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#短編集
有栖
192
rn
150
にゅうひん☆
550
「此の目では、出来る事が如何しても限られてくる。其れに、俺には優秀な弟が居る。…彼はどうやら、朔乃嬢と恋仲だったようだ。」
「えっ!?」
「…だからこそ、あの家には一切の未練は無い。」
「じゃあ…此れから如何するつもりなん!?」
向井の声が途切れ途切れに揺れ、目黒は僅かに目を伏せた。川沿いの静けさの中に、向井の切迫した息遣いだけが弾けている。
「あの時計は弟に託した。故に、此の先のお前との縁は切れる。お前が断れば…其の侭、俺は異国へ渡るつもりだ。」
「何で…何で…っ!」
向井の瞳から、堪えきれず溢れ出た熱い涙がポロポロと零れ落ち、乾いた土に小さな染みを作っていく。
出征の時とは違う。期限も無く、二度と帰って来ないかもしれない世界の果てへ行ってしまう。其の寂しさと、あまりに大き過ぎる目黒の選択に、向井の胸は押し潰されそうになっていた。だが、
「でも俺は…目黒さんと添い遂げられるような、そんな大層な人間とちゃう…っ!」
向井は押し寄せる情報量と現実に耐え切れず、逃げ出そうと身を反転させ、離れようとした。 其の瞬間、目黒は向井の肩に置いていた手にぐっと力を込め、去らせまいと其の身体を引き寄せた。竦む向井の背中を覆い隠すように、目黒は静かに両腕を回し、背後から其の華奢な身体を深く抱き締める。
「…待ってくれ。」
目黒には、向井の今の表情を見る事は叶わない。けれど、自分の腕を掴んで震えている指先の体温と、激しい動揺だけは、肌を通してはっきりと伝わっていた。
「此の想いに軽蔑しても、此の腕を振り解いても構わない。…せめて、お前の答えをはっきりと聞かせてくれないか。」
背後からしっかりと回された目黒の腕。与えられた其の温もりに驚き乍らも、向井は己の中に渦巻く不安を振り払う事が出来ず、震える唇を開いた。
「…俺、男やで?」
向井の問いに、目黒は一切の迷いも無く即座に言葉を返した。
「知っている。」
「只の時計屋やし、」
次いで紡がれた言葉。向井の声は情けない程小さく掠れていく。目黒は抱き締める腕にそっと熱を込め、慈しむように頷いた。
「其れも知っている。」
「何の取り柄も持ってへん…っ!」
言葉と同時に、向井の手が縋るように目黒の腕の袖口をぎゅっと握り締めた。己を卑下する其の指先は、哀しく震えている。
目黒は、向井の冷えかけた身体を自らの体温で温める様に深く包み込んだ侭、静かに首を振った。
「其れは違う。…お前は、」
静寂の中、深く一呼吸。目黒は己の胸の底に在る確固たる想いを言葉に乗せる。
「お前は、俺の人生を突き動かしてくれた。」
向井の肩が、言葉の重みに激しく震える。
「だから、」
目黒は、もう向井の思考を確かめる必要等何処にも無かった。 耳に心地良く響く声の揺れ。笑った時の柔らかい息遣い。そして何より──此の男と重ねてきた、時計の交換と云うかけがえの無い時間。
「康二。」
もう自分は、軍人でも伯爵でも無い。全ての重責を脱ぎ捨てた、唯一人の男として。
「…俺は、お前の存在が欲しい。」
「目黒さん、………おれ、も…っ!」
腕の中でぐるりと身を翻し、溢れんばかりの感情で答えられた其の答えを聞いた瞬間、目黒の唇には人知れず、生まれて初めて心からの穏やかな微笑みが浮かんだ。 目黒は愛おしい身体を強く強く抱き締め、向井は其の腕の中で子供の様に声を上げて泣いた。
目黒の外套の胸元に顔を押し当て、向井は何度も、何度も頷く。目黒はそんな向井を包み込み、暫く離そうとはしなかった。
二人が重なり合う胸元。向井のシャツの胸元に収められた手作りの時計が、互いの鼓動を感じ合い乍ら静かに時を刻んでいる。
カチ、カチ、カチ──…
もう誰かに決められた時間ではない。誰かの為に虚飾を演じる時間でもない。 二人だけの新しい時間が今静かに、動き始めていた。
甘いひと時の間に、ふと向井の腹の虫がきゅるるぅ、と小さく音を立てた。
「あっ、」
「…?」
咄嗟に腹を両手で抑える向井。一瞬首を傾げた目黒だったが、音の正体に思い至ると、喉を小さく鳴らして可笑しそうに笑った。
「昼餉にしようか。」
「…うん…。」
そっと抱擁を解かれると、林檎の如く顔を赤くした向井は、ぱたぱたと手で顔を扇ぎ乍ら再び目黒の手を自らの肩へと置いた。
向かったのは、向井の馴染みである渡辺の喫茶店であった。扉を開けると、煎り立ての珈琲豆の香ばしい芳香がふわりと鼻腔を擽る。
「なべさーん、邪魔すんで…ぇぇぇえええ!?」
