【卅話】
二人に手を引かれ、また衝立に視線を残しながら私は願った。彼らの未来に救いがあらん事を――
そうしてこの度の騒動は治まり、私達は平穏を得た。
「ああ、これから三時間もあの悪路を運転するのか――」
車に乗り込みながら私は思わず悲鳴の様な声を上げる。
「あちらに着いたら私がお肩を揉んで差し上げるから頑張って下さい」
蒼井さんはまるで他人事だ。野々村と云えば名残惜しそうに屋敷を見ていた。
「遥さんに未練があるのか?」
私は彼の様子を探る為にそんな軽口を叩いた。
いや、容易く翻弄されてしまった悔しさの八つ当たりかも知れない。
「未練?――無いと云えば嘘になりますね。」
通常の野々村だ。あの、様子のおかしい野々村では無い。
「野々村さんなら望めばきっと良い恋人にお成りですのに。遥も貴方をとても慕ってたし。」
蒼井さんは後部座席を振り返り彼にそう云った。
軽い言葉で、軽い抑揚で云っているにも関わらず酷く重く感じたのはきっと遥さんの傍に居て支えてあげて欲しい、と言った願望が在ったからだろう。
「恋人?」
野々村は笑った。
「好きだと仰ってたでしょう?」
「云った?――ああ――云った――ね。好きだよ、とても。でも恋愛とかそんな類の想いでは無いよ。肉親愛の様なものだろうね。」
「もし、もしですよ?遥がまた貴方を慕って逢いに来たらどうする?」
「それは迎え入れるよ。妹だから。」
蒼井さんは野々村の言葉にとても嬉しそうに笑った。
そして三時間の小旅行。
運転手に付き合って起きていると云った二人は早々に寝てしまった。
蒼井さんを家まで届け、何度起しても起きない野々村は自宅へ連れて帰る事にした。
家に着くなり野々村は甲斐甲斐しく働き、夕食を作るわ、お風呂を沸かすわでまるで家政婦か何かの様だった。
嫌な予感がした。
とにかく疲れていたので用意されるまま食べて寝ようとして居間で片づけをしている野々村におやすみ、と挨拶しようと顔を覗かせた。
少し開いた襖と襖の隙間。開こうと手を掛けて思わず痙攣的に行動を止めた。
見えたのは煌々と燃える灰皿、赤い炎の中に見えた若き志津子さんらしき女性、その横に映って、彼女の肩を抱いている――野々村に良く似た感じの男が
一瞬だけ見え、その姿を崩した。
「何処から其れを!」
襖を乱暴に開け放ち、それに近寄った。写真は燃えて形を崩す。慌てて消火しようとする私の手首を握り、
止める野々村。
びくとも動かない。野々村の首はだらりと折り曲げられている。
「お休みなさい、先生、、」
「何故ッ!」
「――お休みなさい。」
「お前は一体!」
「知りたいですか?――本当に?」
異様な首の動き、まるで怪談話に出てくる幽霊だ。
ヤツだ。
「知りたい――ね。」
「怖気づいた癖に?」
「――そうだ。いつかは、知らねばなるまい。そんな気がするんだ。」
「勇敢なこったな。」
彼は俯いたまま哂った。
「そうだ、僕ぁ家がねぇんだ。この家に置いてよ。」
「下宿があるとか何とか」
「嘘だよ。アイツが勝手に。アンタに気を遣わせまいと思ったんだろうな。本当は橋の下で雨露を凌いでる。大学に受かった途端、金も無いのに放り出されちまってな。俺を知りたいなら――接する時間が多い方が都合良いよなぁ?」
目一杯開かれた瞳孔、視点の定まらない視線。明らかに不審な彼の表情が――
まるで何かに憑依でもされているかの如くの異常な様でもって私を威圧する。
実に嫌らしい駆け引きである事位は分かっている――が一考の価値は在った。
私は彼に酷く興味を持ってしまっているし、彼は甲斐甲斐しく家事をしてくれる。
しかし何から何まで彼の意のままに動いてしまっている事に酷く抵抗は感じた。
今日だって彼が遥さんを責めると共に私に牽制を掛けて
私は彼と対を成す〝飴〟役として彼女の良心を擽らざる負えない状況に追い込まれた。
彼の言葉が見えない手となり、私は彼の意のまま駒を置かされてしまった。
それは私にとって非常に屈辱的な事だった。意趣返しをしたい所だが彼の方法に抗う方法は――
毒を持って毒を制す――すなわち言葉による束縛――
頭を過ぎるは学会の嘲笑。私は近頃の心理学と云うものの追求が何処に向かうのかを危惧してならなかった。
