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『桜!?』
桜はうつろな目で座り込む。
私は義父に駆け寄り、首筋に指を押し当てる。
脈が触れない。
目は見開き、ピクリとも動かない。
義父は冷たくなっていた。
急に肺に空気を吹き込まれ、私は目を見開いた。
「はっ——」
「しっかりしろ、那須川!」
部長が私を腕に抱き、心配そうに名前を呼んでいた。
心臓がとにかくめちゃくちゃに飛び跳ねて、今にも口から飛び出してきそう。
「ぶちょ——」
「しゃべるな。ゆっくり息をしろ」
言われた通り、ゆっくり酸素を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
「落ち着いたか?」
ようやく心臓がスキップ程度の動きに戻った。けれど、耳に響く鼓動は強く早いまま。
部長の鼓動……。
「焦らすなよ……」と言って、私を抱く腕に力がこもる。
「すみません……」
「動かすぞ。つかまってろ」
「え?」
突然、身体がふわっと浮いた。
「ぶ、部長!」
俗にいう、お姫様抱っこ。
「暴れたら落ちるぞ」
過呼吸で倒れかけた私に暴れる気力はなく、不本意ながら大人しく部長に連れ去られる羽目になった。
数分後。
恐らく、定食屋から一キロも離れていないくらいのマンションの前で、部長が足を止めた。ゆっくりと私を下ろす。
息も整い、心臓も平常運転に戻っていた。
「あの、部長?」
「俺のマンション」と言って、部長はジャケットの内ポケットからカードキーを出した。
エントランスのオートロックの扉の横にあるタッチパネルにカードを読み込ませる。
ピッと認証する音がして、扉が開いた。
部長は私の手を引き、扉を抜けた。
部長の部屋は、十階だった。マンションは十三階建て。エレベーターのボタンが十三までだったから。
「ここ……分譲ですよね?」
口をついたのは、驚くほど間抜けな質問。
なのに、部長はしかめっ面で腕を組み、正面を見ていた。
「ああ」
聞いたからどうと言うことはない。部長クラスになればマンションくらい買えるだろうし、独身ならなおのことお金には困らないだろう。
エレベーターを降りると、すぐ右と正面十メートルほど先にドアがあった。部長の部屋は正面。
今度はカードキーをドア横のカードリーダーに通した。
ピッという解錠音と同時にドアを開けた部長に腕を掴まれ、私は勢いよく部屋に飛び込んだ。同時に、再び部長の腕に抱き締められた。
「部長……?」
「お前、何なんだよ」
「え?」
「今日は一日中、変だぞ」
部長のジャケットから煙草の香りがする。
「それ……は……忙しかったから……」
「違うだろ」
「少し……体調が悪くて……」
「そんなんでぶっ倒れるかよ」
耳に部長の息がかかる。
急に恥ずかしくてたまらなくなった。
男の人に抱き締められるなんて、もう何年もなかった。
「けど……、あの……」
「なんだよ」
「は、放してくださ——」
「ヤダ」
「え?」
「いい加減、わかれよ。いい年して悪ふざけで部下に手ぇ出すかよ」
嘘————。
部長の唇が私の耳に触れた。
偶然だと思う。
けれど、私の鼓動は加速を始め、再び全身が汗ばむ。
今度は耳たぶが温かく柔らかい物に挟まれた。ぬるっと生温かく湿った感触。
偶然じゃ……ない。
部長が私の耳たぶを舐め、その水音が鼓膜の奥まで響く。
「やっ——」
恥ずかしさのあまり、私は俯いた。
「男、いんの?」
「え?」
「営業の黛……とか?」
その名前に、私は反射的に思いっきり部長を突き飛ばした。
「あんな男——!」
黛の顔を思い出し、歯ぎしりをする。
「冗談でもやめてください!!」
「悪い……」
部長は呟くと、靴を脱いで部屋に上がった。手には私の鞄。仕方なく私も続いた。
ざっと見て、3LDKの部長の家は、無駄なものはなく、さっぱりしていた。きちんと片付けられていて、掃除も行き届いている。
男の人の家なんて、何年振りだろう……。
私は恋愛には縁遠く、付き合った男も三人だけ。そのうち一人は高校生のキスもしない交際。
三人目の恋人と別れて、もうすぐ二年半になる。
「酒よりコーヒーの方がいいか?」
「……ビールじゃないの、あります?」
今日は嫌な事ばかり思い出す。それを、忘れたかった。
部長は私にソファに座るように促し、梅サワーの缶を差し出した。私はお礼を言って、栓を開けた。
口に広がる梅の酸っぱさと、喉に流れるさっぱりとした炭酸のシュワシュワに、頭が冴えた。
「私がビール嫌いなの、どうして知ってるんですか?」
部長はビールの栓を開けながら、私の隣に座った。
「見てればわかる」
「ま……ゆずみさん……のことは?」
「見てれば……わかる」
そんなはずはない。
表情や態度に出ないように注意していたし、誰にも気づかれたことはない。
部長……何か知ってる……?