カランコロンと涼やかなドアベルの音を響かせて店内に入るや否や、向井は目を見開き、開いた口が塞がらない程の叫び声を上げた。其の不意の大声に、隣で向井の肩に手を預けていた目黒がふっと首を傾げ、
「…康二、如何した?」
咄嗟に周囲の気配を探る様に耳を澄ませた。その先では、カウンター席から聞こえるカチャリという磁器の重なる繊細な音と、
「あれ?向井様…蓮様も。」
軽やかで聞き覚えの有る青年の声。其処には、いつも着こなしていた隙の無い黒の執事服ではなく、すっかり街に馴染んだハイカラな仕立ての洋装に身を包んだラウールが、珈琲カップを片手に足を組んで寛いでいた。
「…ラウールか…?何故此処に居る?」
目黒が不思議そうに問うと、ラウールはカップをソーサーに置き、くすくすと笑った。
「だって、此処が僕の来たかった場所だもん。向井様から頂いてた珈琲豆を試飲したんだけど、凄く美味しかったからさ。勉強も兼ねてね。」
主人相手にも臆する事の無い佇まいに、向井は完全に呆気に取られて固まっていた。
「えっ?えっ?…ラウールさん、言葉…?」
屋敷で出会った時のあの洗練された執事の面影は何処にも無い。丁寧語すら脱ぎ捨てた軽快で年相応な口調に、向井は動揺を隠せないでいた。そんな向井の混乱振りを察したように、目黒はふっと口元を緩める。
「ラウは、二十年来の俺の幼馴染だ。」
「ラウ…。へ、へぇえ…。」
向井の口から漏れたのは、何処か声音の落ちた生返事だった。
『幼馴染』という単語と、其の親しげな愛称。二人の間に漂う長年の気兼ね無い空気感。自分が知る由もない目黒の過去と、自分と出会うずっと前からの深い絆。
ラウールの執事としての仮面の下に在ったのは、目黒と対等に笑い合える存在だったのだという事実に、向井の胸の奥に小さなモヤモヤとした焦燥が広がり、無意識の内にぎゅっと拳に力が入った。
触れている肩から伝わる微かな強張りと、向井の発する空気の変化。目黒は双眸を向井の顔の辺りへと向け、悪戯っぽく口角を上げた。
「──嫉妬したか?」
「し、してへんわ!」
焦って声を上擦らせる向井に、目黒は更に煽る様に低く囁く。
「そうか。…残念だな。」
「ゔっ…。」
分かり易く声を詰まらせる向井にふっと目黒は笑んだ。
「安心しろ。お前に想いを伝える事に背中を押したのはラウだ。」
「えっ?」
向井が目を丸くすると、目黒は屋敷を抜け出そうと提案したあの夜の事を慈しむ様に振り返った。
《蓮様には、向井様が必ず傍に居てくれるよ。断言する。》
「ラウの言葉が無ければ、会っても何も云わずにお前の元から去っていた。」
「!…そう、なんや…。」
向井がぽつりと呟き、ラウールへ向ける視線がふっと柔らかくなったその時、奥の厨房から渡辺が現れた。
「うわっ…あ、えっと、いらっしゃいませ閣下。お出迎えが遅れまして申し訳御座いません。」
慌てて深々と頭を下げる渡辺に、目黒は静かに首を振る。
「気にするな。もうそんな身分では無い。」
「…はい?」
首を傾げる渡辺を他所に、目黒は向井の方へと顔を向けた。
「康二、ラウと相席でも良いか?今後の事について話しておきたい。」
「あぁ、うん。ええけど…?」
「えと…閣下はあの方と御知り合いで?」
状況に着いて行けずにおずおずと尋ねる渡辺に、ラウールがすっと立ち上がり、気品を残した美しい動作で丁寧に会釈をした。
「改めまして。元目黒家当主、目黒蓮様の専属執事を務めておりました、ラウールと申します。」
「っええええええ!?!?…って、えっ?元??務めておりました??」
放たれた言葉が全て過去形である事に目を丸くして大声を上げる渡辺に次ぎ、
「辞めたん、ラウールさんもなん!?」
驚きの第二波に見舞われる向井。其処へ更なる追撃として、ラウールが爽やかな笑顔で言い放った。
「あ、蓮様!僕、さっき住み込みで此処の従業員として採用貰ったよ!」
「そうか。良かったな。」
「いや目黒さん何でそんな物解りええん?」
「ラウール君!?何で今そんな大事な事云うんだよ!?」
向井と渡辺の息の合った各々への指摘が店内に響き渡る。
「いやぁ、言ったら言ったで…ねぇ?」
あっはは、と快活に笑って誤魔化すラウール。其の賑やかな笑い声に包まれ乍ら、向井と渡辺はぽかんと口を開けているばかりだった。
コメント
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2人が結ばれて本当に良かった〜! 幸せであったかい雰囲気最高すぎました☻続きも楽しみ♪
サムネから幸せな香りがする… お話もホワホワポカポカになってきましたね(幸)😇