〝天才〟が紡ぐ冷酷な論文。
人を個人として扱わず、人を人と云う殻に押し込めて繋いでしまう方法論。
それをまるで宗教における偶像の様に崇める学者達。
天才が右向けば右を向く。そんな風潮に危機感を感じ、敢えて間逆の方法論を学会に提出した。
心でもって心を動かす――何て。自分でも馬鹿馬鹿しいと思う内容の論文。
人肌における脳内物質の分泌と精神
馬鹿馬鹿しい。腐っても学者が発信する内容のモノでは無い。
そんな事、自分でも嫌になるほど分かっていた。
でもそんなモノでも出さずには居られなかった。
私にとってアレは今の学会とその周囲に対する注意喚起だったのだ。
視点を変える必要が在る、と彼を妄信する訳にはいかない、とそう注意を呼びかけたかっただけだったのだが――
ドイツ帰りの人間と云う――所謂このご時世で絶対的な箔が付いている人間の付加価値に目が眩むのか皆は私を研究には向かぬ〝人道主義者(ヒューマニスト)〟と哂い、私は学会から実質的に放逐された。
研究と主義、感情は一緒の次元で考えるべきでは無い。
――そんな事は判っている。でも――
研究の使い道は後から付随するものであって研究者は只、研究するだけに徹すれば良い。
――本当に――本当にそうなのか?
間接的とはいえ〝人〟では無く〝国〟にとって都合の良い理論の元で何人の科学者が大量殺戮者になったと云うのだ。
結局、常識や名誉なんてものは時代に沿った洗脳でしか無いではないか。
心など無くしたくは無い。人道主義、結構じゃないか。私は私の方法で生きていく。そう誓った。
だからこそ受けた屈辱も大きく、また意趣返しも出来なかった。いや、遥さんに感情的な話を喚起させた時点で意趣返しだと思っていた。
それが彼の計算上だと知りながら踏まされる屈辱は酷く自分を追い詰め、今、こうして自責の念を払えずに居る。
彼の傍に居る限り、こんな想いをするだろう事は想像に容易い。しかし事実、私にも旨みが無い話では無い。
――これは――仕方が無いだろう。
「分かった。正し余り勝手な真似はするなよ?」
「勝手な真似?」
「今みたいな勝手な証拠隠滅だよ。これは遥さんの父親の情報として警察に――」
「ああ――これ。こんな物、無かった方が良いのさ。どうせ警察にあの人は裁けない。」
「裁く?彼は何も――」
「如何してあんな小娘があんな狡猾な方法を思い付いたのか――偶然だとでも思うのか?」
「遥さんは聡明な人で――」
「嗚呼、聡明だろうな。記憶力が凄く良い。」
「如何いう意味だ?」
「遥が母親を言葉で操った様に遥も誰かに操られた――とは思わないか?」
私は絶句した。目の前に浮かぶは無限に続く合わせ鏡の世界。
何処まで行っても救われない。そんな風景が私の呼吸を圧迫した。
「どうせ何も証拠など出ない。警察に云った所で相手が相手だ、調査にもならない。捕まった遥の母親もきっと口にすまい。」
「――彼を知っているのか?」
やっと口からひり出せた言葉は何とも稚拙な問いかけだった。
血の気が引く。少し気が遠くなって茶卓へ手を付き、体を支えた。
「知っているも何も――」
彼は突然、自嘲する様な、暗い暗い笑い声で哂った。
「云えない。少なくともアンタは聞かない方が良い――少なくとも今は。」
彼はそう云って突然酷く柔らかい笑顔で微笑んだ。
私の頬をなぞる彼の手は死人と間違う程に酷く冷たかった。頬を汗が流れた。酷く冷たい汗だ。
彼の冷たい指先が私の頬を何度も撫ぜた。
記憶――揺さぶられる感触に――頭が――割れそうだ。
嗚呼、また距離感がずれる。視界が〝他人事〟になる。そして白く、白くぼやけて――
か弱い意識の底で野々村が私の体を受け取った様に感じた。肩に、頬にヒヤリと冷たい感触がした。
肩を――貸して貰っているの――だろうか。
霞懸かった視野に朧に見えた家の廊下が木目がするすると流れる。
――お休み、良い夢を――。
恐らくは野々村の声。優しい、中性的な声。
その声に導かれる様に私の意識は深く沈んだ。
【締】
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