「見すぎ……ですよ」
自分でも何を言っているのだろうと、恥ずかしくなった。誤魔化すように、缶をあおる。
「確かに、見すぎだな」
たった五パーセントのアルコールが、思考を鈍らせる。
「なんで……見てるんですか?」
「……正直に言っていいか」
「はい?」
「お前に興味がある。ぶっちゃけヤりたい」
ヤりたい……って——。
「はっ——?」
甘い愛の告白を期待していたわけではないけれど、それにしても予想外だった。
「ぶっちゃけすぎです!」
「ああ、悪りぃ。けど、本心だ」と言った部長は、真顔。
「自分でもよくわかんねぇんだよ」
「何がですか?」
「お前に……その……恋愛対象として惚れてるのか」と言って、恥ずかしそうに目を逸らす。
なんで、ここで照れる?
「いい年してアレなんだけど、俺、自分から惚れたことなくて。お前が気になるのが恋愛感情なのか性的欲求からなのか、わかんねぇ」
…………。
言葉が見つからなかった。
いやいや、正直過ぎでしょ……。
さり気に自分はモテる自慢も入ってるし。
イライラしてきた。
『ヤりたい』って言われて、『いいですよ』なんて言うと思ってるの?
私、そんな軽い女に見られてるの?
「で?」
「は?」
「私にどうしろと?」
「ああ……。いや、だからさ……」
部長は自分の缶と私の缶をテーブルに置いた。私の肩に手を回す。
ゆっくりと部長の顔が近づいてきて、キスするつもりなんだとわかった。
「煙草吸う人、嫌いです」
私は部長の口を両手で抑えた。
「ビールと煙草の味のキスなんて、感じない」
部長が私の手をどける。
「バッサリだな」
「回りくどく言う必要、ないでしょう?」
「慕われてると思ってたのは、自惚れだったか?」と言って、部長が私の手にキスをする。
横目で私を見る。
大人の色気を感じないわけじゃない。部長を格好いいとも思う。
けれど、今の私は恋や快楽に溺れている時間も余裕もない。
「上司としては尊敬していますよ」
「男として興味なし……か?」
「部長は素敵な男性ですよ。ただ、私が欲しい男じゃない」と言って、部長を押し退けて立ち上がった。
「お前の欲しい男って?」
「…………」
気まぐれな上司へのちょっとした仕返しがしたくなった。
音を立ててうどんを食べるような三十路女は、ちょっと甘く囁けば脚を開くなんて思われたままでは悔しい。
それに、部長の私への興味を掻き立てて、今夜は一人で悶々と過ごせばいい。
私と同じように……。
「そうですね……」
私は部長の脚の間に片膝をつき、彼を見下ろした。
「煙草臭くなくて……」
煙草は義父を思い出す。
「女を見下したりしない……」
義父のような、黛のような、女を道具にしか思わない男は大嫌い。
「地位と財産のある男……」
黛に対抗できる権力のある男性。
「……かな?」
私は部長の唇をペロリと舐めた。
「介抱していただいて、ありがとうございました」
私は部長に捕まる前に、マンションを飛び出した。