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闇を切り裂いてハイビームが一筋差し込んだ。やがて車は少女たちの前で停まると、中から二人の男が現れる。
和美は清香を自身の体で隠すように前に立った。
「こんばんは、今帰ってるところ?」
声をかけたのは二人のうち、ガタイの良い運転手の方、石嶺だ。硬い和美の表情が、相手が石嶺だとわかるや否や和らいだ。
「びっくりしたぁ、怖い人かと思いました。今二人で帰ってるところです。刑事さんたちも帰るとこですか?」
石嶺はニコニコと柔らかい笑顔を湛えながら頷く。どうやら彼らはパトロール終わりのようだった。
「今パトロール終わって帰るところなんだ。もう暗いし、危ないから送ろうか?」
石嶺のパッと花が開くような笑顔に甘えて、和美と清香は送ってもらう事にした。
二人が後部座席に乗り込むのを遠くから見ている男がいた。闇の中で明るい車内はよく目立つ。
男は舌打ちをすると、頭をボリボリと掻きむしった。かつては清潔感があった髪も、あの日から手入れされておらず、雪が舞うようにフケが落ちた。
「やられる前に、僕がやらなきゃ」
車は闇の中を進んでいく。一人残された男は、爪を噛みながら佇んでいた。
考えすぎて眠れない夜を越え、次の日の放課後、私たちは作戦を決行する。
“公園で待ってる”
清香のスマホからメールを送信した。アドレスはわからないように設定してある。これで文也は例の公園にやって来るだろう。昌一からのメールの可能性がある以上、これを無視することはできないはずだ。
私と和美は花壇の影に隠れて、じっと辺りの様子を窺った。清香はブランコに座ると小刻みに揺れながら空を見ている。何度も深呼吸をして、緊張しているようだった。
ブランコに勢いがなくなる頃、文也はゆっくりと公園に姿を現す。彼は堂々としていて、そこから昌一への恐怖を感じることはできない。
文也は清香を目で捉えると、ニタニタと嫌な笑みを浮かべたまま近づいて行く。清香の表情が曇った。
「あれ? 高嶺さんじゃん。てっきり菊川さんかと思ってたよ。それで、何か用?」
立ち上がった清香の額には、玉のような汗が湧き出て、顔は青ざめ震えていた。その状態で彼女は努めて冷静に振る舞う。
「向井くん、前ここで平良くんに殴られていたでしょ。私、偶然それを見ちゃってさ、どうにかして助けてあげられないかなって」
文也はアハハと、サーカスで踊る陽気なピエロのような、この場には不似合いな明るい笑い声をあげた。ひとしきり笑い終わると彼は清香を見下ろして、彼女の肩に手の平を置く。清香はビクッと体を震わした。呼吸が少し荒くなっている。
「僕を助ける? 面白い冗談だね。菊川さんの入れ知恵かな? そう言えば、僕が君を信用すると思ったの?」
文也の右手は肩から首を経由し、清香の顎に添えられる。清香は目を伏せ、口を引き結んだまま涙を堪えていた。
「なに泣いてるの? 高嶺さんも菊川さんの仲間なの、僕は知ってるよ」
文也は清香の顎を持ち上げ、彼女と目を合わせる。清香はもう、これ以上文也と会話するのは難しそうだった。
私は可哀想な清香を見ていられず立ち上がろうとするが、腕を和美に掴まれて尻餅をついた。和美は私の瞳を覗き込み、静かに”信じて”と伝えてくる。
私は清香を見る。強く握った拳に爪が食い込んで痛かった。
「高嶺さんも僕のことストーカーだと思ってるんでしょ。じゃあ、仕方ないよね。目障りだから、仕方ないよねぇ」
ねっとりとした気持ちの悪い口調で文也は言う。顎に添えられていた手が、清香の頬や唇を撫で回すように這っている。
ニタニタと笑っていた文也の顔が、更に下卑た笑顔に変わったとき、清香の目がスッと鋭く細められた。
いきなり清香は文也の右手を払いのけ、空いた隙間を縫うように彼女の拳が文也の鼻頭を捉えた。
「なに触ってんのよ、気持ち悪い。私の顔に触れて良いのは、家族、友達、彼氏だけだから! さっさと昌一の情報だけ教えろよ!」
顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら清香は叫んだ。体の震えは消えていないのに、彼女からはブレない芯を感じた。
和美は私に目配せすると立ち上がる。文也に清香と私の関連性がバレている以上、作戦は失敗だった。私は即座に清香の元へと走り出す。
文也は鼻を抑えて蹲ると、低い唸り声をあげた。大きな声が私たちの鼓膜を震わし、思わず両手で耳を覆う。
文也はその一瞬を逃さず立ち上がると、力任せに清香をぶった。彼女の小さな体が、後方のブランコの辺りまで吹き飛ぶ。
間髪入れずに文也はこちらに近づくと私の髪の毛を引っ張り、地面に叩きつけた。ブチブチと嫌な音を立てて、頑張って伸ばしていた髪の毛が数本抜ける。
