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第5話 他人の恋なら、よく見える
別れてから、ハイエナは事務室へ来なくなった。
最初の三日は、気を遣っているのだと思った。
どこから聞いたのかは知らないが、彼なら事務職員の顔を一目見ただけで気づくだろう。いつもの椅子へ座り、勝手なことを言われるより、今は来ない方がありがたい。
一週間を過ぎると、その静けさが妙に気になった。
窓口の外で足音が止まるたびに顔を上げる。
廊下で笑い声がすれば、尖った耳が見えないか探す。
別れたばかりの自分へ、つけ込むように近づいてくると思っていた。
俺ならそんな顔させない、と。
今なら俺を選べ、と。
そう言われたところで、頷くつもりはなかった。
失ったばかりの恋を、別の相手で埋める気もない。
それでも、来ると思っていた者が来ないことは、予想以上に落ち着かなかった。
事務職員は、何度も空の椅子を見た。
そこへ座っていた男の言葉を、思い出したくもないのに思い出した。
お前の顔は前から読める。
俺なら、そんな顔させねぇ。
俺のことなら何でも言う。
介助職員と別れたことを、まだ誰にも相談していない。
けれど、もし誰かに話すなら、最初に顔が浮かぶのはいつの間にかハイエナになっていた。
その事実に気づくたび、事務職員は自分へ腹を立てた。
十日目の午後、ようやくその姿を見つけた。
ハイエナは事務室の前を通り過ぎようとしていた。
以前なら、用がなくても扉から顔を覗かせたはずなのに、こちらを見ることさえしない。
「君」
呼ぶと、足だけが止まった。
「……君、最近俺のところ来ないね」
「用がねぇから」
「…………は?」
あまりに平坦な返事だった。
ハイエナは事務職員の顔より、準備区域へ続く廊下の方を見ている。
「あいつ、今日いるか?」
「誰」
「介助の。お前と付き合ってた奴」
胸の奥が、遅れて冷えた。
「いるけど。何の用?」
「お前には関係ねぇ」
「関係ないって……君、俺に会いに来てたんじゃないの?」
「前はな」
「じゃあ今は?」
「もう済んだから」
もう済んだ。
何が、と聞く前に、ひとつの問いが口から落ちた。
「君……俺のこと好きなんじゃなかったの?」
ハイエナは、ようやく事務職員を見た。
「好きなふりはしてた」
意味を理解するまで、数秒かかった。
理解してからも、聞いた言葉を頭の中でもう一度並べ直した。
好きなふり。
好きだった、ではない。
好きだと思っていた、でもない。
最初から、ふりだった。
「……ふり?」
「ああ」
「何のために」
ハイエナは答えをためらわなかった。
「お前らを別れさせるため」
事務室の音が消えたように感じた。
紙をめくる音も、遠くの足音も、何も聞こえない。
「……誰が、誰を?」
「お前と、あいつ」
「どうして君が」
「俺が欲しいのは、お前じゃねぇから」
ハイエナは準備区域へ続く廊下へ目をやった。
それだけで、誰のことを言っているのか分かった。
「彼……?」
「最初からな」
事務職員は笑いそうになった。
笑えるはずがないのに、喉から乾いた息が漏れた。
「嘘だ」
「嘘じゃねぇ」
「だって君、毎日ここに来て、俺に――」
「だから、ふりだっつってんだろ」
机の縁へ手をつく。
立っていなければならないのに、足元が定まらなかった。
「俺を君へ靡かせるつもりだったの?」
「そこまでは要らねぇ」
即答だった。
「お前があいつを信じきれなくなればよかった。あいつの仕事を見るたびに苦しくなって、二人の間が開けば、それで足りた」
自分を恋人にしたかったわけですらない。
ただ、別の男へ近づくために、自分の心へ手を入れた。
「じゃあ、あの話は?」
「どれだよ」
「あの青年が彼を探してたとか、介助が好きだって言ってたとか。君の仲間が、俺の近くで話してた」
「嘘は言ってねぇ」
「そうじゃない。俺に聞こえるようにしたのかって聞いてるんだ」
短い沈黙のあと、ハイエナは頷いた。
「全部じゃねぇ。勝手に届いた話もある。仲間に機密を探らせたわけでもねぇ。ただ、使える話はお前へ届くようにした」
「使える……?」
「あいつが誰に必要とされてるか。誰があいつに懐いてるか。お前が聞けば嫌がる話だけな」
「彼がちゃんと線を引いてたことは?」
「流してねぇ」
「知ってたの?」
「見てりゃ分かる」
その答えが、一番深く刺さった。
介助職員が必要以上に触れなかったことも、甘えに流されなかったことも、恋人を裏切っていなかったことも、ハイエナは知っていた。
知っていて、安心できる部分だけを切り落とした。
「俺が嫌がるって、分かってた?」
「ああ」
「彼に聞けなくて、不安になるのも?」
「分かってた」
「君が何でも言うって言えば、彼と比べることも?」
「そのために言った」
一つ答えられるたびに、過去の言葉が別の形へ裏返っていく。
お前の顔は読める。
俺ならそんな顔させない。
俺のことなら何でも言う。
優しさに見えたものは、全部、弱い場所を確かめるための指だった。
「最低だよ、君」
「……ああ」
「じゃあ俺たちが別れたの、君のせいなの?」
ハイエナは少しだけ考えた。
「違う」
「違う?」
「俺が何もしなくても、お前はいつか同じとこで苦しくなった。あいつは仕事を辞めねぇ。お前も守秘を破れとは言えねぇ。そこは俺が作ったもんじゃない」
冷静な言葉だった。
事務職員が誰にも言えずにいたことを、当事者でもない男が迷いなく言葉にした。
「でも、俺が早めた」
認め方まで、ひどく正確だった。
「彼が俺を大切にしてたことも、見えてたんだね」
「見えてた」
「彼が、こんなやり方を一番嫌うことも?」
一瞬だけ、ハイエナの耳が伏せかけた。
けれど、答えは変わらなかった。
「分かってた」
事務職員は、目の前の男を見た。
「他人の恋なら、よく見えるんだね。君も」
ハイエナは何も言わない。
「見えてて、やったんだ」
「ああ」
手が動いた。
乾いた音が、廊下へ響いた。
ハイエナは避けなかった。
頬を打たれた勢いで本気でよろめき、肩から壁へぶつかりかける。
「危ない!」
横から伸びた腕が、その身体を受け止めた。
介助職員だった。
事務職員は息を止めた。
介助職員はハイエナの腕と背を支え、転倒しないことを確かめてから、こちらを睨んだ。
「お前、利用者に何してる!?」
コメント
1件
ハイエナの「好きなふり」発言、めっちゃ刺さった……💔 全部計算だったって、知っててやってたって、それが一番怖いし悲しい。 「他人の恋ならよく見える」ってタイトルがここで効いてくるの、ずるいよ。 最後の平手打ちからの介助職員登場、めちゃくちゃ緊張した…続きどうなるんだろ🤍 Hp2さんの心理描写、丁寧で重くて、でもちゃんと読みたくなる。好きです。