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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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続き。
三人目の妻は、二人目の妻の友であった。
私が自分の指で拾った一行が、麗子様の握りつぶした紙の中にある。
私は答えなかった。答えられなかった。
麗子様は、私の沈黙を確かめるように一度だけ目を細めて、それから身を引いた。
「麗子。皆様に、お詫びを申し上げなさい」
藤堂子爵の声は、広間の端まで届いた。
麗子様は、しばらく動かなかった。黒い夜会服の背中が、まっすぐに伸びている。
やがて、客たちのほうへ向き直り、深く頭を下げた。
「……お騒がせいたしました」
声は、震えていなかった。けれど、上げた顔の真紅の唇だけが、ひどく色を失って見えた。
「三枝君」
子爵が、社主を振り返った。
「あの連載は、今月限りにしてもらう。いいね」
三枝氏は、額の汗をハンカチで押さえながら、何度も頭を下げた。
「は、はい。八月号の組版は、明朝すぐに崩させます。連載は、本日をもって中止ということで」
組版を、崩す。
京橋の印刷所の、あの組み枠の中の活字が、一本ずつ活字棚へ戻されていく。友、の一字も。
私は、膝の力が抜けそうになるのを、帯の上の銀の活字を指で押さえてこらえた。
子爵は、侯爵様と私の前へ進み出た。
片眼鏡を外し、白い顎鬚の下で、深く頭を垂れた。
「久遠寺君。奥方。娘の不始末は、この藤堂が詫びる。どうか、許してやってほしい」
広間じゅうが、息を詰めてそれを見ていた。
侯爵様は、しばらく子爵の白髪の頭を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと一礼した。
「詫びは、受けます。……今夜、この場で妻の名誉を守っていただいたことに、礼を言います」
子爵が、驚いたように顔を上げた。
人前で娘を叱り、頭を下げた。その一つで、明日からの社交界の噂は、久遠寺ではなく藤堂の話になる。子爵は、それをわかったうえで、そうしたのだ。
侯爵様も、それをわかっている。
侯爵様の腕が、私の肩に回された。
黒い手袋の手が、藤色の袖の上から、しっかりと私の肩を包む。
「帰る」
それだけ言って、侯爵様は歩きだした。
人の輪が、さっきよりも大きく割れた。扇の陰の囁きが、私たちの背中を追いかけてくる。
「ご覧になって。侯爵様が、あんなふうに奥様を」
「妻殺し、だなんて。あの方、奥様しか見ていらっしゃらないじゃないの」
肩に置かれた手は、玄関の広間に出るまで、一度も離れなかった。
広間を出る間際、人垣の向こうで、藤堂家の執事がお駒さんの腕を取って、裏のほうへ連れていくのが見えた。お駒さんは、一度もこちらを振り返らなかった。
*
車寄せには、まだ自動車が来ていなかった。
真柴さんが、運転手を呼びに石段を下りていく。
侯爵様は、私の肩から手を下ろした。
何も言わなかった。
三人目の妻には、秘密がある。麗子様が読み上げたあの一行を、この人は、私の半歩後ろで聞いていたはずだ。
けれど、何も訊かなかった。雁皮紙の夜と、同じように。
訊かれないことが、訊かれるよりも怖いのだと、私はこの家に来て初めて知った。
玄関の横の大きな窓から、夜の庭が見えた。月明かりの下で、噴水が細い水を噴き上げている。
その水盤の縁に、黒い影が一つ、うずくまっていた。
黒い夜会服。断髪の、細い首。
麗子様だった。肩が、小刻みに震えている。
「旦那様。少しだけ、よろしいですか」
侯爵様が、窓の外と私の顔を見比べた。
「手を離すなと、言ったはずだ」
「戻ってまいりました。さっきも、ちゃんと」
私は、侯爵様の手袋の指を、一度だけ握った。
「今度も、戻ります」