ゲホゲホと軽く咳き込んだ後、私はゆっくりと目を開いた。目の前に文也が佇んでいる。その瞳には真っ赤な怒りが満ちていて、凶暴な獣のようだ。視界の隅で、和美が顔面蒼白のまま立ち竦んでいる。
「和美ちゃん、高嶺さんと一緒に逃げて」
背中を打ちつけて、上手く声が出せない。途切れ途切れの言葉を何とか紡ぐが、和美は足から力が抜けて、動けないようだった。
痛みで上手く回らない頭を使って、私は必死にこれからの流れを考える。作戦は失敗し文也からは暴力を振られている現状、作戦は失敗したのだ。もうどうしようもない。だからここからは次の作戦だ。
怒りで我を忘れた文也は、鞄を投げ出し一心不乱に拳を振るう。その投げ捨てられた鞄に近づく、小さな人影があった。
「向井くんだって、そんな馬鹿じゃないでしょ。私たちの関係がバレて、失敗したらどうするの?」
作戦決行直前、清香は不安げな顔でそう言った。その疑問は当然だ。作戦が失敗に終わるリスクは大いに存在する。だからこそ、二の手が必要だった。
私は自分の考えを二人に伝えた。私の第二案を聞いた二人の第一声は”それ本気で言ってるの?”だった。
それもそのはず、その作戦は、本当に最終手段だった。私はこれまで、自身の手で由乃を追い詰めた犯人を捕まえる事にこだわっていたが、それを諦める作戦だ。成功すれば、確実に昌一を捕まえることができるが、失敗すれば大怪我じゃ済まないかもしれない。完全な博打だった。
「一番大事な役は変わらず高嶺さんだけど、大丈夫そうかな?」
清香は、おかしい人を見る目で私を見つめる。和美も同様だった。私は今、そんなに変な事を言ったのかと不安になるが、清香が呆れて了承してくれたので、それを気にしない事にする。
「一番大事なのは清ちゃんかもだけど、一番大変なのは紗世ちゃんだよ。ウチもウチの役割を全うするつもりだけど、見てられなかったら止めるから」
和美は細い指で私のおでこを指す。グリグリと押し付けられる指先が痛かった。
「うん、約束。三人で必ず成功させよう」
私は右の手で和美を、左の手で清香を掴んだ。この瞬間に感じた手袋越しの温もりを、私は忘れないだろう。
小さな人影が文也の鞄から何かを抜き取って、はや数分。私は亀みたいに体を丸めて、必死に耐え忍んでいた。私にはこの数分が何時間にも感じられて、ああ、私たちは賭けに負けたんだ、とほとんど諦めていた。
その時、不意に文也からの暴力の雨が上がった。恐る恐る顔を上げると、文也の顔が真っ青になり、歯の根をカチカチと鳴らしているのが見えた。
影が伸び始めた公園に現れたのは、一人の男だった。少し離れたこの場所からでも、一目で誰かわかる、そんな男だった。
彼はゆったりと、そして堂々と文也に向かって歩みを進める。文也はそれに合わせて一歩ずつ後退していた。
やがて、ジリジリと距離が詰まっていく。先に口を開いたのは男の方だった。
「ずいぶんと調子に乗ってるみたいだな、”奴隷”」
目立つ金髪をかき上げて、昌一は言った。
私の作戦は、いわゆる、”毒を以て毒を制する”だ。文也の暴力を止めるのに、更なる暴力を使う。それが私の思いついた第二案だった。
この作戦は、いくつかの賭けの要素を孕んでいる。まず第一に昌一がこの場に現れる事。そして文也が現れた昌一に対し、恐怖する事。
どうやら賭けの天秤は、私たちの勝ちの方に傾いたらしかった。
文也は昌一に背を向けると、一目散に駆け出して行く。しかし恐怖で覚束ない足取りはもつれあい、彼は派手に転んだ。
昌一は文也に近づくと、その豊満な体の上に跨った。昌一は暴れる文也を押さえつけると耳元で囁く。
「お前はいったいいつから、女を殴ったり、俺から逃れるほど偉くなったんだ? 変態ストーカー野郎が」
ゴン、と地面と何かが勢いよくぶつかり音をたてた。そこから先はあまりに凄惨で、私は彼らに背を向ける。
私は痛む体に手を当てて、路地裏の方に視線を送った。
私の作戦はいくつかの賭けの要素を孕んでいる。昌一の登場、文也の感情、そして最後に、彼らの存在。
視線を送った先には、和美と清香が立っている。殴られて痣の目立つ清香と、大急ぎで走ったため擦り傷だらけの和美だ。二人は自分たちの背後に広がる路地裏に、大声で何かを呼びかけていた。
私の頬に生暖かい液体が伝う。汚れまみれの手の甲で拭うと、それが涙だとわかった。
ぼやけた視界に映るのは、スーツ姿の二人の男性。一人は胡散臭い細身の男、もう一人はガタイの良い太陽のような男だ。
最後の賭けは彼らの存在。和美から聞いてパトロールをしている事は知っていたけれど、このタイミングでこの辺りにいるかは賭けだった。
