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私が、密教の総本山である南山(なんざん・高野山)を訪れるのは初めてだ。
暗い廊下を進みながら、空海に呼び出された理由を考えてみたが、全く思い浮かばない。
廊下に片膝をついてから、「白川延信です」と訪(おとない)を入れた。
部屋に入ると、空海の背後に置かれた高燈台が、ジリジリと揺れながら淡い光を放っている。
その灯りは、むしろ結跏趺坐の空海を闇に沈め、背後に掛けられた軸(じく)だけを、赤黒く浮かび上がらせていた。
幅の広い掛け軸には、胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)が描かれている。
正式には、大悲胎蔵生曼荼羅(だいひたいぞうしょうまんだら)といい、中心には、四尊(しそん)の仏と四尊の菩薩が大日如来をとり囲んでいる図、「中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)」が置かれ、その周りを幾重にも神や仏がとり囲んでいる図像だ。
私が空海の前に坐ると、空海が右手の親指を背後に向け、「延信。あれが何か分かるか?」と呟いたので、私は見たままを、「胎蔵曼荼羅です」と答える。
すると空海は、まるで秘め事を話すかのように、少し前のめりになりながら、「あの絵を見て、どこかおかしいとは思わぬか?」と囁いたので、私は首を傾げた。
「はて、どこもおかしな所はありませぬが…」
空海は楽しそうに笑顔を浮かべている。
「胎蔵曼荼羅はな、子を孕んだ母親を著(あらわ)しておる。
しかし、その腹の子は母親に包まれながらも、その愛には気付いておらぬ。
母親は屋敷に包まれ、屋敷は街に包まれ、街は国に包まれ、国は世界に包まれ、世界は大日如来に包まれておるのじゃ。
じゃが、誰もそれらの愛に気付いてはおらぬ。
胎蔵曼荼羅は、この世の全てを著しておるはずなのに、描かれていないものがある。
何か分かるか?」
私は、この問い掛けにも素直に首を振った。
「分かりません」
空海の笑顔が大きくなる。
「鬼じゃよ」
私が、戸惑いながらも「しかし、それは…」と反論を口にしようとするのを遮って、空海が再び口を開いた。
「まことに、胎蔵曼荼羅がこの世の全てを著しておるのなら、仏や菩薩、神々だけが描かれておるのはおかしい。
鬼はどこにおるのじゃ?」
考え込む私を見つめながら、空海が楽しそうに囁いた。
「仏の中じゃ」
「えっ!」と驚きの声をあげる私を尻目に、空海の囁きは続く。
「菩薩の中にも、神々の中にも鬼が棲んでおる。
人と同じじゃ。
全てのものに表と裏が有るように、邪気と聖気の両方を孕んでおる。
分かるか?
神や仏は善ではない。
同様に鬼も悪ではないのじゃ。
ワシが何故、邪気を雨と呼ぶのか分かるか?」
私は、この質問に戸惑いながらも、「晴れの裏だからですか?」と問い掛けるように答えた。
しかし、その答えに満足できなかったのか、空海の話は続く。
「天から降れば雨、流れれば川、澱めば湖、行きつけば海となる。
しかし、その本質はただの水じゃ。
人が勝手に、ものの変化をそう呼んでおるだけで、呪(しゅ)を掛けているのと同じじゃ。
これは人も同じで、怒れば悪、笑えば善と呼ばれるが、本質は何も変わらぬ。
変わった気でいるだけじゃ。
そして、我らは人々の変わった気を利用して呪を掛ける。
掛けられた方は、掛かった気になり…
掛けた方も、掛けた気になっておるだけで、本質は何も変わらぬ」
私はため息を吐き出しながら、空海を嗜めた。
「良いのですか?
密教の頂きに君臨する貴方が、それを口にすると、鎮護国家の法さへも否定することになりかねませぬが…」
また、空海が短い息を吐き出して「フッ」と笑った。
「かたいことを言うな。
お主は、密教の弟子ではない。
霊枢の弟子じゃ。
そして、ワシにも密教という表の顔と、霊枢という裏の顔がある。
だが、それを仏の顔とも鬼の顔とも呼んでおらぬ。
呪が掛かってしまうでな。
じゃから、ワシは邪気も公平に雨と呼ぶのじゃ」
私は、「なるほど」と頷いてから、空海の雑談を遮るように、「そろそろ、私が南山に呼ばれた理由を教えてくれませぬか?」と訊ねてみた。
すると、空海は驚愕するようなことを、さらりと言ってのける。
「ワシを殺めて欲しいのじゃ」
その言葉に、私は眉をひそめる。
「戯れているのですか?」
私の不満に、空海は満面の笑みを浮かべながら首を左右に振った。
「戯れてなどおらぬ。
そろそろ、ワシも次の舞台に行こうと思うてな。
死という言葉も、人が作り出した呪なのだ。
騙されるな。
死は、それほど深刻なものではない」
私は、空海の真意を確かめるように、その顔をじっと見つめる。
「次の舞台ですか?」
「そうじゃ。次の舞台じゃ。
仏陀(ぶった)がそうしたように、ワシも涅槃というものを見てみたくなった」
その言葉に、私は思わず失笑してしまう。
「仏陀ですか…
仏教では釈迦、密教では大日如来。
人は、本当に涅槃まで行けるのですか?」
空海は、真剣な顔で大きく頷いた。
「行ける。
ワシは、この目で見たのじゃ。
涅槃に行った人間を…」
「何と!それはまことですか?
単に死者を見たというのではなく?」
今度は、空海が失笑する。
「お主は、ワシを空(うつ)けだと思うておるのか?
ワシの目は節穴ではない。
その者は、達者に動きまわっておったが、生きてはおらんかった」
「死者が動きまわっていたというのですか?」
空海が重々しく頷いた。
「初めて会うた時、歳(よわい)百を超える不老不死の王冰(おうひょう)は、町医者として働いておったが、明らかに虚(うつ)ろであった」
私は、驚きの声を上げる。
「王冰とは、黄帝内経を編纂されたという大昔の医学者ですか?
生きておられたのですか?」
空海は、呆れたようにため息を吐いて、「だから、生きてはおらぬ…」と言い置いてから、話を続ける。
「生きておらぬから、死ぬこともないのじゃ。
ワシは、虚ろとなった王冰から、直々に不老不死の秘文(ひもん)である黄帝内経の第七巻を託されたのじゃ」
「第七巻は、黄帝内経を編纂した王冰自身が、最初から無かったと公言していたのでは?」
空海は静かに首を振る。
「王冰が隠しておったのじゃ。
そこには、不老不死の法が記されておったからのう」
コメント
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「延信と胎蔵曼荼羅」…第21話、すごく重くて綺麗な話でしたね。 空海が曼荼羅の「中心にいないもの」に気づいて、そこに鬼を見出すっていう発想が、もう…深いなって。 「神や仏は善ではない。鬼も悪ではない」って台詞、響きました。 全文のテーマをちゃんと抱えてる感じがして、読んでてゾクゾクした。 そして最終盤の、空海が「ワシを殺めてほしい」ってさらっと言うところ…あれ本当に衝撃でした。 不老不死の話を持ち出しながら、「死は呪いだ」って笑う空海の狂気と覚悟、両方を感じました。 ここでいったん「あっ…まだ続くんだ」と思える終わり方で、続きがすごく気になります…
#すとぷり
るぃ@BL好き 🎀♡
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井野匠
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