続けてしまう物語の始まりでもあった。
翌日、教室はいつもと同じ光に包まれていた。
しかし、どこか空気が重い。
先生が前に立ち、黒板に視線を落とす。
「えー、本日をもちまして……
水山ひとせさんは、もう来ません」
その一言が、教室中に響く。
生徒たちはざわつき、困惑した表情を浮かべる。
「え、どういうこと?」
「昨日は普通にいたのに……」
友達同士で小声が飛び交う。
机の上に置かれた教科書を触る手が、少し震えていた。
その光景を、グルはぼんやりと見つめる。
胸の奥に、昨日の屋上の光景が重く残っている。
教室のざわめきも、
周りの困惑も、
もう、自分には関係ないことのように思えた。
(……来ない、のか)
静かに、視線を落とす。
ひとせの声、笑顔、最後に残した言葉――
すべてが頭の中に蘇る。
(でも、分かってる。
これが、彼女の望んだことだ)
隣の席の生徒が小声でささやく。
「ねぇ、グル……どうして困ってないの?」
グルは、微かに肩をすくめて答える。
「理由は……知ってるからな」
その声は、静かで落ち着いていた。
でも、胸の奥にある悲しみは、誰にも見せられなかった。
教室は再び、日常の時間に戻る。
けれど、グルの世界だけは、もう昨日の屋上の空と雨に染まっていた。
誰も気づかないけれど、
彼にとって、ひとせのいない世界は、
確実に変わってしまったのだ。
数年後。
夕方の校舎は、あの頃と変わらず静かだった。
制服ではなくなった服装で、グルはゆっくりと階段を上る。
きい、と音を立てて屋上の扉が開いた。
風の匂いも、フェンスの形も、
すべてが記憶の中と同じだった。
グルは、かつて二人で並んでいた場所に立つ。
もう、ここに来る理由を説明する必要はない。
「……久しぶりだな」
誰にともなく、そうつぶやく。
高校生だった頃、
この屋上で笑って、悩んで、眠って――
そして、別れた。
グルは、空を見上げた。
(ひとせ……)
胸の奥に、今も確かに残っている温もりを感じながら、
心の中で問いかける。
(おれ……
これからもうまく、やっていけるかな)
風が、そっと吹いた。
その瞬間、
記憶の中の声が、やさしく重なる。
(うん、グルなら大丈夫だよ!)
グルは、はっとして振り向く。
そこには、
夕焼けの光に溶けるような、ひとせの幻影があった。
あの日と同じ、穏やかな笑顔。
(いつでも、私は見守ってるから!)
グルは、しばらく何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、少しだけ軽くなるのを感じる。
「ああ……」
小さく、でも確かな声で答える。
「ありがとう」
幻影は、何も言わずに微笑んで、
やがて、風と光の中に溶けていった。
屋上には、再び一人分の時間が流れる。
グルは、フェンスに手をかけ、前を向いた。
悲しみは、消えない。
でも、それと一緒に、生きていける。
彼は知っている。
自分の中には、確かに彼女がいるということを。
――幼馴染グール。
それは、
優しい別れを胸に抱えて、
それでも前へ進む物語だった。
グルは、夕焼けの空の下で、
静かに歩き出した。
それから、さらに何年かが過ぎた。
春。
新しい制服、新しい教室、新しい時間。
ある高校の教室で、担任の先生が出席簿を閉じて言った。
「えー、今日は転校生を紹介します」
教室が、少しざわつく。
「水山グルさんです。前に出てください」
扉が開き、一人の生徒が入ってくる。
少し緊張した表情。
けれど、どこか懐かしい雰囲気を持った少年だった。
「……水山グルです。よろしくお願いします」
その声に、クラスの空気が一瞬だけ静まる。
先生は名簿を見ながら、続けた。
「お父さんと二人暮らしで、
お母さんはいないそうです」
誰かが、小さく「あ……」と声を漏らした。
少年――水山グルは、何も言わず、軽く頭を下げる。
その表情には、悲しみよりも、静かな強さがあった。
席に向かう途中、
彼はふと、窓の外を見た。
校舎の上のほう。
そこにある屋上を。
(……なんでだろう)
理由は分からない。
でも、胸の奥が、少しだけ温かくなる。
一方、その頃。
別の場所で、
大人になった肉食戸グルは、
いつものように空を見上げていた。
もう、制服は着ていない。
でも、あの屋上で学んだことは、今も生きている。
(ちゃんと……行ったかな)
彼は、心の中でそうつぶやく。
失ったものは、戻らない。
でも、つながりは消えなかった。
名前。
想い。
そして、生きていくという選択。
それらは、確かに次の世代へ受け継がれている。
肉食戸グルは、静かに微笑んだ。
「……大丈夫だ」
それは、かつて誰かに言ってもらった言葉だった。
教室の窓から差し込む春の光の中で、
水山グルは、自分でも知らない“始まり”を迎えていた。
悲しみから生まれた命は、
それでも前を向いて歩いていく。
――物語は、終わらない。
形を変えて、
静かに、
続いていく。