私は手のひらで顔を覆うと膝から崩れ落ちる。私は、私たちは、自身を賭けた一世一代の大博打に勝ったのだ。
路地裏から急に二人の少女が飛び出して来て、危うくハンドル操作を誤るところだった。
キキーッと急ブレーキ音が町にこだまして、彼女らに当たるスレスレで車は停車する。
「ちょっと! 危ないよ! ・・・・・・どうしたの?」
説教をしようと車から降りたとき、やっと石嶺は彼女たちのただならない様子に気がついた。
茶髪の少女、東條和美は、全身擦り傷や汚れ塗れで、まるで何かから逃げて来たようだった。 もう一人の高嶺清香にいたっては、明らかに殴られた跡が残っている。
和美は車から降りて来た二人の姿を見て、大粒の涙を溢した。嗚咽を漏らしながら和美は必死に何かを伝えようとするが、言葉にならずに無意に時間だけが過ぎる。
「刑事さん! お願い、ついて来て!」
二人の内、比較的冷静だった清香がそう声を張り上げた。ヒビの入ったメガネの奥で、綺麗な瞳が潤み、石嶺の姿を映していた。
石嶺と松浦の二人は、脇目もふらずに駆ける少女たちを追い、ある公園に辿り着いた。そこにあったのは、まさに地獄絵図だった。
傷だらけの紗世、そして一心不乱に殴り続ける昌一の姿に、まだ配属されて間も無い石嶺は動けなくなる。
その中でたった一人、松浦だけが冷静だった。弩にでも弾かれたように走り出した松浦は、振り上げられた昌一の腕を掴むと、地面に押し倒す。
「十八時二十四分、暴行の現行犯だ」
ガチャリと昌一の腕に黒い手錠が掛けられた。松浦の声は今まで聞いた彼のどんな声よりも、低く、冷たく、地獄の閻魔でさえも震え上がるような、そんな声だった。
由乃を死に追いやった犯人、平良昌一は、たった今私の目の前で逮捕された。地面に押し付けられた金色の頭を振って、彼はもがいている。それはまさに、死にかけの虫が最後の一瞬まで生きようと必死に羽を広げているようで、とても惨めだった。
昌一の拘束から解放された文也は、石嶺に支えられて起き上がる。彼はボコボコに殴られて開かない目で、昌一を、私たちを睨みつけていた。
「痛い、痛い。ふざけるな、何で僕だけこんな目に遭うんだ。僕はただ、同じことを人にやり返しただけ。人のことを好きになっただけなのに、どうして、どうして」
大きく腫れた隙間から、一筋の水流が生まれる。それはやがて滝となり、彼の体を濡らして落ちた。
「許さない、あいつら全員許さない」
ボソッと文也は呟いた。彼は石嶺の腕を払いのけると、一目散に昌一に向かって駆け出す。獣のような絶叫と轟音が辺りに響いて、突き出された文也の拳は昌一に当たる事なく、彼の体と共に宙を舞った。
派手に地面に叩きつけられた文也は大きく咳き込む。結局彼は、何も成すことができなかった。
「くそ、許さない。僕を虐めた昌一も、僕から由乃さんを奪った真澄も、僕をはめたお前らも、絶対に許さない」
行き場を失った彼の拳は、力なく地面を叩きつけた。ドン、ドンと虚しいドラムが空間を揺らしている。
「よっちゃんを奪ったって、何?」
和美は静かに文也に語りかけた。その瞳は踏み潰された花を見るような憐れみに満ちていて、キュッと心が締め付けられるようだった。
「・・・・・・僕は由乃さんが好きだったのに、真澄が僕より先に由乃さんと付き合い始めたんだよ」
ドクンと心臓が一際大きく鼓動する。石嶺は無線で連絡していて、私たちの会話は聞こえていないようだった。
「真澄は由乃さんが死ぬまでずっと、彼女と付き合っていたのに、由乃さんが死ぬほど追い詰められているのに気づかなかった。僕だったら守れたかもしれないのに、アイツは僕から永遠に由乃さんを奪ったんだ」
私はゆっくりと隣に立つ清香を見る。その顔から表情は消えていた。
「何それ、そんなわけないじゃん。真澄には真澄の事情があったんだろうし、よっちゃんは弱みを見せるタイプじゃないんだから。それに真澄が誰と付き合ってようが、アイツの勝手でしょ。何が許さない、よ。アンタが文句を言う権利はないでしょ」
和美の言葉が、清香にも深く刺さっていくのがわかる。真澄は誰の物でもない。誰と付き合っていようが、彼の自由なのだから。
「ごめん、私、先帰るね」
震える声で清香は言った。俯く彼女の表情が、いったいどれほどの悲しみを内包しているか、私にはわからない。ただ、頼もしかった彼女の姿が、いつもより数段小さく見えた。
和美が驚いて声をかけるが、その声が清香に届く事はなく、小さい背中は路地裏に消えていった。
やがて、昌一を連行し終えた松浦が戻って来た。由乃を追い込んだ犯人は、たった今、松浦の手によって捕まった。それなのに、私の気持ちは以前晴れないまま、この空のように暗かった。
天気予報ではこれからまた、雪が降るらしい。唯崎町の空はまだ晴れない。