侯爵様は、左の眉を指でなぞった。長くはなかった。
「五分だ。ここから見ている」
*
噴水の水音が、近づくにつれて大きくなった。
麗子様は、水盤の縁に腰かけて、象牙の煙草ホルダーを指に挟んでいた。火は、点いていなかった。足元に、擦りそこねたマッチの軸が何本も落ちていた。
足音に、麗子様が顔を上げた。
頬に、涙の筋が光っていた。真紅の口紅が、唇の端で少し滲んでいる。
「何よ。笑いに来たの」
「いいえ」
私は、少し離れたところに立ち止まった。
「どうして、私のことを知っていたのか、伺いに」
麗子様は、ふっと鼻で笑った。それから、空を仰いだ。
「千鶴さんがね、よく話していたのよ。神田の活版所に、紙を見れば何でもわかる子がいる。名前は栞。可愛いけど、怒らせると怖いのよ、って」
私は、喉の奥が詰まるのを感じた。
「新聞の華族の婚姻欄で、志摩栞という名前を見たとき、すぐにわかったわ。この子が、あの栞だって」
「では、あの一行は」
「あの人の前で、読んでやりたかったの」
麗子様の声が、低くなった。
「冬馬さんが、千鶴さんの友達を、知らずに娶ったのか。知っていて娶ったのか。顔色が変わるかどうか、この目で見たかった」
知っていて、娶った。
そんなことは、考えたこともなかった。
雁皮紙を見た夜、侯爵様は、千鶴さんがなぜ私の名を書いたのかを、一言も訊かずに紙を返した。
訊く必要が、はじめからなかったのだとしたら。
私は、窓辺に立つ黒い影を振り返りそうになって、こらえた。
「茶会のお菓子も、麗子様が」
「ええ。お駒にお金を握らせたのは、私よ」
麗子様は、あっさりと認めた。
「追い出してあげようとしたのよ。下し薬で済むうちに。あなたが逃げ帰れば、あの家に四人目は来ない。そう思ったの。……あなたが、思ったより強情だっただけ」
噴水の飛沫が、夜風に乗って頬にかかった。
麗子様は、火のない煙草ホルダーを、指の間でくるりと回した。
「千鶴さんはね、死ぬ前に言っていたの。小夜子様は、病気で死んだんじゃない、殺されたんだ、って」
「……殺された」
「どうしてそう思ったのか、訊いても教えてくれなかった。それだけは、最後まで」
麗子様は、唇を噛んだ。滲んだ紅が、また少し広がった。
「私はずっと、冬馬さんがやったんだと思ってた。千鶴さんも、それに気づいて殺されたんだって。だから、あの連載を書いたのよ。世間が皆であの家を見ていれば、三人目には、手を出せないでしょう」
麗子様の目から、また一筋、涙が落ちた。
「でもね、今夜、あなたが広間で私を追い詰めているあいだ、ずっと思い出していたの。あの日のミモザの千鶴さんの顔。あの子、冬馬さんを疑っている顔じゃなかった。怯えていたのよ。あの家の中の、何かに」
「勘違いなさらないで」
麗子様は、手の甲で乱暴に涙を拭った。
「あなたを助けたいわけじゃないの。あの人を許せないだけ。……あの一行は、もう誰にも読ませないわ。あなたが自分で言うまではね」
私は、何と言えばいいのかわからずに、ただ頭を下げた。
あなたも、あの人を疑って嫁いだんでしょう。麗子様は、そうは言わなかった。言わないでいてくれたのだと、少し遅れて気がついた。
背中のほうで、自動車のエンジンの音がした。五分が、過ぎようとしていた。
踵を返しかけた私の袖を、麗子様の左手が掴んだ。
「待って。続きを、知りたくないの、って言ったでしょう」
振り向くと、麗子様は、私の目をまっすぐに見上げていた。
涙の止まった目だった。
「一人目の奥様は、身籠っていたのよ。誰にも知らされないまま、死んだの」
コメント
1件
みぅです、読み終わりました……🥀 麗子様、敵かと思ってたけど、千鶴さんのことを想って動いてたんやね。最後の「一人目の奥様は身籠っていた」って台詞、心臓が止まるかと思った……。侯爵様が栞の肩を離さなかったの、ずっと守ってたの、切なくて美しかった。この物語、どんどん闇の向こうに優しさが見えてくる気がします。続きが気になる……!